江島村(読み)えしまむら

日本歴史地名大系 「江島村」の解説

江島村
えしまむら

[現在地名]宇佐市江須賀えすか

中須賀なかすか村の西、駅館やつかん川下流西岸の三角洲上にあり、西は乙女おとめ村、北は沖洲おきのす村、南は川部かわべ村。江島別符の遺称地で、応永一〇年(一四〇三)八月一五日の成就心院原祐等契約状(末弘文書)には「豊前国宇佐郡江島ママ」とある。村内いちつぼは条里の遺称とみられ、正平二一年(一三六六)二月二日のけんゑん寄進状案(末弘文書)には「二たん、一のつほ、おなしきへつふのうちひさまつミやうのうち」とあり、江島別符久松ひさまつ名の内であった。なお、かつての江島は駅館川河口にあって島地形をなし、同川は当地によって東西に二分されていたと思われる。のちの大洪水で島の中央部が分断され、東部は中洲なかす(長洲)へ流れ、西の弁財びんじ川は土砂が埋まって、当地はそれまでの対岸デルタと陸続きとなったものとされる。

万願寺まんがんじ満願まんがん(万願寺)、字いろり伊呂利いろり寺があったという。

江島村
えしまむら

[現在地名]八束町江島

大根だいこん島の北東に位置する江島にあり、一島で一村をなす。東は中海の狭い水路を挟んで弓浜半島のわたり(現鳥取県境港市)に相対する。「出雲国風土記」にある島根郡蜈蚣むかで島が江島に比定される。同書によると、たこ(大根島)が蜈蚣をくわえて当地にとどまったため蜈蚣島の名が生じたという。現在面積は約一・一六平方キロ。島の西約半分は大根島と同じく玄武岩からなる溶岩台地で、火山灰土に覆われ、なだらかな起伏をもつ。一方、東側は宝暦四年(一七五四)から明治初期にかけての新田開発により埋立てられた平坦な砂地。江戸時代には意宇いう郡に属し、大根島七ヵ村と江島村は一括して一村同様にして扱われ、当村は後分に属する。寛永八年(一六三一)の大根島御検地帳に村名がみえ、田はなく、畑高二二石余・反別五町八反余、家数五、名請人一三。元禄一三年(一七〇〇)の大根島検地帳(八束町役場蔵)でも畑のみで、高二六石余・反別八町七反余、名請人一五。

江島村
えしまむら

[現在地名]城島町江島

筑後川下流左岸に沿い、北は高津たかつ村、東は原中牟田はるなかむた村、南は四郎丸しろうまる村・上青木かみあおき村。中世は三潴庄西さい郷の内。承久三年(一二二一)九月二八日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌倉遺文五)によると、江島には本定額一五口のうち高良こうら山凝然房寛円が知行する料田一町があった。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(同文書/鎌倉遺文二五)によると、大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)の四季大般若供米一石五斗・冬烝使頭官料一石二斗を負担し、五月会で村田楽・尻巻・右方相撲人を出し、九月一九日の九月会では十一番の頭役を勤めその料田一町があった。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(同文書/南北朝遺文(九州編)二)では、冬祭分の祭料米一石二斗、大般若洗米一石五斗・九月会祭頭・村田楽・尻巻・相撲・回廊二間・大善寺檀供八枚を負担した。同年九月二二日の高良玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(同上)によると、江島村には玉垂宮定額田社家当知行分五段があった。

江島村
えじまむら

[現在地名]鈴鹿市江島町・白子駅前しろこえきまえ

南若松みなみわかまつ村の南西にある。河曲郡の最南端に位置し奄芸あんげ郡白子村との境は錯綜している。伊勢参宮街道沿いの南北に細長い町並で、古来白子とは郡を異にし(慶安郷帳が奄芸郡に入れているのは誤記か)、領主を異にしながら経済的には一体をなしていた。建久三年(一一九二)八月の神領注文(神宮雑書)に「江嶋御厨 ○給主源定季件御厨、往古神領也 長元二年国司奉免、長暦四年重建立神領也 供祭物 三度御祭魚貝御贄勤進之」とあり、古くからの内宮領で長元二年(一〇二九)といえば、同書記載の御厨中最も古く、国司の免状が出されていた御厨である。またその供祭物に魚貝を奉ることから漁村であったことがわかる。同書に「河南御厨 没官地 件御厨同前 供祭物 御贄米一石、別進起請雑用米八斛」とある河南の地は、江島の南にある字名である。「神鳳鈔」にはそれぞれ「江嶋御厨」「内宮河南河北御厨十一丁五反」とある。

江島村
えじまむら

[現在地名]鳥栖市江島町えじままち

村田むらた村の南、白石しらいし丘陵の西の低位段丘、ぬま川左岸の平地に立地する。文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「ゑしま」、慶長絵図に「江島村」とみえる。

佐賀藩の藩政期、貞享四年(一六八七)改郷村帳では地米(年貢)高五一六石余、村の大部分が蔵入地である。配分地のうち、幕末期には村田鍋島家の私領が二七石あった(嘉永六年写の大小配分石高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報