安楽寺村(読み)あんらくじむら

日本歴史地名大系 「安楽寺村」の解説

安楽寺村
あんらくじむら

[現在地名]能登川町能登川 安楽寺

能登川村の南にあり、きぬがさ山山系の西麓にある天台宗安楽寺の門前から朝鮮人街道にかけて集落が営まれる。中世は伊庭いば庄の内。応永二年(一三九五)七月二八日の旦那処分状(熊野那智大社文書)に「いはの安楽寺一円」とあるのをはじめとする数点の売券類により、熊野参詣の先達および彼らによって組織的に掌握された国人・地主層を中心とする旦那(信者)の存在を知ることができる。安楽寺および同寺に所属する閻魔えんま(現十応寺)に、衆徒・老僧らによる東・西両座や児衆徒座、あるいは安楽寺十六人僧侶・閻魔堂十六人衆などという組織があり、これらが安楽寺内外に関する経営全般を担った。

安楽寺村
あんらくじむら

[現在地名]玉名市安楽寺

北東に松平まつがひら(三八三・二メートル)、南部を木葉このは川が北西流し、北はしも村、南は稲佐いなさ(現玉名郡玉東町)田崎たさき村、西は津留つる村・寺田てらだ村と接する。木葉通り五里の里数木があった。暦応三年(一三四〇)三月日の詫磨宗直軍忠状案(詫摩文書)によると、建武三年(一三三六)四月一三日に「肥後国安楽寺」で合戦が行われている。嘉慶二年(一三八八)五月二八日の九州探題今川了俊書下(同文書)に「安楽寺庄内正富・得力両名検麦事」とみえる安楽寺庄は、太宰府安楽寺領玉名庄と同一と推定される(→玉名庄

安楽寺村
あんらくじむら

[現在地名]小矢部市安楽寺

道坪野どうつぼの村の南東、礪波となみ山の北東麓に位置。今石動いまいするぎ宿からの道は北行すると道坪野村方面へ、西行すると九折つづらおり(現石川県津幡町)への道となる。道坪野からの坪野つぼの川と地内山中に発する奥原おくはら川が当地で合流してすな川となり、綾子あやこ小矢部川に合流する。「参考源平盛衰記」巻二九に「安楽寺」とみえ、木曾義仲軍の一手が当地を通り、倶利伽羅くりから峠を越えている。地内に高橋則秋が拠った城があったが、木舟きぶね(現福岡町)城主石黒左近将監に討たれたとも、また別にこの城には松岡新左衛門あるいは関久兵衛が拠ったともいう(越中志徴)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数六、桜町組に属する。

安楽寺村
あずくじむら

[現在地名]犬山市二反田にたんだ薬師前やくしまえ西片草にしかたぐさ屋敷裏やしきうらなど

北は富士ふじ村、南東は神尾入鹿かんのいるか新田村、北東は尾張富士(二七五メートル)、南は本宮ほんぐう(二九二・八メートル)、西は羽黒はぐろ村の丘陵に囲まれた盆地。成瀬隼人正采地村。高五〇石余、田三町三反余・畑一町六反三畝余。寛文一一年(一六七一)の戸数八、人数三八(寛文覚書)

安楽寺村
あんらくじむら

[現在地名]鳥栖市安楽寺町あんらくじまち

真木まき村の枝村。親村の南南東二キロ、筑後川(旧本流、現新宝満しんほうまん川)に臨む低地にある。水害激甚地で、民家は高い屋地盛の上に建てられ、さらに水屋という避難部屋を有するものが多い。文禄四年(一五九五)検地で初めて村名があがり、「弐拾四丁五段五畝拾歩 畠斗 百五石九斗三升八合」(基養精細録)と高付けされ、慶長絵図にもそのとおり記されている。しかし慶長一〇―一八年(一六〇五―一三)の検地では高は真木村のうちに入っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報