津留村(読み)つるむら

日本歴史地名大系 「津留村」の解説

津留村
つるむら

[現在地名]山鹿市津留

ひこ(三五五・一メートル)の南麓に位置し、東部を岩野いわの川が南流、南は寺島てらじま村、西はじよう村などと接する。一説では「和名抄山鹿郡津村つむら郷・緒緑おみどり郷は当村一帯に比定する。「国誌」所載の菊池持朝が裏書をする永享六年(一四三四)一二月二一日の日輪禅寺建立次第によると、同寺領の北は「津留村迫下寄木井手溝」を限るという。年未詳一月二二日の大友義鑑袖判の五条氏所領坪付(五条家文書)に「一所 津留 六丁」がある。なお「国誌」の小村にある「踊町」は字小鳥町おどりまちで、元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の初米進納所々注文にみえる「おんどり」、応安七年(一三七四)一一月、今川仲秋の軍が肥後に入って初めに戦った「小(鳥カ)村」(同八年二月日「田原氏能軍忠状」速見入江文書など)、また前掲日輪禅寺建立次第に記す菊池武朝の寄進地「小鳥村」などは同地と推定される。

津留村
つるむら

[現在地名]高森町津留

高森町の東端にある明治九年(一八七六)成立の村名。東は北方が豊後国直入なおいり郡、南方は日向国西臼杵にしうすき郡、西は野尻のじり村に接する。祖母そぼ山系のつつが岳・越敷おしき岳に隣接し、大野おおの川の支流大谷おおたに川上流域に位置する。近世には北部に永野ながの村、南部に西から津留村・上津留かみづる村・重井野しげいの村が並ぶ。寛弘八年(一〇一一)二月一一日の阿蘇郡四境注文写(阿蘇家文書)に阿蘇郡の東境として長野東がみえ、近世の永野村の東部をさすと思われる。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)に「一所なかのを二とう まめ二と 一所しけい野お一とう まめ一斗」「一所なかゑをひととう 大豆一斗」「一所とち原二百文 まめ一斗」が記され、永野・重井野や近世の津留村の小村の中江なかえ栃原とちばるであり、収納使の宿泊は永野の負担とされた。

津留村
つるむら

[現在地名]多気町津留

上牧かみまき村の西にあり、当地で櫛田くしだ川が南から北に大きく曲がり陸地が半島の岬のように突出ている。村の中央を初瀬はせ(伊勢)本街道が走り先端部で櫛田川に入り、渡船して対岸の下茅原田しもちはらだ(現松阪市)に至り、大和に向かう。天暦七年(九五三)の近長谷寺資財帳(同寺蔵)に「二十条一津留里」とあり条里制が施行された地である。字名にも小鶴田こつるだ・大鶴田・弓張ゆみはりがある。享保四年(一七一九)相可おうか法泉ほうせん寺棟札(多気町蔵)に鶴村と書かれている。垣内がいと地名も多くまえ街道・枇杷びわ垣内・むかい街道・いた街道・北野きたの垣内などがある。

津留村
つるむら

[現在地名]菊陽町久保田くぼた

中代ちゆうだい村の西北に立地する。東から南にかけては瀬田下せたした井手による水田地帯。北側の台地上は畑作地帯。天正一〇年(一五八二)五月一〇日、合志親為は「合志郡之内津留村之内 屋舗一ケ所 天子免弐反」などを竹迫たかば山王社(現合志町)へ寄進した。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では津久礼組に属し、戸数八・家数五二、人数五九(うち庄屋一・百姓七・名子七・下人三)、牛馬二三、高二七六石一斗余。田畠畝数を同一二年の地撫帳でみると、まへ畠・ハッき分・道畠などに田二町一反一畝余があり、五反畠・東・七反畠・三角畠・橋むかへ・白土などに畠・屋敷一六町一反九畝余があった。

津留村
つるむら

[現在地名]佐賀市鍋島町なべしままち大字蛎久かきひさ字津留

蠣久かきひさ増田ますだ木角きのつの植木うえきの村々に囲まれた南北に長い水田地帯。

宝治元年(一二四七)の佐嘉郡小千員内田畠等文書案(高城寺文書)に、「肥前国佐嘉郡小千員内(中略)北津留田畠(中略)高木内中津留村号武末名田畠」とあり、この地の地頭職を藤原勝丸(高木氏)に与えるという内容であるが、当時津留村が武末たけすえ名とよばれ、高木氏の支配下にあったことがわかる。また津留には成道寺じようどうじの地名が残るが、これは成道寺庄とかかわりがあろう。

津留村
つるむら

[現在地名]大野町夏足なたせ 津留

両家りようけ村の南、平井ひらい川南岸にあり、南西は大渡おわたり(現緒方町)、西は宮迫みやさこ(現朝地町)。元禄見稲簿の岡領御絵図ニ出分にははる村のうちとして津留村がみえる。旧高旧領取調帳では三八五石余。安永七年(一七七八)には大形組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。明治八年(一八七五)原村・大渡村と合併、夏足村となる。三徳さんとくの天満社は文治三年(一一八七)神童が出現し五穀豊饒・万民安全・悪魔退散を予言したことから創建されたと伝える(文禄二年「社記」大野町史)

津留村
つどめむら

[現在地名]河浦町新合しんごう

北は宮地岳みやじだけ(現本渡市)、東は立原たちはら村、西は市瀬いちのせ村に接する。かしら(四六五・七メートル)の南麓に立地する内陸部の村で、南を一町田いつちようだ川が流れる。縄文時代の石鏃・石槍を出土する高屋敷たかやしき遺跡がある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高四〇四石余とある。壱町田組に属し、庄屋は蓑田家。万治二年(一六五九)石高半減により二〇二石五斗余となった(天草風土考)

津留村
つるむら

[現在地名]玉名市津留

村央を木葉このは川が西流し、西部で菊池川に合して南流、東はしも村・安楽寺あんらくじ村、南は寺田てらだ村と接する。慶長一三年(一六〇八)検地帳に「安楽寺出分津留村」とあり、元禄国絵図には「安楽寺村之内津留村」と記す。「一統志」にも安楽寺村の項に「津留上下村三所合一」とあり、安楽寺村の出分をもって分村した。慶長一三年の検地帳によると田三五町三反一畝余・畠二六町九反九畝余・屋敷二八筆二町七反二畝、分米六四五石二斗余、家数六〇・人数八一、牛馬一七、下ケ名に宮ノまへ・藪ノ内などがある。近世は内田手水に属する。「国誌」に「部田村中林村下ノ川等小村アリ」とあり、木葉川に的場橋があった。天保五年(一八三四)の内田手永手鑑では高六五二石四斗余・御土物成四二五石五斗余、田三三一町三反四畝・畑二四町四畝余とある。

津留村
つるむら

[現在地名]中央町津留

東部を北の原田はらだ村へ津留川が流れ、その谷間を挟んで小市野こいちの村と対する。比較的高地に位置し、西の中間なかま(現豊野村)との境に津留岳(四一〇・四メートル)があり、その西の道善どうぜん坂を越える道で結ばれる。南への道を下ると白石野しらいしの村へ至る。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると、鶴村として高一六六石余、うち田方一〇九石八斗余・畠方五七石余、中山手永に属し、「国誌」も鶴村と記し、「法正寺ト云小村アリ」とみえる。

津留村
つるむら

[現在地名]神埼町大字つる鶴西つるにし鶴東つるひがし石井いしいいぬ

城原じようばる川東岸一帯で神埼宿の北東。正保絵図に村名がみえる。天保七年(一八三六)の御祓配帳(仁比山神社蔵)によれば戸数は三三。

津留村
つるむら

[現在地名]行橋市津留

真薦まこも村の南、はらい川下流右岸に位置する。祓川の対岸は今井いまい村、東は元永もとなが村。元和八年人畜改帳に村名がみえ、給人二人分の高三一三石余、給人二人分の高三三八石余の二筆に分けられ、家数六七・人数一五四(うち庄屋一・百姓一八・鋤さし一・名子等六二)、牛一三・馬七。寛永九年(一六三二)の高六五五石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。郷村高帳では高七一八石余、うち新田高六二石余。

津留村
つるむら

[現在地名]砥用町永富ながとみ 津留・江尻野えじりの中園なかぞの

津留川を挟んで北の原町はらまち村と対し、東は越早津おつそうづ村、西は河原畠かわらばたけ村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一二五石九斗余、うち田方八二石一斗余・畠方四三石八斗余。砥用手永に属した。「国誌」に「高二百二十八石余、江尻野村中園村等ノ小村アリ」とあり、この周辺では若干の平地もあって石高も高く、原町などの発展が影響を与えたと推考される。

津留村
つるむら

[現在地名]伊万里市波多津町はたつちよう津留・同主屋ぬしや

標高一〇〇メートル台の丘陵地帯。行合野ゆきあいの川が北部を蛇行しながら東流し峡谷をつくる。正保絵図に「村」とあり、文化年中記録によれば「畝数三町六段二畝二十一歩」とある。

津留村
つるむら

[現在地名]矢部町津留

東と北は白石しらいし村、西は荒谷あらだに村と下益城郡越早おつそう(現砥用町)に接する。緑川右岸に集落があり、千滝せんたき川が緑川に合流するところに田地が開ける。慶長八年(一六〇三)一二月九日の長尾安右衛門宛の加藤清正黒印状(弥富文書)で当村の総高八〇石三斗一升が宛行われている。慶長国絵図にも村名がみえる。

津留村
つるむら

[現在地名]野津町東谷ひがしだに 折立おりたて

奥畑おくばた村の西、吉田よしだ川北西岸にある。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には津留村が奥畑村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高二二石余。下畑組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方九石余・畑方一三石余、日損所と注記される。

津留村
つるむら

[現在地名]北部町改寄あらき 津留

坪井つぼい川上流の植木うえき台地上にあり、北は立石たていし村、南は井上いのうえ村に接する。「国誌」によれば、五町手永に属し、「松尾ト云小村アリ」とある。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳には、井上・立石・前原まえはる村と併記され、津留村は田方一二町八畝余・畑方三町六反八畝余、高一三八石六斗余。

津留村
つるむら

[現在地名]清川村宇田枝うたえだ 津留

宇田枝村の南西、奥岳おくだけ川東岸にあり、対岸は宮津留みやづる村。正保郷帳に村名がみえ、田高一七五石余・畑高三一六石余、宇田枝郷に属し、日損所と注記される。この数値は宇田枝村分を含むとみられる。同村が別に記載される旧高旧領取調帳では津留村の高は二三六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報