植田村(読み)うえだむら

日本歴史地名大系 「植田村」の解説

植田村
うえだむら

[現在地名]十文字町植田

南の皆瀬みなせ川で雄勝おがち郡と境をなす。東は越前えちぜん村、西は谷地新田やちしんでん村、南は志摩新田しましんでん村、北は木下きした村に接する。親郷村で寄郷は一二ヵ村である。

梅津政景日記」元和四年(一六一八)二月二八日条に「御袋様(義宣母)、御知行御返進被成、金ニ御請取被成候間、沼館・(植)田去年之御物成、御蔵へ納させ候へと被申越候。又馬共念ヲ入候様ニ長三へ可申理由」とあり、植田村は佐竹義宣母伊達氏の知行地であった。また同三年九月二一日条にも、義宣が上(植)田理介の馬を小判三両、小袖三ツで購入し、馬産地でもあった。

佐竹氏入部前、植田館があったといい、「植田故城は植田村にあり。

植田村
うえだむら

[現在地名]観音寺市植田町

坂本さかもと村の東、いちたに川へ流れ込む加儀田かぎた川流域の平野部に位置する。「西讃府志」によると村の規模は東西一六町・南北一八町。現広島県御調みつぎ久井くい江木の稲生えぎのいなり神社蔵大般若経第二四八巻・三八六巻奥書に、応永一六年(一四〇九)七月豊田とよた郡坂本郷内殖田村柏木住人行永三次聖純(柏木住僧聖純)が書写したとある。これらは伊予国越智おち日吉ひよし大浜おおはま(現愛媛県今治市)の寺院で書写され、のち六〇〇巻そろえて小早川隆景稲生神社に奉納したもの。

慶長六年(一六〇一)一〇月一四日、生駒一正は植田の五七石余を比々与三(矢原正方)に宛行っている。寛永国絵図では坂本郷所属。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では高九八四石余、うち一二石は新田分。

植田村
うえだむら

[現在地名]いわき市植田町・中岡町なかおかまち植田町中央うえだまちちゆうおう植田町本町うえだまちほんまち植田町南町うえだまちみなみまち

さめ川下流左岸にあり、南対岸は大島おおしま村、西は後田うしろだ村、東は佐糠さぬか村。浜街道の渡場で宿場でもあった。上田とも記される。康正三年(一四五七)七月二九日の岩城周防守清隆寄進状(八槻文書)によれば、「岩城之郡之内上田所領一所」が近津ちかつ大明神(現棚倉町八槻の都々古別神社)に寄進されている。永正年間(一五〇四―二一)と推定される四月二日の竹隠軒宛の佐竹義舜書状(岡本元朝家蔵文書)に「特に植田へ御越種々御取成祝着候」とあり、佐竹一族の内紛を岩城氏家臣の岡本竹隠軒が現地まで出向いて調停している。天正一五年(一五八七)一二月一四日の岩城常隆証状(秋田藩家蔵岩城文書)によれば「植田成敗之儀」を佐藤大隅守に命じている。

植田村
うえだむら

[現在地名]塙町植田

伊香いこう村の南、久慈くじ川西岸段丘と八溝やみぞ山地東縁に立地。水戸街道に沿う。文明一六年(一四八四)八月二〇日の慶俊・慶乗連署状(八槻文書)に「上田野檀那之事」とみえ、当地の檀那職は八槻やつき(現棚倉町)近津ちかつ明神が握っている。永禄一二年(一五六九)一一月三日の近津都々古別神社祭礼日記(金沢文書)に「八番 米六升二合代六十弐文植田」とみえ代銭六二文を、「中沢」(江戸時代の植田村枝郷中沢村)は半在家として一升(代銭一〇文)を近津明神の祭礼の頭役として納めていた。

植田村
うえたむら

[現在地名]南国市植田

植田峯の南に展開、「土佐州郡志」は「直高知東三里許、東限久次村、西限久礼田村、南限陣山、北限後山頂、相接天行寺村、東西八町余南北十町余、(中略)其土白雑砂」と記す。村域内には古墳時代後期のじようたに古墳群(三基)があった(現在は全壊)。古代殖田うえた(和名抄)の中心地で、式内社殖田神社があり、賀茂氏の一拠点であったと伝える。

天正一六年(一五八八)の植田本村地検帳によると検地面積五七町五反余、うち田四八町八反余、屋敷五町八反余、残りは畠と荒地である。

植田村
うえだむら

[現在地名]下関市大字植田、豊浦郡菊川きくがわ町大字日新につしん

現下関市の北部にあたり、村の北東部に六万坊ろくまんぼう(三九五・二メートル)がそびえる山間の小村。西は内日下うついしも、北は楢崎ならさき(現豊浦郡菊川町)、東は七見ななみ(現菊川町)阿内おうちの各村と接する。長府藩領で東豊浦郡奥支配に属する。

古くは「内日村」村域の一部であった。「地下上申」によれば「豊浦郡内日村石高付由来書境目書」に「植田村庄屋 小野右衛門」と村名が現れ、「上内日」「下村」(下内日)の両村と合石で報告されている(→内日上村

植田村
うえつたむら

[現在地名]春野町豊岡とよおか

篠原しのはら村の北、南流する気田けた川に西流してきた石切いしきり川が合流した地点よりやや下った所の気田川左岸に植田の集落、右岸に野尻のじりの集落があり、赤岡あこおかの集落は南側の山の南斜面に散在する。江戸初期から幕府領正保郷帳に村名がみえ、永一八貫五〇〇文。うち法泉ほうせん(現曹洞宗宝泉寺)領五〇文・八幡領五〇文、雑木小松少山と注記される。元禄郷帳では高一四四石余。小物成は売物二割出・黐役・駒役・鉄砲役など(年未詳「犬居領四一ヵ村小物成等書上」白川家文書)

植田村
うえだむら

[現在地名]天白区天白町植田、千種ちくさ区天白町植田、名東めいとう区天白町植田

南は天白川によって区切られている。村の西南端で、天白川と植田川が合流し、川に沿った低地に集落が開け、その南西の端を平針ひらばり宿へ向かう平針街道が通る。村の東部および北部は山林が広がり、植田山・梅森坂うめもりざかと称した。「寛文覚書」によれば田畑六四町九反三畝余のうち、田が五八町一反四畝。「徇行記」によれば概高九一三石六斗余のうち、蔵入高六三八石余を除く部分が藩士三人の給知。植田村と平針村境を流れる川を同書はこめ(現天白川)と記す。

植田村
うえだむら

[現在地名]精華町大字植田

木津きづ川西岸に位置し、東は菅井すがい村。村内を南北に奈良街道(歌姫越)が通る。「京都府地誌」は当村の地勢を「東方一帯田疇ヲ隔テ、遥ニ木津川ニ臨ム、西ハ巒峰相属シ恰モ翠屏ヲ立ルカ如シ、土地概高ナレトモ運輸便利、薪足リ炭乏シ」と記す。

享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳によれば高三五三・三四五石、知行の内訳は旗本大岡主殿一〇〇石のほかは、宝永二年(一七〇五)加増された禁裏増御料となっている。

植田村
うえだむら

[現在地名]岩木町植田

東は鼻和はなわ村、北は細越ほそごえ(現弘前市)、南は八幡やわた村に接し、西は岩木山の裾野で草山となる。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「上田」とある。貞享四年(一六八七)検地帳では細越村を植田村に編入し、植田村から西山にしやま村を分村している。支村西山村の村高は虫食いで不明。享保一一年(一七二六)植田村の支村西山村を植田村と改め、独立村としたという(「村名改称并新村創立調」八木橋文庫蔵)。「平山日記」によれば翌一二年植田村を細越村、西山村を植田村と改めたともいう。

植田村
うえだむら

[現在地名]加古川加古川町北在家かこがわちようきたざいけ

小安こやす村の北に位置する。村の西部を加古川の支流とまり川が流れる。上田うえだ村とも記す。天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)中の浄観分寄進作人々数帳には「上田村四郎衛門」と記され、抹消されている。慶長国絵図にも「上田村」とみえ、正保郷帳によると田方二四二石余・畑方二五石余。

植田村
うえだむら

[現在地名]安来市植田町

神庭かんば村の東に位置し、東は飯梨いいなし川と矢田やだ村。横穴墓の多い地域である。正保国絵図・「雲陽大数録」に村名がみえ、「郡村誌」によると田六五町一反余・畑八町一反余・宅地四町一反余・山林二五町一反余、戸数九七・人数三七七、牛四五・馬二、人力車一・荷車七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報