浜田村(読み)はまだむら

日本歴史地名大系 「浜田村」の解説

浜田村
はまだむら

[現在地名]四日市市浜田町・諏訪すわ町・諏訪栄すわさかえ町・西新地にししんち三栄さんえい町・中部ちゆうぶ元新もとしん町・沖の島おきのしま町・さかえ町・さいわい町・朝日あさひ町・ほん町・新々しんしん町・中浜田なかはまだ町・南浜田みなみはまだ町・新正しんしよう一―二丁目・北浜田きたはまだ町・十七軒じゆうしちけん町・昌栄しようえい町・南起みなみおこし町・末広すえひろ町・あけぼの町・曙一丁目・城東しろひがし町・西末広にしすえひろ町・相生あいおい町・南納屋みなみなや町・鵜の森うのもり一―二丁目・安島やすじま一―二丁目・西浦にしうら一丁目・堀木ほりき一―二丁目・九の城くのしろ町・西浜田にしはまだ町・赤堀新あかほりしん

北は四日市宿みなみ町、南は赤堀あかほり村に接し、東海道に沿って民家が並ぶ。村のほぼ中央を阿瀬知あぜち川が東流する。幕末・明治初期と思われる浜田村耕地絵図(四日市市立図書館井島文庫蔵)によれば、東海道を隔てて西と東に本田があり、東方海岸に向かって「子改新田」「卯改新田畑」「古新田畑」「浜古新田畑」がある。延享二年(一七四五)の四日市古絵図写(同文庫蔵)によれば、四日市町の東南、現沖の島町付近に浜田村の出郷があったことが知られる。「三国地志」は鴨長明作といわれる「伊勢記」を引いて、古く浜村と称したとし「行詫ぬいさ浜村に立よらん、朝気過れは日永なりけり」の歌を載せる。

浜田村
はまだむら

[現在地名]尼崎市浜田町一―五丁目・崇徳院すとくいん一―三丁目・大庄川田町おおしようかわたちよう菜切山町なきりやまちよう琴浦町ことうらちよう

東大嶋ひがしおおしま村の東に位置し、東はよも川を隔てて川辺かわべななまつ村・西難波にしなにわ村。中世浜田庄の遺称地。永正一六年(一五一九)一二月から翌年一月にかけての細川高国と澄元両軍の攻防では、両軍が入れ替りに浜田などに陣をとっている(細川両家記)。天文一一年(一五四二)には三好長慶が当村に国質・所質や請取沙汰などを禁止し(同年九月日「三好長慶禁制」寺岡文書)、細川晴元配下の武将として摂津西半国守護代を勤め、越水こしみず(現西宮市)を拠点に勢力を広げつつあった長慶の支配が及んでいた。長慶没後三好三人衆と松永久秀の対立抗争が激化しつつあった永禄九年(一五六六)七月一七日には、次期将軍足利義栄を擁した三好三人衆方の篠原長房率いる四国の軍勢が、西宮から尼崎近辺の当地などに陣替えしている(細川両家記)。天正一四年(一五八六)頃には豊臣氏奉行の増田長盛が当村と大嶋村の井水出入について裁定を下しており(二月二一日「増田長盛折紙」寺岡文書)、同一七年四月一九日には同奉行の石田三成が「津国はま田百姓」に作職や口米の量、京升の採用などについての掟書(同文書)を与えている。

浜田村
はまだむら

[現在地名]陸前高田市米崎町よねさきちよう

勝木田かつぎだ村の西にあり、西は高田たかた村、北は大船渡おおふなと村。南は米ヶ崎よねがさき半島が広田ひろた湾に突き出す。南を浜田川が流れ広田湾に入る。川沿いを浜街道が通り、通岡かよおか峠を越えて東の末崎まつさき(現大船渡市)へ向かう。長坂千葉系図(千葉文書)および日高社千葉系図(日高神社文書)によれば、源頼朝の重臣千葉七郎頼胤の五男五郎胤重は気仙けせん郡浜田城(米ヶ崎)城主であったという。胤重は浜田五郎ともよばれた浜田氏の祖とされるが(奥州葛西動乱記)、当地に住したかどうかなどはっきりしない。文和元年(一三五二)熊谷直次は気仙郡内三〇〇余町を与えられ、浜田の鳥崎とりさき城に移った。同城は貞治三年(一三六四)今泉了元らの攻撃により落城し、熊谷氏は滅亡したという(「熊谷家系図」熊谷文書)。鳥崎城が当村のいずれにあったか不明。

浜田村
はまだむら

[現在地名]鹿屋市浜田町

霧島きりしまおか山系の西側一帯に位置し、北は鹿屋郷飛地の南高洲みなみたかす村、東と南は大姶良おおあいら村、西は海に面する。往古は港で葦箇あしが浜とよばれたが、砂浜となって係船できなくなったという(三国名勝図会)。小字にあしみなとがある。海岸砂丘と東側の山地・台地の間は低湿地で、その南から瀬筒せづつ峠へ登る坂を大王だいおう坂とよび、その下には用水池の大王池・臼山うすのやま池がある。中世は禰寝北俣ねじめきたまたのうちで、大姶良四ヵ村の一。治暦五年(一〇六九)一月二九日の藤原頼光所領配分帳案(禰寝文書)に禰寝院内三村の一つとして「浜田」がみえ、藤原頼経に譲られている。文永四年(一二六七)三月五日、道意(富山義宗)は当村に御佃用作田三反・新加用田二反余・収納使田四反・算失田八反を定め置き、さらに禰寝院三〇町に恒例・臨時の公事が賦課された場合、六町二反分を負担すべきと定めている(「沙弥道意置文案」志々目文書)

浜田村
はまだむら

[現在地名]姫路市網干区浜田あぼしくはまだ

揖保川の本流と分流なか川に挟まれ、両河川の河口に立地する。揖西いつさい郡に属する。東は揖東いつとう興浜おきはま村、西は中川を挟んで苅屋かりや(現御津町)。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に村名がみえ、当村の一四三石余などが小出吉政に与えられている。慶長国絵図にも村名がみえる。領主の変遷は天満てんま村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高三一五石余、高二六〇石余。正保郷帳では田方一五五石余・畑方一〇五石余。正徳元年(一七一一)の村明細帳(渡辺家文書)では高三六九石余(年々永捨八七石余)、残高二八一石余、田方は高一六〇石余・反別九町六反余、畑方は高一二〇石余・反別一三町五反余(うち屋敷二町三反余)、ほかに五九〇石を超える新田畑があった。

浜田村
はまだむら

[現在地名]八竜町浜田

八郎潟の北岸、東に鵜川うかわ村、北に浅内あさない(現能代市)、西に大口おおぐち村があり、その西は日本海。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「百八拾石弐斗六升三合 林崎村 はま田村」とある。慶安元年(一六四八)の検地帳に「檜山之内浜田村大口村御検地帳」と記され、田畑屋敷合わせて一八町九段六畝二歩、分米一五五石三斗六升とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「浜田、大口村二ケ村に立らる 大口村三十三軒、浜田村四十九軒、両村御墨印一本。浜田村は先には潟端に居慶安年中引移る」とあり、同年の村名唱文字替覚(門間家文書)には、浜田村・大口村・芦崎あしざき村が「唯今迄浜田大口村 此度御墨印三ケ村へ可被下候」とある。

浜田村
はまだむら

[現在地名]岱明町浜田

南は有明海に面し、東は高道たかみち村、西はなべ村・しも村と接する。近世は坂下手永に属する。元禄国絵図に「頭皮下村之内浜田村」とあって頭波下かしらはげ村からの分村であるが、寛永期(一六二四―四四)と推定される肥後領高人畜家数船数調(永青文庫蔵)に村名が記され、近世初頭には分村していたと推定される。同調によると漁舟一を有し水夫一七がいる。元禄(一六八八―一七〇四)頃には漁舟六とある(「諸御郡高人畜浦々船数其外品々有物帳」永青文庫蔵)。「国誌」の高一九六石余、文化八年(一八一一)の坂下手永略手鑑によると田八町三反余・畑二〇町七反余、高二七六石余とあり、「国誌」には「今考ルニ」として、頭波下村の地名がなく同略手鑑の高は同書の頭波下村の高を加えたものに等しく、そのため同村は潰村となり、当村に加わったものとする。

浜田村
はまだむら

[現在地名]館山市浜田

見物けんぶつ村の東に位置し、北はかがみヶ浦に臨む。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一六一石余(うち田一一五石余)。同一五年の里見家分限帳では一門の正木善九郎の給知。寛永二年(一六二五)知行宛行状では当村高一四一石余が旗本石川正次に与えられている。正保郷帳では田高一〇九石余・畑高三二石余で同じく石川領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)、元文村高帳ではいずれも旗本川口領高七三石余ともう一家の旗本川口領高三一石余および幕府領高三六石余の相給。

浜田村
はまだむら

[現在地名]瀬高町浜田

南高柳みなみたかやなぎ村の南にあり、東は井手上いでのうえ村、北西は東津留ひがしづる村。寛永一五年(一六三八)矢部やべ川掘替普請以前は同川は当村と西の泰仙寺たいせんじ村の間を流れており、同川左岸に位置していた。暦応二年(一三三九)四月一五日の僧実明田畠譲状(鷹尾家文書/南北朝遺文(九州編)二)には、紀元重へ譲られた光永本名内の地として「一所三反中 はまた 元くま丸」とある。天正七年(一五七九)龍造寺隆信田尻鑑種に対し「連々御望之両村」と別に一千町の所領給付を確約し(同年一二月九日「龍造寺隆信起請文」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、うち六〇三町を先給した天正七、八年頃とみられる年未詳の田尻鑑種知行坪付(同上)には「千町之外」として津留つる村五五町と浜田村七五町が記される。

浜田村
はまだむら

[現在地名]酒田市浜田一―二丁目・幸町さいわいちよう一丁目・東栄町とうえいちよう若浜町わかはまちよう東中ひがしなか口町くちまちなど

最上川と新井田にいだ川の河口右岸に位置し、酒田町と接する。寛永元年庄内高辻帳では七三石余。正保庄内絵図(本間美術館蔵)大町おおまち村にほか六六石余浜田村分とみえる。酒田のうち町分・はま町分・米屋こめや町分・酒田町組分の耕地がある。大町組に属した。正保五年(一六四八)には内町分四九石余・免四ツ一分、浜(野)町分四一石余・三ツ五分、米屋町分四三石余・四ツ一分、浜畑はまはた二二石余・二ツ四分、浜田六二石余・二ツ八分、酒田町分五七石余・四ツ一分(「土目録」飽海郡誌)

浜田村
はまだむら

[現在地名]秋田市浜田

新屋あらや村の南一一町、大森おおもり(一二三メートル)のふところに位置する。支郷の中村なかむらたきした村は大森山の西、日本海側の由利街道沿いに立地。享和二年(一八〇二)当地の測量にあたった伊能忠敬は、「浜田村 家二百五軒 同滝ノ下七十六軒、海へは五丁、五六丁小山あり其後に住居す、往来より十八九丁遠しと云」(測量日記)と村の位置を記す。

浜田村は百三段ももさだと総称されたが、享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に百三段浜田村とある。翌一五年の「六郡郡邑記」に「浜田村 百三段加わる、家員四十一軒。中村三十四軒、滝ノ下村四十五軒」とある。佐竹領海岸部の最南端に位置する至要の地で、寛永二〇年(一六四三)から唐船番所が置かれた。

浜田村
はまだむら

[現在地名]鹿角市十和田錦木とわだにしきぎ 浜田

大湯おおゆ川下流域左岸に位置し、西は古川ふるかわ村。毛馬内けまない花輪はなわを貫く街道が西側を通る。現さるに古墳遺跡がある。天明七年(一七八七)の知行小高百姓年貢帳(十和田図書館蔵)に村名が出る。寛政期(一七八九―一八〇一)の村高四五〇石一斗余でうち蔵分二〇一石四斗余、民戸六〇軒でうち一一軒が根市戸ねいちど、一五軒が五軒屋ごけんや、一三軒が猿賀野さるがの(申ヶ野)(邦内郷村志)。近世後期の花輪御官所村々郡分高書上帳では高四四九石七斗余で一八三石八斗余が蔵分、給人は三人。

浜田村
はまだむら

[現在地名]青森市浜田

「新撰陸奥国誌」に「堤村に続き一村に似し」とあるように、北のつつみ村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に高五一・一三石と記され、寛文四年(一六六四)の高辻帳に高四六・二石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に田方七七町二反九畝一一歩、畑方八町五反三畝五歩、田畑屋敷合せて八五町八反二畝一六歩、村高七二五・七九四石とある。元禄三年(一六九〇)には浦町組に属し、村位は上である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、寛政七年(一七九五)に四一二石、享和二年(一八〇二)に一九九石、文化五年(一八〇八)に一二〇・三石の新田高が書上げられている。

浜田村
はまだむら

[現在地名]河芸町浜田

赤部あかぶ村の南方にあって、周囲を丘陵で囲まれた農村。中瀬なかぜ村から西の段丘を越えたところにあたる。「神鳳鈔」に「浜田御薗」「新浜田御薗」とみえ、「外宮神領目録」に「浜田御園塩二斗、又新浜田御園上分米一斗御贄飛魚五連、禰宜維行口入所」とみえる。しかし浜田村はまったく内陸の村であって、海岸まで約二キロの距離にあるので、塩や飛魚のような上分があったとは考えられず、これを当村に比定するには疑問がある。

江戸時代は津藩六二〇石と、和歌山藩二三〇・二〇六石の相給村で(「慶安郷帳」明大刑博蔵)、津藩領分は寛文九年(一六六九)以後久居藩領となる。久居藩領の方は、寛延年間(一七四八―五一)の「宗国史」によると、戸数六二、人口二九九、馬六、牛五で、社寺は八王子二祠・天神・土之御前・妙教みようきよう寺。

浜田村
はまだむら

[現在地名]水戸市浜田一―二丁目

下町したまちの南東に接し、東は渋井しぶい村。建久三年(一一九二)の石川家幹譲状写(吉田神社文書)に「合正作田伍町内 (壱)丁但浜田」とあり、年月日未詳の吉田社神事次第写(同文書)にも「浮郷田地 在所浜田」「山本郷田地 在所浜田北」などとみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「七百七拾五石九斗八升 浜田村」とある。

浜田村
はまだむら

[現在地名]田原町六連むつれ 浜田

谷熊やぐま村・長仙寺ちようせんじ村の南部にあたり、太平洋岸に面して農漁業を営む村。「神鳳鈔」に浜田御薗とあるのはこの地であり、外宮領として米一石五斗と月次の御幣紙一二帖を上進したことが、外宮神領目録にみえる。天保三年(一八三二)の「地方秘録」によると、もと幕府領であったが、寛文四年(一六六四)田原藩領となり、海岸原野六・五石と浜方漁労だけが鳥羽藩領となっていた。

浜田村
はまだむら

[現在地名]明和町浜田

はらい川右岸にある。北は伊勢湾、東は八木戸やきど村、南は根倉ねぐら村、西は祓川を越えて南藤原みなみふじわら村に通じる。「神宮雑例集」「神鳳鈔」に外宮領浜田御園がみえ、「外宮神領目録」に「浜田御園六月塩二斗菓子九月塩二斗十二月米一升塩一升」とある。近世、鳥羽藩領となり、享保一一年(一七二六)幕府領、その後下野国吹上藩領。

浜田村
はまだむら

[現在地名]中島町浜田

熊木くまき川河口右岸の村で、対岸は中島村、内浦街道沿いに位置する。貞応三年(一二二四)一〇月一日の熊来庄立券文写(尾沢文書)に「浜田里」とみえる。戦国後期頃の能登内浦諸村々給人注文写(諸橋文書)によると、能登守護の一族であった畠山大隅の知行分であった。元和一〇年(一六二四)の本浄寺惣門徒連判起請文(本浄寺文書)に村名がみえ、正保郷帳によれば高四五五石余、田方二八町六反余・畑方一町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(中島町史)の高四八六石、免五ツ七歩、小物成は山役二四六匁・苦竹役二匁・鳥役八匁、猟船櫂役二七匁五分(うち一五匁五分出来)、川役八〇目。

浜田村
はまだむら

[現在地名]三根町大字坂口さかぐち字浜田

千栗土居ちりくどい西側の低地に立地する。正保絵図に村名がみえ、枝村に八丁分はつちようぶんがあるほか、郷村帳には吉原よしわら村・中浜なかはま村の名がみえる。佐賀藩の藩政期には配分地で、地米(年貢)三一六石、九名の小配分士が知行した(嘉永六年写の大小配分石高帳)

浜田村
はまだむら

[現在地名]藤代町浜田

小貝こかい川北東岸に所在。東は上萱場かみかやば村。「新編常陸国誌」に「下総ニ界シ、上宿、中宿、下宿、横町、新田坪等ノ小名ヲ有ス」とみえる。享保三年(一七一八)に土浦藩領となり幕末に至る(土浦市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報