永明寺(読み)ようめいじ

日本歴史地名大系 「永明寺」の解説

永明寺
ようめいじ

[現在地名]津和野町後田

津和野城下町の西端、蕪坂かぶさか峠への登口にあたり、城下防備の配慮から配置されたと思われる。曹洞宗。覚皇山と号し、本尊釈迦如来。応永二七年(一四二〇)三本松さんぼんまつ城主吉見頼弘が開創、開山は月因性初という。吉見氏の菩提寺であったとされるが、吉見氏の墓は一基もない。江戸時代には津和野藩主坂崎氏・亀井氏の菩提寺となった。天文二三年(一五五四)陶晴賢が三本松城を攻めた際兵火により焼失、慶長一三年(一六〇八)にも焼失したと伝える。

永明寺
えいめいじ

[現在地名]館林市赤生田本町

単立。養老山吉祥院と称し、本尊は十一面観音菩薩。縁起によると、昔草原に突如一本の杉が生え、その勢いが盛んで年々数を増し大森林となった。養老年間(七一七―七二四)この森に十一面観世音菩薩が来現したので一寺を建立したと伝える。開基はこの縁起に中興開基とみえる僧光宥であろう。光宥は邑楽おうら赤岩あかいわ(現千代田町)城主の縁故者で、青柳あおやぎ城主赤井照光より阿古宇田あこうだ(赤生田)・青柳両郷のうちにおいて寺領を与えられたと記される。また天正九年(一五八一)四月一三日館林城主長尾顕長から、同一七年には顕長の後の城主北条氏規などからも寺領安堵、諸役免除を受けた(縁起)

永明寺
えいみようじ

[現在地名]東城町帝釈未渡

帝釈たいしやく峡の入口にあり、俗に帝釈堂(本堂)の名で知られる。真言宗醍醐派。石雲山喜見峰と号し、本尊は帝釈天。修験寺院として長く栄えたが、明治五年(一八七二)真言宗となった。和銅二年(七〇九)唐門からもんの嶺に神霊が降臨したのをのち現在地に移したとする説(「西備名区」、旧版「広島県史」)と、往古鬼噛おんがみ山に神霊が降臨したのを喜見峰の岩の上に移したが、寛和二年(九八六)花山院勅宣で翌年初めて伽藍を建立したとする説(芸藩通志)とがある。

永明寺
ようめいじ

[現在地名]富士市原田

たき川の左岸にある曹洞宗寺院。山号は大富山。本尊は聖観音。明治一九年(一八八六)の寺籍財産明細帳(永明寺文書)によれば、天平勝宝元年(七四九)に行基が北側の山上に開いた大富山金輪院を前身とし、洞慶とうけい(現静岡市)五世となった行之正順が文明年間(一四六九―八七)に現在地に再興して永明寺と改称したという。文明一七年九月二六日、禅僧万里集九は蒲原かんばら(現蒲原町)から富士川を渡って「富金山永明禅寺」に至り一泊し、住持行之の求めにより達磨画像に賛を加えている(梅花無尽蔵)

永明寺
ようめいじ

[現在地名]福知山市字牧

まき集落の中央にある。光泰山と号し、曹洞宗、本尊如意輪観音。開山は大極、中興開山は良尖、文正元年(一四六六)の創建と伝える。

当寺の縁起によれば、文安元年(一四四四)丹波氷上ひかみ円通えんつう(曹洞宗丹波中本山、現兵庫県氷上郡氷上町)の大極が当地牧川の辺りに草庵を結び座禅掛錫していたところ、当地の土豪牧・福井両氏の夢に、かの僧は観音の応現であり、彼らの屋敷跡に精舎を建て、かの僧を開山とすれば、子孫長久であろうと告げた。

永明寺
ようめいじ

[現在地名]芦刈町大字芦溝字小路

芦刈町の北部にある。山号は仏日山。臨済宗南禅寺派で、本尊は釈迦如来。元亀年間(一五七〇―七三)の創建、開山は斉谷椿。

境内に藩政時代中期の勤皇家横尾紫洋(道質・孟篆・文輔)の墓および記念碑がある。紫洋は関白九条尚実に仕え、勤皇討幕を図ったという。佐賀藩主鍋島治茂の帰国命令に従わなかったので捕縛されて永明寺に幽閉され、天明四年(一七八四)斬に処せられた。

永明寺
えいめいじ

[現在地名]邑楽町中野

中野なかの集落の南西に位置する。精勤山薬師院と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。寺伝によると元弘元年(一三三一)足利尊氏の兜守である薬師如来を本尊とし夢窓国師が開基。法孫一三世に至るまで臨済宗であったが、天正年間(一五七三―九二)頃退転、寛永元年(一六二四)吉州正朔が再興、曹洞宗に転じ伝法開山となった。明和年間(一七六四―七二)火災により総伽藍・古文書類のすべてを焼失、一〇世知足東海のとき本堂を再建した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報