正八幡宮(読み)ショウハチマングウ

デジタル大辞泉 「正八幡宮」の意味・読み・例文・類語

しょう‐はちまんぐう〔シヤウ‐〕【正八幡宮】

もと、大隅おおすみ一の宮である鹿児島神宮の異称。のちには宇佐神宮石清水八幡宮などにもいう。

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精選版 日本国語大辞典 「正八幡宮」の意味・読み・例文・類語

しょうはちまん‐ぐう シャウハチマン‥【正八幡宮】

[一] 鹿児島県姶良(あいら)郡隼人町の鹿児島神宮の別称。
百練抄‐長承元年(1132)六月二三日「大宰府言上正八幡宮高四尺弘三尺厚二尺石二自然出来各有八幡二字銘事」
※保元(1220頃か)上「さすが天子の御運は、凡夫の思慮にあらず。天照太神、正八幡宮の御はからひなり」

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日本歴史地名大系 「正八幡宮」の解説

正八幡宮
しようはちまんぐう

[現在地名]御津町高津

高津たかづの字すげにあり、祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・彦火火出見命。菅村の産土神で、嘉暦元年(一三二六)に山城国石清水いわしみず八幡宮を勧請したと伝える。天正一一年(一五八三)宇喜多孫一郎の発願により社殿を再建、当時の神主は楢村甚左衛門家吉であった(社蔵棟札)。寛永一八年(一六四一)本殿を再建。当時の神主は楢村久左衛門、金川かながわ村の妙圀みようこく寺第一〇世日航が同年五月七日に行われた遷宮の開眼師となっている(同棟札)。延宝二年(一六七四)頃には徳米一石を有し、末社に天神・稲荷・山王・竜王・妙見・産宮の六社があり、神主は楢原越中であった(「御国中神社」池田家文庫)

正八幡宮
ただすはちまんぐう

[現在地名]大畠町大字神代 浦

神代こうじろ東浜ひがしはまの山手に鎮座する。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后ほか。旧郷社。

「玖珂郡志」によれば、文禄四年(一五九五)に内藤河内守元栄という者が、山城国石清水いわしみず八幡(現京都府八幡市)をこの地に勧請したと記す。鎮座地は古くからみや山とよばれていたが、延宝年間(一六七三―八一)洪水で一部が崩れ、神宝や縁起流失

正八幡宮
しようはちまんぐう

[現在地名]宇部市大字末信

厚東ことう川左岸の末信すえのぶの南のはずれに鎮座。主神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。旧村社。

「注進案」によれば、貞観元年(八五九)厚東氏が神託によって厚東川左岸の小野おのから下村しもむらまでを氏子として創建。治承三年(一一七九)厚東武光の時霜降しもふり城を築城した際、当社を南陽の守護神としたという。また嘉暦二年(一三二七)には小野にも分社をつくったと伝える。しかし延文三年(一三五八)厚東氏の没落により、その保護を失った。

正八幡宮
しようはちまんぐう

[現在地名]鰺ヶ沢町舞戸町

舞戸まいど集落の南側にあり、祭神は誉田別尊・倉稲魂命。旧郷社。社伝によれば、天文(一五三二―五五)の頃木村右衛門が勧請、延宝七年(一六七九)舞戸・田浦たうらたての三ヵ村が再建したといい、明和三年(一七六六)七代藩主津軽信寧の時、赤石組の鎮守・祈願所となったとある。「西津軽郡史」によれば、慶安(一六四八―五二)頃の絵図には海側にあり、現在の社地に移ったのは、享保二〇年(一七三五)舞戸村・田浦村九七軒の焼失後とある。

正八幡宮
しようはちまんぐう

[現在地名]藤崎町矢沢

集落中ほどの福富ふくとみにある。祭神誉田別尊。旧郷社。創立については二説あり、大同年間(八〇六―八一〇)坂上田村麻呂が鬼神を射殺した矢を修験の明円に与え、明円は矢を正八幡として祀り、矢沢山勝軍寺を建立したといい(新撰陸奥国誌)、また元和元年(一六一五)異体の木像を正八幡として祀り、矢沢村の氏神としたともいう(堂社縁起修験道由緒)

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デジタル大辞泉プラス 「正八幡宮」の解説

正八幡宮

山口県山口市にある神社。萩藩主、毛利宗広が1740年に建立した本殿、拝殿、楼門及び庁屋は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の正八幡宮の言及

【鹿児島神宮】より

…式内社,旧官幣大社。一名正八幡宮(大隅宮)。708年(和銅1)現地に遷座したと伝える。…

※「正八幡宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」