浄応寺(読み)じようおうじ

日本歴史地名大系 「浄応寺」の解説

浄応寺
じようおうじ

[現在地名]丸岡町本町

藤丸山と号し、浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来。由緒書によれば、加賀国江沼えぬま荒谷あらたに(現石川県小松市)の城主藤丸新四郎良教が蓮如に帰依して一宇建立し、末応まつおう寺と号したのに始まるという。石山合戦にも従軍したが、天正末年越前国坂井さかい徳分田とくぶんでん(現福井県坂井町)に寺を再興した。天正一九年(一五九一)の本覚寺末寺帳(本願寺文書)に「トクブデン祐珎」とあるのは、六代教珎のことと考えられる。

浄応寺
じようおうじ

[現在地名]有田市箕島

箕島みのしま集落の西部にある。青竜山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。もと「戎屋敷」といい、恵比須を祀っていたという。寺蔵の絵像裏書に本願寺九世実如の署名で「大永四年甲申十一月五日、□□□(興正寺)門徒阿弥陀寺下紀州、在田郡蓑島、□願□□」とあり、大永四年(一五二四)に阿弥陀寺(性応寺)の取次により興正こうしよう(現京都市下京区)の下で道場が開かれた。

浄応寺
じようおうじ

[現在地名]小樽市石山町

真宗大谷派。高島山と号する。本尊は阿弥陀如来。当寺の始まりは、松前専念せんねん寺の五世玄珠が属地に建てて弟子の玄知に与えた小庵で、一六七〇年(寛文一〇年)本山常如が命名して浄応寺としたと伝える(開拓使公文鈔録)。明治維新後、松前から小樽への移住者が多く、明治一三年(一八八〇)同寺八世湛然も高島たかしま手宮てみや村に移り、もとタカシマ場所請負人西川家の支配人であった奥村伊兵衛控家に仮寓していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報