湯島村(読み)ゆしまむら

日本歴史地名大系 「湯島村」の解説

湯島村
ゆしまむら

[現在地名]城崎町湯島

現城崎町の北部、円山まるやま川左岸の大谿おおたに川渓谷に沿って位置する。温泉が湧出することで古くから知られ、古代の創建と伝える温泉おんせん寺がある。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図には、北接する桃島ももしま村への道、西方の美含みくみ松本まつもと村・芦谷あしだに(現竹野町)への道が描かれるほか、円山川左岸沿いに豊岡城下方面へ向かう道も描かれているが、豊岡を経由する入湯客は円山川舟運によった。享和二年(一八〇二)の菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)に、豊岡からは「湯島へ川舟を出す、是より陸地を行ケば、海辺又ハ河岸をつたひ行ク、岩石の艱路なるよしなれバ、猶舟に乗て行ク」とある。

江戸時代の領主の変遷は、はじめ豊岡藩領、正保元年収公されたが翌年同藩領に復帰。承応二年(一六五三)再び幕府領となるが、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となり、享保一一年(一七二六)に至る。同年収公され、以後幕府領で幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、正保三年「城崎郡川西一万石山堺写」三宅家文書、「京極家半知之記」但馬志料、「豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付」岡本家文書など)

湯島村
ゆじまむら

[現在地名]早川町湯島

新倉あらくら村の北にあり、東へ山を越えれば平林ひらばやし(現増穂町)十谷じつこく(現鰍沢町)、北は奈良田ならだ村、西は二〇〇〇メートルを超す山並が駿河との国境をなしている。早川入一八ヵ村の一。枝村に下湯島があり、現在は本集落を上湯島という。上湯島の北方、支流川が早川に合する地点に古くから知られた西山にしやま温泉がある。地名も付近の温泉湧出に由来するものと考えられる。新倉との間を結ぶ早川はフォッサマグナの露頭で知られ、急崖の連続する地形となっている。このため湯島村は下流域よりも東の富士川沿いの地域との往き来が多かったと思われる。

天正九年(一五八一)六月一九日、湯島郷に対して天文一九年(一五五〇)の印判状を追認するかたちで商売に関する諸役を免許する旨、武田家の印判状(西山村役場旧蔵文書)が出されている。

湯島村
ゆしまむら

[現在地名]大矢野町湯島

大矢野島西方の湯島に一村をなし、明治一三年(一八八〇)かみ村より独立した村。湯島は上島と肥前島原半島との中間に浮ぶ島。慶長国絵図に「湯野島」とみえ、元禄一四年(一七〇一)の肥後国絵図変地帳(県立図書館蔵)には「上村之内湯島村」とあり、伊能忠敬の「測量日記」に「上村持湯島又談合島と云人家多し一周測シ三十一丁一十間五尺野釜島人家あり一周測シ三十丁九間五尺」とある。

湯島村
ゆしまむら

[現在地名]鳳来町中島なかじま

山中やまなか村の西、寒狭かんさ川沿いにあり、恩原おんばら村に対する。明治一四年(一八八一)中島村の戸口は一八軒、男四五人・女五〇人。馬一七頭を飼育している(中嶋村誌)

湯島村
ゆしまむら

[現在地名]静岡市湯ノ島ゆのしま

藁科わらしな川上流に位置し、南は藁山わらやま村など。村名はかつて温泉が湧き出たことに由来するという(修訂駿河国新風土記)。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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