歌舞伎衣装(読み)かぶきいしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「歌舞伎衣装」の意味・わかりやすい解説

歌舞伎衣装
かぶきいしょう

歌舞伎は舞楽や能のように、発生や発達段階で権力階級の庇護(ひご)を受けて成育したものではないから、その衣装もおのずと舞楽装束能装束と異なってきわめて庶民的な特性がある。町人芸能として完成したのちにも、つねに武家階級に対するはばかりがあり、一方、幕府の奢侈(しゃし)禁止令は、執拗(しつよう)にその衣装の材質や染織技術に干渉を加えている。

 このような環境に育った歌舞伎衣装は、あたかも江戸庶民の染織が、その許された枠のなかでけっこうその個性を生かし、ときには幕府の弾圧が刺激となって新しい技術を発達させたと同様に、舞楽や能にはみられない庶民の根強さ、しぶとさ、がまん強さをみせている場合が多い。すなわち、世話物に現れるような町方の風俗を表すものではいかに忠実な写実を行っても問題はないが、いったん時代物の武家や公家(くげ)のこととなると、現実の服装そのものを用いることすら禁忌であるから、歌舞伎衣装では、これをとっ拍子もない形のものにつくりあげている。たとえば、殿様が用いる小忌衣(おみごろも)という、襟が扇形に立った羽織のようなものや、お姫様といえば、いわゆる赤姫とよばれる赤地に金銀糸の刺しゅうの振袖(ふりそで)に、銀の大げさな簪(かんざし)といったことが行われるなど、これは歌舞伎の舞台を、現実と幻想とが不思議に渾然(こんぜん)と溶け合った、妖(あや)しく美しい仮象の世界に盛り上げることに大きな役割を果たしている。

 衣装の材質は、舞楽や能の装束に比べると比較にならぬほど粗末であるが、舞台効果のうえでは、歌舞伎の特性を盛り上げるのに最大限の配慮がなされている。たとえば、多く用いられている刺しゅうは、本格的なものではなくて、部分的に繍(ぬ)ったものの貼(は)り付けや、アップリケが多く、また衣装の表は絹でも裏は木綿であるとか、何枚も重ねて着ているようにみえる襲(かさね)の衣装が、実は襟元や裾(すそ)だけが重なっている人形仕立てであったりする。しかしこれがひとたび役者に着装されて舞台の上で動くと、みごとな生彩を放って生きてくるなど、歌舞伎衣装ならではの実用に徹した強い庶民性である。

[神谷栄子]

歌舞伎衣装略解

時代物の衣装


〔1〕冠装束(かむりしょうぞく) 公家の着る束帯(そくたい)とか衣冠(いかん)の類。『菅原(すがわら)』の道真(みちざね)とか『安達原(あだちがはら)』三段目の桂中納言(かつらちゅうなごん)こと安倍貞任(あべのさだとう)、『六歌仙』の大伴黒主(おおとものくろぬし)などの役に。

〔2〕狩衣(かりぎぬ) 歌舞伎の狩衣には2種ある。(イ)貴人武将の役に用いる。『忠臣蔵』の大序の直義(ただよし)、『輝虎配膳(てるとらはいぜん)』の輝虎、『紅葉狩(もみじがり)』の維茂(これもち)など。(ロ)直垂(ひたたれ)のように垂領(たりくび)になっているもので、胸紐(むなひも)や袖括(そでぐく)りがついている。主として鎧(よろい)の上に着る。『盛綱陣屋』の時政(ときまさ)、『安達原』三段目の義家(よしいえ)が鎧の上に着ている。

〔3〕大紋(だいもん)または素袍(すおう) 武士の大礼装で、直垂と同じ形式、家紋を大きく染め抜いたのが大紋。

〔4〕壺折(つぼおり)衣装 能装束の着装法からきた名称で、歌舞伎では女方(おんながた)ばかりでなく立役(たちやく)の扮装(ふんそう)にもみられる。現在、貴人武将の常服に用いられる金色燦然(さんぜん)たる織り模様、縫い模様のある裾を引きずる羽織状の衣装に限り壺折という。ただし、壺折の着方はせず、形式も変化して羽織と同様胸紐がついている。襞(ひだ)のある立襟付きもあり、これを小忌衣(おみごろも)という。『千本桜』四の切の義経(よしつね)、『金閣寺』の松永大膳(だいぜん)といった武将の役が着ている。

〔5〕四天(よてん) 歌舞伎独自の衣装で、もっとも歌舞伎色豊か。

〔6〕上下(かみしも) 時代物ではもっとも多く使われる衣装で、長袴(ながばかま)を用いる長上下と、普通の袴を用いる半上下とある。

〔7〕胴丸、ちはや いずれも荒事(あらごと)系の衣装。

〔8〕素網(すあみ) 唐織(からおり)四天や小袖の下に着込むシャツ状の網襦袢(じゅばん)で、鎖帷子(くさりかたびら)を意味する。黒色、金、銀などの種類がある。

[神谷栄子]

特殊衣装(仕掛け物)


〔1〕「引抜き」「ぶっかえり」は劇中の人物が本体を現すときに、舞台の居所のまま衣装をとっさにかえて、性格の一変を効果的に外面に示す方法。いずれも、着ている衣装の襟、袖付け、袂(たもと)の付け根に玉がつけてあり、「引抜き」は、玉を引き抜くことによって表着の衣装が上下に分かれて全部脱げ、下の違う衣装が外面に現れる仕掛けになっている。「ぶっかえり」は、その玉を抜くと、玉についている粗(あら)縫いの糸が抜けて、あらかじめ衣装の裏に折り畳んであった布が前後にバラリと返って、まったく異なった衣装にみえる仕掛けである。これらは俳優が単独ではできず、後見の協力が必要で、その巧拙によって効果に影響がある。

〔2〕早替り 1人の俳優が劇中、幾通りもの役を演じ、次から次へ素早く異なった扮装で現れる演出のとき、衣装は上から下まで全部を重ねて綴(と)じ付けてあるのを、そのまま両手を通して前を合わせればよいようになっていて、横腹のあたりに針金を芯(しん)にした栓があり、それを捻(ひね)って締めるだけの操作で扮装が完成する方法。

〔3〕肉襦袢(にくじゅばん) 刺青(いれずみ)の肌や荒事(あらごと)で隈取(くまどり)した手足をみせる場合とか、相撲(すもう)取りの肥満した裸体を現すときなどに肌に着込む衣装。

[神谷栄子]

世話物の衣装

江戸時代の市井風俗を、誇張や虚飾を最小限にとどめた描写で行っているので、時代物の衣装ほどには様式的なものは多くない。

[神谷栄子]

『相馬皓著『歌舞伎――衣装と扮装』(1960・講談社)』

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