永野村(読み)ながのむら

日本歴史地名大系 「永野村」の解説

永野村
ながのむら

[現在地名]神石町永野

高光たかみつ村の東に位置する。南北に長く、北は相渡あいど村、東は帝釈たいしやく(神竜湖)および福桝ふくます川の峡谷で三坂みさか(現比婆郡東城町)油木ゆき(現油木町)と境する。南の草木くさぎ、西の高光から谷を伝って入る道があるが、主道は草木から永野北端の犬瀬いぬぜへ通ずる谷を結ぶ帝釈路である。当地はカルスト(石灰岩台地)地帯として知られ、石灰岩洞窟が多いが、こうした洞窟から発見されている帝釈峡遺跡群のうちでも主要な遺跡が点在する地域で、観音堂洞窟かんのんどうどうくつ遺跡をはじめ天神洞てんじんどう妙見穴みようけんあな牛穴うしあな一橋洞ひとつばしどう天草洞あまくさどうなどの縄文前期から弥生時代にかけての遺跡がある。また弥生時代の遺物包含地である江草えぐさ遺跡・和田わだ遺跡もあり、洞窟・岩陰の原始生活から農耕定住への長い歴史が展開されている。古墳も一駄岩いちだいわ古墳群・高塚山たかつかやま古墳群・つかたお古墳群・づか古墳群などあり、なかでも八つ塚五号墳は後円部の径一八メートル、前方部の幅七・五メートルの前方後円墳で、付近に小円墳を伴い首長墓を思わせる。

永野村
ながのむら

中世よりみえる高来たかく郡内の郷村で、伊佐早いさはや庄のうち。文永元年(一二六四)五月一〇日の関東下知状案(宗像神社文書、以下断りのない限り同文書)に「伊佐早庄永野村」とみえる。同下知状案などによれば、建暦三年(一二一三)閏九月に本主の江達から宗像大宮司氏国に沽却され、嘉禄三年(一二二七)閏三月に氏国は舎弟の氏経に譲り、氏経は子息の宗像六郎氏業(浄恵)と永野小太郎氏郷に分譲するが、この両者の間で相論になったので、正元二年(一二六〇)二月四日の分文を作成、弘長二年(一二六二)四月一七日に永野村を中分し、東方を宗像氏業、西方を永野氏郷の領知として絵図に朱筆を引き、肥前国守護武藤資能が加判した。これらに基づいて出された裁許によれば、東西に中分し、氏業分とされた東方は田地三六町一段二杖中(給田一一町七段二杖)、在家分畠地一一町七段二杖、井牟田いむた(現森山町)半分、山野は「付東限永野河中心可被領、河以東限河上柏原横山口跡」などとされ、ただし薪草・漁魚を制止することは不可としている。

永野村
ながのむら

[現在地名]武雄市東川登町ひがしかわのぼりまち永野

六角ろつかく川(潮見しおみ川)の沿岸で張琴はりこと山の西に位置する。

橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)に「一 永野村 孫三郎公通 上本上中再住有沙汰上課定、孫三郎公秀 下上課本覆勘奇捐了」とある。建武三年(一三三六)の文書と推定されている。この地は奈良時代は島見しまみ郷の一部であったと考えられ、平安時代後期に長島ながしま庄が成立してそれに属し蓮華王れんげおう院領であった。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の領有となり、室町時代は塚崎つかざき庄に含まれて塚崎後藤氏の所領となった。江戸時代には佐賀藩武雄領。

この村の東部の台地は縄文時代の遺物散布地である。

武雄村とこの村の境の平原ひらばる峠を下りた台地上に曹洞宗浄泰じようたい寺がある。

永野村
ながのむら

[現在地名]葉山村永野

新荘しんじよう川に沿った村で、下流は姫野々ひめのの村。江戸時代の郷帳類にはみえず、おそらく姫野々村・窪川くぼかわ村・大野おおの村に含まれていたと考えられる。天正一六年(一五八八)の津野半山地検帳の永野・北川きたがわ石神いしがみノナロの地。永野は地積三町一反余、ヤシキ九筆で津野氏の家臣中間新左衛門ら七人の給地と長林ちようりん寺・栖雲庵などの寺領からなり、給人のうち六人はここに住んでいた。北川は地積二町二反余、ヤシキ一一筆。大部分が当地にあった繁国はんこく寺の寺領で、ほかに津野氏家臣四人の居屋敷などがあった。石神ノナロは地積三町七反余、ヤシキ九筆で津野氏家臣七人の給地。

土佐州郡志」に村名がみえ、享和元年(一八〇一)の「西郡廻見日記」には「永野村百石斗」と記され、幕末の村切によって独立したと思われる。

永野村
ながのむら

[現在地名]佐川町永野

佐川村の東南、春日かすが川の上流域を占め「土佐州郡志」に「東限谷地村山嶺、西限斗賀野界北野比志利滝谷、南限戸波村山嶺、北限佐川本村之小谷地山嶺、戸凡二十五」とある。中世には佐川郷に属し、天正一八年(一五九〇)の佐川郷谷地永野地検帳によれば永野村の地積は七六町余で、このうち片岡分が五六町九反余、中村分が一一町五反余、佐川番給地ほか七町七反余であった。

永野村
ながのむら

[現在地名]上山市永野・蔵王ざおう

蔵王川の中流域で、蔵王山噴火の泥流台地にあり、北西下流は権現堂ごんげんどう村。縄文中期の前下まえした川原前かわらまえ蔵王開拓ざおうかいたくなどの遺跡がある。元亀年間(一五七〇―七三)坊平ぼうだいらに籠堂と垢離場が造られ、蔵王山登拝者で賑い、多くの石仏石塔が建てられた。女人も坊平までの登拝は許され、西国三十三所観音像も作られている。正保郷帳に長野村とあり、田方三二五石余・畑方二九五石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高六七四石余、うち新田二二石余、反別は田二二町余・畑三五町四反余で、薪九五駄・炭七五俵が課された。

永野村
ながのむら

[現在地名]檮原町永野

檮原川の支流永野川に沿った南北に狭長な村。「長野村」とも書く。東南は越知面おちおも村、北は伊予国。天正一六年(一五八八)の津野越知面村地検帳にみえる永野名を中心に成立した村で、永野名は地積五町三反余、ヤシキ二二筆。すべて津野氏の直轄地で中越五兵衛の扣。

江戸時代は越知面村の枝村で、元禄地払帳では「越知面村・長野村」と一括して記される。「土佐州郡志」でも越知面村内の六小村の一になっている。元禄郷帳によると当村のみの本田高五〇石。寛保郷帳には戸数四三、人口二五八、馬二〇、牛一五、猟銃一九とある。当村は土佐・伊予両国を結ぶ街道の要所として古くから重視された。明暦二年(一六五六)には村内に永野番所が設置され、中越右左衛門が初代番人となったという。

永野村
ながのむら

[現在地名]土佐市永野

家俊いえとし村の西方、永野川流域に位置し、「土佐州郡志」は「在市之野村之西(北カ)、南北有山、東西十八町南北二町余」と記す。村内日浦ひうらより佐川さかわ郷永野村(現高岡郡佐川町)に至る坂路があった。戸波へわ郷に属し、天正一七年(一五八九)の戸波郷地検帳に「永野村」とみえ、同帳の久清ひさきよ村・兼国かねくに村・静亀しずかみ村などは、現在久京ひさきよう・兼国・静神しずかみの通称で残る。

元禄地払帳では総地高三八〇石余、うち本田高三二三石余・新田高五六石余。

永野村
ながのむら

[現在地名]足助町永野

東は伊那いな街道沿いのたま村、南は菅生すごう村、西は美濃街道沿いの八桑やくわ村、北は大井おおい村・細田ほそだ村に接する。集落は山麓の傾斜地に点在。寛永一二年(一六三五)当時、幕府直轄地。

永野村
ながのむら

[現在地名]大野見村長野ながの

槙野々まきのの村の西に位置し、「土佐州郡志」に「大川南旧原野也、近世為村」とあるように、江戸時代に四万十しまんと川左岸に開かれた新田村。下元太兵・太衛門・音五郎兄弟の開墾と伝えるが年代は不明。元禄地払帳は三俣みつまた村のうちとして「永野村新田」を記し、高一一二石余のうち八七石余は山内監物役知、残りは田村才丞領知であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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