中ノ町(読み)なかのまち

日本歴史地名大系 「中ノ町」の解説

中ノ町
なかのまち

[現在地名]仙台市さくら岡公園おかこうえん大手町おおてまち

仙台城大手門より東へ広瀬川おお橋で渡ると、すぐに肴蔵・紙蔵・塗師蔵・家具蔵・蝋燭蔵などが並ぶ。ここに吹貫ふきぬき門が設けられ、南北に街路が延び、北は川内かわうちに通じる大工だいく橋に至る。これが中ノ町で、明治二二年(一八八九)の改正仙台市明細全図では東側の南北に通る中ノ町と、西側の広瀬川に近いなか町川前まちかわまえ丁からなる。現在の桜ヶ岡公園の西下、仲の瀬なかのせ橋とおお橋との間の広瀬川右岸に割出され、桜ヶ岡公園より一段低い仙台下町段丘上に位置する。正保仙台城絵図には町の大半が中間屋敷とある。元禄城下絵図では当地西部、大橋たもと付近には御作事方会所、その北隣には御人足小屋がみえ、ほかは小人衆の住居。

中ノ町
なかのちよう

[現在地名]米子市中町なかまち

みやノ町の北にあり、ほぼ東西に走る道筋に沿う武家地。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図(県立博物館蔵)など江戸期作製の絵図ではいずれも中ノ町とみえ一三二間余。町名は武家地のほぼ中央部に位置することによる。荒尾氏入部後は空屋敷が多くなり、いずれの絵図でも広い範囲が空地もしくは陸田と記される。明和天明(一七六四―八九)頃の米子御城下図(同館蔵)でも栗木・金万・加納・熊沢氏らの屋敷がある程度で、ひがし町との間は広く空地・畑となっている。

中ノ町
なかのまち

[現在地名]福知山市字中ノ

福知山城下のうち町地西側に位置する武家地。中下流の武家屋敷が多い。町の中を東西に、木村きむら口門を経て天田郡西部に通じる街道が通る。

稲葉紀通時代(寛永―正保)の福知山城下図は、この地帯に南北の道を三本描き、東より「桑ノ木原西丁」「桑ノ木原中ノ丁」「桑木原端ノ丁」と記す。この図ではその西は田畠を描くが、次の松平忠房時代(慶安―寛文)の福知山城下図では、木村口門の内側北に松平家の菩提寺であった本光ほんこう寺を描く。

中ノ町
なかのまち

[現在地名]下関市大字豊浦町

金屋かなや町の南、南北に通る山陽道を挟む両側町。町の西方国分こくぶん寺、南西方に忌宮いみのみや神社があり、東は松原を挟んで周防灘に面する。

天正二年(一五七四)八月一四日付の長門国一二両社祭礼之事(長門二宮忌宮神社文書)に「中ノ町」とみえる。正保元年(一六四四)一二月八日付の長門国一二両社祭礼之事長府市場之事(同文書)

<資料は省略されています>

とあり、魚類商売の座がもたれていた。

江戸時代初期の様子を伝える長府古図(毛利家蔵)によれば、山陽道に面して西側に正円しようえん寺・正念しようねん寺があり、それより西部には武家屋敷が建ち並ぶ。

中ノ町
なかのちよう

[現在地名]宇和島市広小路ひろこうじ京町きようまち

東南に鎌原かんばら通、西北広小路ひろこうじがあったので、中ノ町という。正徳二年(一七一二)二月六日夜、家老桜田監物屋敷の裏長屋から出火し、侍屋敷一五三軒、足軽屋敷四七軒、宇和津彦うわつひこ神社、大超だいちよう寺・延命えんめい寺・神宮じんぐう寺、百姓家(町屋)二七軒を焼く大火となった。この時、中ノ町に横丁がなく不便であったので、南部に横丁をつけ、はまぐり横丁と称した。文久二、三年(一八六二、三)頃の城下町絵図によると、二五軒の上士の屋敷が認められる。

中ノ町
なかのちよう

[現在地名]鳥取市中町なかまち

うえ町の西にあり、南北に通る道筋に沿った武家屋敷地。「鳥府志」には中ノ丁とあり、古名は吉方中よしかたなかノ丁と称し、近来は小中こなかノ丁というと記す。また権現堂中ごんげんどうなかノ丁ともよばれた。宝永二年(一七〇五)米村所平宅の隣に、在御用場が建てられた(因府年表)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報