横田庄(読み)よこたのしよう

日本歴史地名大系 「横田庄」の解説

横田庄
よこたのしよう

竹崎たけざき大呂おおろ中村なかむら稲原いなはら・横田・下横田・八川やかわ辺りに比定される。「和名抄」に載る仁多郡横田郷の郷名を継承する庄園。初めは山城国石清水いわしみず八幡宮領で、のち一部が皇室領(仙洞御所御料所)となり、さらにその一部は泉涌せんにゆう(現京都市東山区)領となった。元暦二年(一一八五)正月九日の源頼朝下文案(石清水文書)に石清水八幡宮領として横田庄とみえ、当庄でも平家追討の争乱の間に武士たちの年貢抑留・兵粮米賦課がなされていた。天永二年(一一一一)六月二五日の賀茂家栄日時勘文(同文書)によると、出雲国平浜ひらはま(現松江市)の遷宮が行われているから、横田別宮もこの頃に成立し、その神領が横田庄とよばれたと思われる。当庄には仁多郡司品治部の末胤かと思われる横田兵衛尉維之がいたが(源平盛衰記)、平家方についたため元暦元年以降勢力を失墜した(同年五月日「梶原景時下文案」益田家什書)。横田氏が抑えられた後へ、武士庄官の催職として小池久朝(のち杠と改名)が八幡宮の分霊を捧持して庄内尾園おぞの村に来住したという。

寛喜元年(一二二九)以前に三所みところ(現仁多町)地頭三所左衛門尉長綱が請文を領家に届け、年貢鉄・公事料銭春秋各五〇貫文を納入の条件で地頭請を成立させている。その後地頭長綱後家尼は未進を続けたため、石清水八幡宮側の訴えにより寛喜元年に停止の関東下知状が下ったが未進は続いた。貞永元年(一二三二)地頭請所は停止、のち要望によって再び地頭請となったが、依然として未進は続いた(「石清水八幡宮雑掌祐範申状」蓬左文庫蔵「斉民要術」紙背文書)。このため地頭職は没収され、北条氏の所領に編入されたと思われ、文永八年(一二七一)には横田庄五五丁の地頭は相模式部大夫北条時輔となっている(同年一一月日杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳)。しかし時輔は執権となった弟時宗と対立し、翌九年に攻め殺され、時輔の母尼妙音が当庄の給主となった。弘安四年(一二八一)四月一五日妙音は本願となって尾園村にあった八幡宮を庄内中村の馬場ばばに移し(横田八幡宮棟札)、庄内の地を岩屋いわや寺その他の寺社に寄進、正和二年(一三一三)一二月一八日に没している(「快円日記」岩屋寺文書)

横田庄
よこたのしよう

興福寺雑役免田である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の添上郡に「横田庄十二町五反 不輸免田畠五町八反大 公田畠六町六段小」とある。

不輸免田畠の内訳条里(括弧内は坪数)は、慈恩じおん寺田四町九反が四条一里(三)・二里(二)、三条二里(一)不退ふたい寺田九反大が五条一里(一)である。公田畠の条里は、四条一里(八)・二里(二)、三条一里(一)、五条一里(二)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報