森本村(読み)もりもとむら

日本歴史地名大系 「森本村」の解説

森本村
もりもとむら

[現在地名]伊丹市森本一―九丁目・森本・小阪田おさかでん

伊丹町と猪名いな川を挟んだ東岸の氾濫原にあり、村の北端を摂津国豊島てしま走井はしりい(現大阪府豊中市)から伊丹郷町への道が走る真四角の村。川辺かわべ南条二里にあたり(「森厳庵田畠納下帳写」彰考館蔵北河原森本文書)杜本もりもと庄が成立した。暦応五年(一三四二)四月の尼見性譲状写(同文書)に「津のくにたちはなのミそのゝうち、もりもと大ちむら」がみえ、「大ちむら」の下司公文職が斎藤基伝の後家見性から子息彦七(森本基康)に譲渡されている。以後同地は森本氏の所領となり、永正一〇年(一五一三)三月一〇日の摂津国守護細川氏奉行人奉書写(同文書)によると、森本新五郎が「橘御薗内大路村」下司公文職を本領として安堵されている。なお北西対岸の山陽道に沿ったきた鋳物師いもじつじ伊丹坂いたみざかの五村は大路おおじ四ヵ村と称された(「奥谷池論記録」坂戸家文書など)

慶長国絵図には村名は脱落しているが、高四九四石とみえる。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では高五五九石余、天保郷帳は高五八一石余。元和元年大和竜田藩領、寛永一五年(一六三八)幕府領、寛文二年(一六六二)旗本服部領となり、明治維新を迎える(伊丹市史)

森本村
もりもとむら

[現在地名]嬉野町森本

中村なかむら川の中流右岸沿いの山間に位置し、西対岸にたきがわ村がある。小字名に小路垣内こじがいと久保くぼ垣内・はな垣内・おお垣内がみえ、中世の開発がうかがわれる。日川ひかわに平家六代墳墓や斎藤五、斎藤六の兄弟の墓と伝える石塔・五輪塔がある(勢陽雑記、五鈴遺響)向山の神宮むかいやまのじんぐう寺境内に北畠一族の森本飛騨守俊重の居城という森本城跡があり、白口しらくち峠を越えて多気たげ御所(現美杉村上多気)とを結ぶ糧米運送の中継点として重要であった(伊勢国司記略)

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に森本之郷とみえ、石高六〇六・四六石とある。元和五年(一六一九)和歌山藩松坂領となり、下ノ庄組に属した。

森本村
もりもとむら

[現在地名]豊田町森本

立野たての村の西、天流川下流左岸に沿い、赤池あかいけ川・高木たかぎ用水が南流する。古くは押切おしきり村と称した(元禄郷帳)。慶長九年(一六〇四)検地があり、高一九一石余(遠淡海地志)正保郷帳に押切村とみえ、幕府領、田方九六石余・畑方九四石余、福王ふくおう寺領三石・正八幡領二石。寛文(一六六一―七三)から延宝(一六七三―八一)にかけて森本村と改称したと考えられる(「遠淡海地志」・遠淡海記・「井通村々誌」)元禄郷帳には森本村とあり、高三三三石余。国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳ともに旗本花房領。

森本村
もりもとむら

[現在地名]大宮町字森本

三重みえ村の東北、木積きづみ丘陵の南東麓に位置し、竹野川の河岸段丘にわずかな田が開ける。

慶長検地郷村帳に高九三五・九四石「森本村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で一千九〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、天和元年(一六八一)宮津藩領と変遷。

小字松山まつやまから縄文晩期の完形注口土器が出土し、内陸での出土が少ないだけに注目される。弥生後期から古墳時代の遺物は小字松山その他から発見され、古墳は五基が確認されている。

当城とうじよう山に森本城跡(伝成吉越中守居城)がある。

森本村
もりもとむら

[現在地名]竹野町森本

坊岡ぼおか村の南、竹野川中流域に位置する。天保七年(一八三六)までの領主の変遷は宇日うひ村に同じ。以後幕府領で幕末に至る。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二六一石余。同絵図に本見塚もとみづか(現香住町)から当地を通り、東方城崎郡江野ごうの(現豊岡市)に至る道が描かれている。江野村へは江野峠越で、峠に至る箇所に「此坂難所」と記される。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。元文四年(一七三九)の家数人数其外書上帳(細田家文書)によると家数六〇・人数三五三、社二、牛二二。

森本村
もりもとむら

[現在地名]中町森本

間子まこう村の南に位置し、杉原すぎはら川が村の西を南流し、湾曲して村の南を東流する。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方三一〇石余・畑方一一石余、山役・鉄砲役・川役があり、幕府領。旧高旧領取調帳でも同領。天保郷帳では高四一三石余。元禄二年(一六八九)西安田にしやすだ村からの入作高三二石余・田三町一反余(「手形証文」西安田区有文書)

森本村
もりもとむら

[現在地名]高月町森本

高月村の東、高時たかとき川西岸に位置する。森下村とも書かれた(天明村高帳ほか)。天文八年(一五三九)森本惣中へ高月郷が六貫五〇〇文で井料を売却している(市町村沿革史)。惣を基盤に成長した当地の土豪岩坪氏は、豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛尉孝高の子を秀吉の人質として竹中半兵衛を通して預かっている(岩坪文書)。室町時代より幸若舞系と思われる舞人村であった。

森本村
もりもとむら

[現在地名]押水町森本

宝達ほうだつ山西麓にあり北西は免田めんでん村。北部に円筒埴輪をめぐらした五世紀中葉の大型円墳森本大塚もりもとおおつか古墳がある(押水町史)。正保郷帳の高五三一石余、田方三一町四反余・畑方四町余、免三ツ三歩八厘で、ほかに新田四二石余(免三ツ九歩)があった。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると高五八五石・免四ツ八歩、小物成は山役一二三匁・苦竹役三匁、鳥役八匁(出来)、油役三匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細では村高に大きな変化はなく、家数四三・人数二一〇、馬九で稼は蚕・苧であった。

森本村
もりもとむら

[現在地名]天理市森本町

和爾わに村西北方に所在。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「杜本庄」がみられる。西大寺田園目録には「添上郡三条七里六坪一段ワニノモリモト」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「杜本南浦」と記す。

慶長郷帳にみる村高五七六・四七六石。うち三・五七石は幕末まで本光明ほんこうみよう寺領。残る五七二・九〇六石は江戸時代の初め幕府領(代官大久保長安)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は七一五・一二石となる。この村高は延宝七年(一六七九)幕府領に編入された。

森本村
もりもとむら

[現在地名]大野市森本

大野城下の東方坂谷さかたに道に沿う農村で、松丸まつまる村の東にある。慶長三年(一五九八)七月二一日の越前国大野郡内森本御検地帳(森本区有文書)によれば田方一八町二反・畠方三町三反余、分米合三四四石三斗八升、ほかに一八石九斗荒とある。正保郷帳によれば田方二九四石余・畠方四九石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領。

森本村
もりもとむら

[現在地名]頸城村森本

保倉ほくら川北岸に位置し、東にはなさき村、西に鵜木うのき新田がある。村内を松之山まつのやま(現東頸城郡松之山町)への道、おおぶけ用水が東西に走る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「狩野弥三郎分此外六方分森本村 中」とみえ、本納一二六石五斗七升・縄高二〇九石六斗七升二合、家八軒・三七人とある。正保国絵図に村名がみえる。

森本村
もりもとむら

[現在地名]一宮市丹陽たんよう森本もりもと

吾鬘あずら村の北西にある。「寛文覚書」によれば、家数七五、人数三七七。「徇行記」によれば、概高一千四石余は、一円蔵入地。田二四町六反余・畑三八町八反余。「村落ハ宮田渠東方ニ農屋建ナラヒ一村立ノ所也、大郷ナレトモ支邑モナシ、高ニ準シテ戸口多ケレトモ鍬数八十丁ホトアリテ佃力不足、隣村吾鬘村・猿海道村・馬見塚村ヘ高二百四五十石ホトモ越高アリ、又田畝ノ掟モアリ、農業ヲ専ラ生産トシ商賈ハナシ、其内繰綿ヲ少シツヽ製シテ他方ヘ売出ス者アリ」とあり、木綿栽培による綿の生産が行われたことが記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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