厚狭郡(読み)あさぐん

日本歴史地名大系 「厚狭郡」の解説

厚狭郡
あさぐん

面積:一六五・七七平方キロ
くすのき町・山陽さんよう

県の南西部、南は周防灘に面し、東から南にかけて宇部市・小野田市、北は美祢みねおよび美祢郡秋芳しゆうほう町、西は下関市と接する。郡の北部は中国山地の洪積世丘陵がしだいに低平になって緩斜面を形成する地域にあたる。郡内にはとくに高山はなく、楠町の荒滝あらたき(四五六メートル)山陽町の松岳まつたけ(三二三・七メートル)が目立つ程度。おもな河川には東に有帆ありほ川、西に厚狭川があり、流域に狭い河谷をつくり南流、周防灘に注ぐ。なお旧厚狭郡域は宇部市の大部分と小野田市の全域を含んでいた。

〔原始・古代〕

宇部市東部の西岐波にしきわ地区や常盤ときわ池などからは旧石器の出土がみられるが、現厚狭郡内では発見されておらず、また縄文遺跡も宇部市や小野田市域には出土しているが、現厚狭郡内では未発見である。しかし弥生以降古墳時代に至る遺跡は各所にみられ、とくに山陽町大字厚狭の長光寺山ちようこうじやま古墳は県内でも有数の大規模な前方後円墳で、小野田市の大判山おおばんやま古墳(消滅)とともに重要な古墳である。この古墳では、大阪府の紫金山しきんざん古墳(現大阪府茨木市)と同笵のものを含め三面の製三角縁神獣鏡と、奈良県東大寺山とうだいじやま古墳(現奈良市)出土のものに類似した鍬形石が発見され、近畿文化圏と交渉のあったことが注目される。小規模な円墳は、宇部市・小野田市および山陽町の瀬戸内海沿岸部に多かったが、現在では大半が消滅した。

郡名は天平九年(七三七)の長門国正税帳(正倉院文書)に「遷往厚狭郡弐佰肆拾束」とみえる。「和名抄」刊本には、厚狭郡の郷名として見穂みほ良田よしだ小幡おはた厚狭あつさ久喜くき二家ふたい神戸かんべ駅家うまや松室まつやの九郷(高山寺本は見穂・神戸・駅家・松室の四郷を記していない)を載せるが、このうち久喜郷・厚狭郷・小幡郷が、また駅家については阿潭あたみ・厚狭・埴生はぶの三駅の名が「延喜式」にあり、厚狭・埴生の両駅が郡内に比定される。厚狭郡の郡家は、山陽町に残る大字こおりの地名からみても、厚狭盆地の東側にあったものと考えられる。

古代条里制遺構の復原は行われていないが、山陽町の厚狭盆地一帯および大字埴生、楠町の大字船木ふなきの一部などに「坪」の字がついた地名が散見する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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