矢沢村(読み)やざわむら

日本歴史地名大系 「矢沢村」の解説

矢沢村
やざわむら

[現在地名]上田市大字殿城とのしろ

殿城でんじよう山西麓の村、東は殿城山を隔てて東田沢ひがしたざわ村(現小県郡東部町大字かのう)、西はかん川を隔てて新屋あらや村、南はもり村、北は赤坂あかさか村と境をなす。集落大屋おおや村方面より、上州や松代まつしろへ向かう道に沿ってある。集落の東側を、北より南へ吉田堰よしだせぎが通り、西側段丘下を、神川が北より南へ流れている。吉田堰の東側に矢沢城跡があり、集落は城下集落をなしている。

永禄八年(一五六五)一一月武田信玄の諏訪社上社造営再興次第(諏訪大社上社文書)に、「矢沢正物合五貫文、太刀一腰」とある。天正一〇年(一五八二)武田氏滅亡の後も、矢沢氏は真田氏の重臣として矢沢の地を領有していたが、元和八年(一六二二)真田氏が松代へ転封となると、矢沢氏も松代へ移り、この地は仙石氏の領有となった。

矢沢村
やざわむら

[現在地名]八戸市尻内しりうち町 矢沢など、一番いちばん町三丁目

八戸城下の西、浅水あさみず川の河口沿岸の沖積地に位置する。東は尻内村、西は大仏だいぶつ村、北は根市ねいち村・花崎はなさき村、南は馬淵まべち川を隔てて八幡やわた村・田面木たものき村に接する。永禄(一五五八―七〇)の頃櫛引氏の所領であったが、元亀二年(一五七一)の戦いにより根城南部氏領に編入されたという(「南部八戸家系」南部家文書)

元和四年(一六一八)知行目録に「弐百四石三斗壱升弐合 矢沢」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。

矢沢村
やさわむら

[現在地名]花巻市矢沢

幸田こうだ村の西、南西流する北上川左岸に位置する。当地槻木つきのきの槻木家に伝わる槻木稗貫家系図などによれば、稗貫氏の祖為重(一説に広重とも)の四代孫左近光直が当地を領して矢沢氏を称したといい、また槻木氏の祖下野守光治は光直の孫にあたるという。正保国絵図に村名がみえ、高三六六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高一九〇石余とあり、七ヵ年平均の免は四ツ六分八厘二毛。元禄十郡郷帳による〆高は田九六九石余・畑二三二石余、当村に幸田村が入るとある。「邦内郷村志」では蔵分二五〇石余・給分七五四石余、家数一四二、馬一七八。

矢沢村
やざわむら

[現在地名]藤崎町矢沢

東は小畑こばた村、西は水沼みずぬま村、南は藤越ふじこし村、北は柏木堰かしわぎぜき村に接し、村内を羽州街道が通る。村名について坂上田村麻呂正八幡宮に関する伝説がある。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「やさわ」とあり、当村と思われる。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高六六九・八三石、うち田方六一二・六三石とある。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田方一〇五町三畝七歩、畑方一三町五反二畝八歩、屋敷一町七畝二〇歩、田畑屋敷合せて一一九町六反三畝五歩、村高一二四九・〇八八石、漆木二九本とある。

矢沢村
やざわむら

[現在地名]岩瀬村矢沢

畑田はただ村の東、低丘陵地の間を岩根いわね川が東流。須賀川袋田ふくろだ(現須賀川市)から守屋もりや村を経て会津への道が通る。天正一七年(一五八九)一一月二〇日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「谷沢」とみえ、二階堂氏旧臣浜尾盛泰に安堵されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「屋沢」とみえ、高六三二石余、蒲生氏郷徒衆の知行地。白河古領村郷高帳に「谷沢村」とみえ、高六三二石余。寛文一三年(一六七三)の検地では高一千四七石余(「大久保藩村々石高」福島県史)

矢沢村
やさわむら

[現在地名]二戸市仁左平にさつたい

仁左平村の北に位置する。江戸時代には当地に渡場があったらしく、正保国絵図には村名はみえないが「馬渕川舟、渡広二十五間、深五尺」とあり、「新撰陸奥国誌」にも、当村の北二町の所に「金田一村通路」の渡しがあって、幅は五〇間であったことが記されている。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付にみえる「金田一川向」は当村のことと思われ、蔵入高一八石余、七ヵ年平均の免一ツ四分二厘六毛。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報