正円寺(読み)しようえんじ

日本歴史地名大系 「正円寺」の解説

正円寺
しようえんじ

[現在地名]村松町村松 寺町

市街地の南端てら町の外れに位置する。真言宗智山派龍形山と号し、本尊は大聖不動明王。延暦一五年(七九六)最澄が出羽国より帰洛の際に草創。大同二年(八〇七)堂宇建立と伝える。初めは天台宗で龍形山修学しゆうがく院と称し、北東隣の臥龍がりゆう山にあった。応徳元年(一〇八四)僧善慶が真言宗に改宗し、無本寺であった。なお「無関和尚塔銘」に「到越後州七歳 建保六年ナリ、依於正円寺僧寂円乃伯父也、十三歳 元仁元年ナリ」とあり、大明国師無関は、建保六年(一二一八)に当寺寂円のもとに立寄っている。

正円寺
しようえんじ

[現在地名]福光町荒木

小矢部おやべ川の東岸、寺屋敷てらやしきとよばれる地にある。天寧山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来開基縁起などは不明だが、慶長一一年(一六〇六)に玄信により再興されたという(貞享二年寺社由緒書上)。同年に親鸞絵像(当寺蔵)が「善徳寺門徒利波郡河上野尻保内高屋村正円寺玄信」に下付されており、これをもって再興というのであろう。なお当時は高屋たかや(現井波町)に寺基が置かれていた。

元和九年(一六二三)聖徳太子絵像・七高僧絵像(同蔵)が「善徳寺下利波郡河上野尻保内高屋村同吉江荒木村正円寺玄信」に下付され、この間に高屋村から荒木あらき村へ寺基を移したようである。文禄三年(一五九四)の砂子坂末寺之覚帳(光徳寺文書)には「荒木道教道場」がみえ、道教となんらかの関係があったものとみられる。

正円寺
しようえんじ

[現在地名]楠町大字船木

旧山陽道に沿って開けた船木ふなきの市街地の南側にある。寺の前の小路を北に行くと舟木宰判の勘場跡に達する。浄土真宗本願寺派で思惟山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「注進案」によれば、開基は了西。伊予須(次)摂津という者の嫡男。父が主君大内義隆敗死の後天文二〇年(一五五一)船木の真言宗地蔵じぞう院で殉死

正円寺
しようえんじ

[現在地名]下関市大字豊浦町

忌宮いみのみや神社の北東にあり、旧山陽道に面する。浄土真宗本願寺派で鼓石山と号し、本尊は阿弥陀如来。

豊府志略」によれば、永正年中(一五〇四―二一)浄信の開創といい(寺社由来は天正年中とする)、山号を月光山と称していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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