浜街道(読み)はまかいどう

精選版 日本国語大辞典 「浜街道」の意味・読み・例文・類語

はま‐かいどう ‥カイダウ【浜街道】

[1] 〘名〙 浜に沿う街道。
紀文大尽(1892)〈村井弦斎石合戦「道を急ぎて浜街道(ハマカイドウ)を伝はりゆくに」
[2] 旧街道の一つ。江戸から水戸・平を経て陸奥国岩沼に至る海岸沿いの街道。陸前浜街道ともいう。

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デジタル大辞泉 「浜街道」の意味・読み・例文・類語

はま‐かいどう〔‐カイダウ〕【浜街道】

浜に沿っている街道。
旧街道の一。江戸から水戸を経て陸前岩沼に至る海岸沿いの街道。陸前浜街道。

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日本歴史地名大系 「浜街道」の解説

浜街道
はまかいどう

江戸から水戸城下に通ずる水戸街道に続いて、勿来なこそ(現いわき市)付近から浜通りに入り、磐城平いわきたいら城下(現同上)および中村城下(現相馬市)を北上し、岩沼いわぬま(現宮城県岩沼市)で奥州道中に合さる道である。近世末までこの街道に公称はなかったから、常陸では岩城相馬街道(新編常陸国誌)、磐城では相馬路および水戸路(磐城風土記)、相馬では仙台通道(奥相志)など様々な呼称が使用されていた。現いわき市植田うえだ町にある慶応二年(一八六六)の道標に「右すか川・松川、左江戸・水戸道」とあり、浪江なみえ町の旧高野こうや宿の道標は「仙台道、室原道」で、どこの道標も行先を示し、それが道の名称になっている。その地方だけに通用する呼称ですんだ時代にはそれで区別が明確であった。

勿来関付近から新地しんち(現新地町)までの浜街道の宿駅と、その間の道程は次のとおりである。関田せきた―一里―植田―一里二六町―渡部わたなべ―一里二〇町―上船尾かみふなお―一里三〇町―磐城平とつなぐが、植田と平の間は合宿になっており、植田―一里二八町―初田はつた―一里二八町―湯本ゆもと―一里二二町―磐城平もある。磐城平―二里二〇町―四倉よつくら―一里―久之浜ひさのはま(以上現いわき市)―二里一九町―広野ひろの(現広野町)―一里四町―木戸きど(現楢葉町)―二里一八町―富岡とみおか(現富岡町)―一里一四町―熊川くまがわ(現大熊町)。熊川からは再び合宿となり、一里一七町―新山しんざん―二里一二町―高野と、二里七町―長塚ながつか(現双葉町)―一里一六町―高野である。高野―二里―小高おだか(現小高町)―一里一八町―原町はらのまち(現原町市)―二里一八町―鹿島かしま(現鹿島町)―二里一八町―中村―一里―黒木くろき(以上現相馬市)―一里―こまみね―三二町―新地(以上現新地町)。渡部と初田とは合宿で、その総名を新田しんでん宿と称した。四郡疆界路程全図(県立図書館蔵)では渡部新田・初田新田とするが、正保・元禄および天保の郷帳では、いずれも渡部村・初田村とある。初田は発田で新開である。次の上船尾と湯本も合宿であるが、離れているためか総名がない。両者とも月の上下一五日交替で継立をした。木戸宿は山田岡上やまだおかかみ町と下小塙下しもこばなしも町との総名である。そのため木戸上町・木戸下町の名称もよく使われた。ここでは五日ごとに交替して継立を行ったという。新山と長塚も合宿であるが総名はない。ここでは月の上下一五日ごとに交替して継立した。

浜街道は阿武隈高地東縁の比較的に狭い浜通り低地帯の地形に制約され、その道筋は古代からあまり変わっていないと思われる。

浜街道
はまかいどう

陸奥気仙沼けせんぬま宿より三陸海岸沿いを北上、陸奥八戸方面に向かう街道。近世においては南から仙台藩領・盛岡藩領・八戸藩領にまたがり、仙台藩領の仙台城下より気仙沼宿を経て唐丹とうに(現釜石市)に至る道は気仙道(近代以降は東浜街道と称する)と称される。近世の全ルートは海辺道と称され、浜街道の呼称が使用されるのは明治期に入ってのことである。現在の国道四五号にほぼ合致。この道は局部的ではあるが歴史は古く、「続日本紀」霊亀元年(七一五)一〇月二九日条に、蝦夷須賀君古麻比留等の言上として、「今国府郭下、相去道遠、往還累旬、甚多辛苦」とある。陸奥国府多賀たが城と閉伊へい間の往還となったのも、この道であろう。元弘四年(一三三四)一月、閉伊氏一族が多賀城の北畠顕家に馳せ参じ、所領安堵の国宣を与えられて帰ってきたのもこの道とされる(同月二一日「閉伊親光言上状」盛岡南部文書)。鎌倉末期から南北朝期にかけて、大船渡おおふなと・釜石・宮古と、石塔婆築造の北上もこの道をたどる。なお「葛西真記録」によると、天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉奥羽仕置に際し、「上衆木村弥一右衛門時貞下向於浜海道深谷通」とある。深谷ふかや通は現在の宮城県桃生ものう河南かなん町付近に比定され、岩手県域南部に及ぶ葛西領の海岸部も浜海道と称されていたらしい。

近世の仙台藩領分のうち、「仙台領道程記」によると、気仙沼宿より四里四町一九間で今泉いまいずみ宿(現陸前高田市)、一二町四一間で高田たかた宿(現同上)、三里二一町四一間で十八里さかり宿(盛宿、現大船渡市)、四里三町一九間で吉浜よしはま(現気仙郡三陸町)、二里一四町一三間で唐丹に至る。

浜街道
はまかいどう

庄内地方の西部を南北に縦貫する街道で、ほぼ日本海沿岸に沿う。近世には越後府屋ふや(現新潟県岩船郡山北町)から国境のねずせきを越えて出羽国に入り、海岸沿いに北上、大岩川おおいわがわ温海あつみ浜五十川はまいらがわ(現西田川郡温海町)を経て三瀬さんぜ(現鶴岡市)で海岸から離れ東へ向かい、加茂かも台地の東麓をまくように水沢みずさわ大山おおやま馬町うままち下川しもかわ(現同上)と通り、再び海岸沿いに砂丘地を浜中はまなか十里塚じゆうりづか(現酒田市)と北上、宮野浦みやのうら(現同上)で最上川を渡り酒田町に入る。酒田からさらに砂丘地を進み、服部興屋はつとりこうや・十里塚(現飽海郡遊佐町)を経て、吹浦ふくら(現同上)から磯地となり、女鹿めが(現同上)三崎みさき峠を越えて現秋田県域に入った。北国街道・北国浜街道などの別称があり、絵図類では秋田街道・温海街道・酒田街道などとも記された。正保庄内絵図(本間美術館蔵)では一里塚は二三ヵ所に記載されるが、明和庄内絵図では正保庄内絵図にはみえない女鹿村北端にも一里塚が記される。現在は北部・南部が国道七号、中央部が主要地方道酒田―温海線・同酒田―鶴岡線などと一部は重複し、一部は廃道となっている。

庄内南部、羽越国境付近を日本海沿いに走る道は古くから開かれていたと思われ、「義経記」によれば奥州平泉に下る源義経は奥羽三関の一に数えられる念珠関(鼠ヶ関)の関守にあやしまれながら出羽国に入り、三世(三瀬)の薬師堂に参拝してから大梵字だいぼんじ(大宝寺、現鶴岡市)に向かっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜街道」の意味・わかりやすい解説

浜街道
はまかいどう

江戸を出て千住(せんじゅ)で奥州街道から分かれ、水戸、平(たいら)を経て北に向かい、岩沼(宮城県)でふたたび奥州街道に合する街道。江戸では水戸街道ともよばれ、水戸では以南を江戸街道、以北を岩城相馬(いわきそうま)街道とよぶことが多かった。陸前浜街道というのは明治になってからの呼称である。松戸までは五街道に準じて、道中奉行(ぶぎょう)の管轄であった。金町(かなまち)(東京都葛飾(かつしか)区)には関所が置かれ、参勤交代に利用する諸侯は14家を数えた。取手宿(とりでじゅく)(茨城県)の本陣がいまも残っている。現在ほぼ国道6号に相当する。

中島義一

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世界大百科事典(旧版)内の浜街道の言及

【街道】より

…奥州・羽州両街道をつなぐ東西に走る街道も多いが,上ノ山から南下して米沢を経て板谷峠を越えて会津に出る米沢街道もある。また久保田から本荘,酒田を通り,鼠ヶ関を越えて越後に入る浜街道は新潟を経て北国街道に連結した。会津から南下する会津西街道は今市で日光道中に結ぶ。…

【浜通り】より

…福島県東部の地域名。福島県を地勢をもとに東から浜通り,中通り,会津地方の3地域に分けた場合の地域名の一つで,古くから関東から東北地方への通路である浜街道が通っており,その街道の通過する周辺地域としてこの名称が用いられる。浜海道,東(ひがし)海道,海道とも称した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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