刈村(読み)あしかりむら

日本歴史地名大系 「刈村」の解説

刈村
あしかりむら

[現在地名]芦刈町大字芦溝あしみぞ小路こうじ

慶長絵図は、長崎街道より南部を平吉ひらよし郷、北部をなん郷としている。平吉郷の名は、低平で葦の繁茂した干潟荒野の景観によるもので、葦を吉の佳名に改変したものとされる(芦刈町史)。弘安元年(一二七八)の平某下文(実相院文書)に「平吉給分」とあるのが最初であろう。

芦刈村を根拠地とした最初の豪族は、千葉氏の家臣徳島氏であった。「肥前国長崎県小城郡村誌」(明治一五年刊)に、「徳島孫八郎城址、本村松瀬ニアリ、地少シク高シ、陣ノ森ト呼ブ、四方平地、濠水ヲ繞ラス、凡百二十間、方今皆民家田圃トナル」とある。

刈村
あしかりむら

[現在地名]三重町芦刈

小坂おさか村の北西北東流する菅生すごう川流域にある。北東から南西へ日向道が通り、東部で臼杵うすきおか城路が合流する。近世を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には菅生村と一括された芦刈村分の一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳には蘆刈村とみえ、高四二六石余、下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高二八一石余・出来高一六五石余、田方二九〇石余・畑方一五六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報