求名村(読み)ぐみようむら

日本歴史地名大系 「求名村」の解説

求名村
ぐみようむら

[現在地名]薩摩町求名

曾木そぎ長野ながの村の西にあり、川内せんだい川支流あな(金山川)中流域および同川と並行して北方を西流するまえ川、同川支流求名川流域に広がる。西は鶴田つるだ鶴田村と佐志さし広瀬ひろせ(現宮之城町)、南は大村おおむら北方きたかた村、北は西流する川内川を境に羽月はつき田代たしろ(現大口市)。戦国末期まではけどう院のうちで、近世には宮之城みやのじよう郷に属した。

天正八年(一五八〇)答院一二ヵ村の新領主として薩摩吉田よしだから移ってきた島津歳久の所領のうちに求名村がある(島津歳久系図)。文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の命で歳久は自刃し、島津氏直轄領に編入されたとみられる(薩摩町郷土史)。同四年答院三万七千石を与えられて日向都城から移ってきた北郷長千代丸(忠能)領となり(北郷氏系図)、慶長五年(一六〇〇)に北郷氏が旧領に復すると、とう郷から転封で虎居とらい(現宮之城町)に入った島津忠長(宮之城島津氏)領の一村となり(島津尚久系図)以後は明治に至るまで宮之城島津氏私領(私領高等取調帳など)

求名村
ぐみようむら

[現在地名]東金市求名

道庭どうにわ村の東に位置し、御成新おなりしん道が通る。武射むしや郡に属する。中世には郡名ぐみよう郷とみえ、享徳二年(一四五三)一二月一五日の足利成氏御判御教書(浄光明寺文書)では、鎌倉浄光明じようこうみよう寺の支院華蔵けぞう院領である「郡名郷内十文字荒野村」などの役米工米・国衙般若会以下諸公事課役と守護使・郡使催促入部が免除されている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に「求石村」(高五四六石)とみえるのが当村と思われる。寛永二年(一六二五)公名村の高二〇〇石が旗本江原領となる(知行宛行状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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