中町(読み)なかまち

日本歴史地名大系 「中町」の解説

中町
なかまち

[現在地名]須賀川市中町一―三丁目・加治町かじまち弘法坦こうぼうだん諏訪町すわまち宮先町みやざきちよう東町ひがしまち旭町あさひまち花岡はなおか新田しんでん東作ひがしさく和田道わだみち牡丹園ぼたんえん寺田てらだ桜岡さくらがおか朝日田あさひだ南上町みなみうわまち北上町きたうわまち妙見みようけん

須賀川宿四ヵ町の一で、もと町の北に位置する。天正一八年(一五九〇)からの城下再編時、城内二の丸跡に中宿なかじゆく村の町家を移住させて成立したという(野川本「藤葉栄衰記」)。初め宿の中核で問屋場は当町のみにあったが、慶長三年(一五九八)以降本町・北町にも置かれた(「定条々」福島県史)。毎月一三日・一八日に市が開かれた(同書)。白河古領村郷高帳に須賀川中町とみえ、高九四九石余。寛保二年(一七四二)の須賀川組明細帳(同書)でも同高で万引高五五石余など、残高八九一石余、反別は田二九町六反余・畑八三町五反余、家数二〇二、男四七二・女四〇八、馬二五。

中町
なかまち

[現在地名]延岡市中町・中央通ちゆうおうどおり

みなみ町の北、延岡城東の大手おおて(京口)門の堀を渡ったやや北手を起点に、東に延びる東西道に沿う両側町と、きた町・南町とを結ぶ南北道沿いのよこ町からなる。延岡城下七町の一。高橋元種が慶長八年(一六〇三)延岡城(県城)を築いた際に形成された(延陵世鑑)。町の長さ東西一二九間・道幅二間、横町は南北四八間・道幅一間(正徳三年「御城并町在所々覚書」内藤家文書)。有馬家中延岡城下屋敷付絵図(明治大学刑事博物館蔵)では、西は京口きようぐち門の堀に沿った南北のいま町に接し、東は板田いただ(百間橋)から南下する道に接し、北東角に照源しようげん(のち北町に移転)がある。有馬氏時代から当町満石家と渡部家が城下七町を統轄する町年寄を世襲した。町役人としてほかに別当一名・乙名二名・月番小触一名がいた(延享四年「当町中指出帳」内藤家文書)。延享四年(一七四七)の城下町酒屋帳(同文書)によれば、造酒石高一〇一石余の渡辺(渡部)源太郎、同七四石余の井筒屋治兵衛、同四五石余の鎰屋源四郎、同六九石余の満石新七(二株を持ち、他の高三石余は薩摩屋又七に貸置)の四軒があった。

中町
なかまち

[現在地名]三春町中町・御免町ごめんまちあま馬場ばば

三春城下六町の一つ中町を中心とする行政地区。平姓三春田村氏が守山もりやま(現郡山市)から移住した際に旧地より移したという。宝永四年(一七〇七)の三春城下絵図(浪岡家蔵)を諸書によって補って記せば、中町は中町入口(通称三つ角)からよこ町入口まで一町一四間、横町入口から八幡はちまん町境まで二二間の町屋敷で、道幅五間半の両側町。毎月二二日に市が立ち、町検断・川又氏・舟田氏などが住んでいた。中町のさくら川沿いの裏町には藩お抱えの職人屋敷があり、福聚ふくじゆう寺山門から現在の御免橋までの御免町通となかつじ小橋から現在の不動ふどう橋までは家中屋敷。御免橋から馬場新木戸しんきどまでの桜川と馬場川に囲まれたところ(尼ヶ谷)に馬屋があり、その南奥に内馬場うちばばや馬医屋敷があった。

中町
なかまち

[現在地名]酒田市二番町にばんちよう・中町一―三丁目

東は東禅寺とうぜんじ名子屋なごや小路、西は上荒かみあら町に接して東西に連なる両側町。町名はほん町と内匠たくみ町の中間に並行して位置することに由来する。向酒田むこうさかたの人家が最上川北岸に移転したとき、最初本町通の町割ができ、寺院は内匠町通の北側を占めて人家は両通りの中間に点在していたが、慶長―元和年間(一五九六―一六二四)中間一帯の人家をまとめて町割し、中町通とした(「泉流寺縁起」飽海郡誌)。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)では中町は一―七丁目まであり、道幅六間。

中町
なかまち

[現在地名]上野市中町

本町ほんまち筋の中央にあり、東はひがし町、西は西にし町に続く。東西に延びる町の中央から愛宕あたご神社へ真っすぐ延びる道を中之立なかのたて町とよび、中之立町の起点が札之辻ふだのつじとよばれ、藩政初期には高札場があった。商人の町で豪商も多く、「茅栗草子」に「中町になん、多田屋名左衛門といへる富大いにしてゆたけき酒屋有り」とか、桶屋久左衛門らの富商の物語が記される。藩政初期の上野町では、当町の桶屋久左衛門・横山善左衛門・浅宇田久右衛門の三軒と、西大手にしおおて(現西町)の与助・善吉の五軒以外は旅人を宿泊させることが許されていなかった。

中町
なかまち

[現在地名]津市大門だいもん新立しんたて

西にし町の東側にほぼ並行する町人町で、慶長一三年(一六〇八)以後の城下町形成で成立した。享保七年(一七二二)調べの町名取調書(津市史)に「新立町しんたてまち宝禄町ほうろくまち西来寺町せいらいじまちを通常中町と申候」とあり、三町をもって中町と通称した。寛永元年(一六二四)の町年寄推挙文書(同書)に「新立町・ほうろく町」とあり、同一二年の津町祭礼関係文書(草蔭冊子)に「新立町・ほうろく町・西来寺町」とあるから、江戸初期から三町は独立した正式町名で、総称としての中町の称も通用した。

中町
あしなかまち

[現在地名]金沢市弥生やよい一丁目・いずみ一―二丁目

野町のまち通を南に折れた両側町で地子町。泉町より南に入り、南東二筋に分れ、東は桃畠ももばたけ町に続き、南は泉野いずみの村に連なる。足半町・足中町とも書いた。町名は、泉新いずみしん町の後町で、「並び短く、尻切れたる町」ということから足半町と称したことによる(「金沢事蹟必録」金沢古蹟志)。足半とは草履の踵の部分がないもので、加賀藩では近侍の士が徒歩の際履く習わしであった。

中町
なかまち

[現在地名]中区ふくろ

西魚屋にしうおや町の東に続く横町で、南は国泰寺こくたいじ村、北は播磨屋はりまや町、東は鉄砲屋てつぽうや町に続く。中通組に属した。広島城下の中央に位置するため中町なかんちようと称したが、戒善かいぜん寺が西魚屋町より移転したのちは、戒善寺中かいぜんじなかの町ともよんだ。明治五年(一八七二)再び中町に復した。

明暦の切絵図に家数二〇、間数一三三間四尺八寸五分、天和の切絵図に家数一九とあり、うち医師五軒。「知新集」に町間数二丁三二間五歩九厘五毛、竈数八二(本竈一六・借竈六六)、人数三二四(男一七五・女一四九)、うち桶屋・指物師各三人、本道医・研職・大工・畳刺・塗物細工・傘細工・綿打各二人、陰陽師・鑓細工・鉄砲台師・柄巻師・紺屋・仕立物師・筆結各一人をあげる。

中町
なかちよう

面積:四八・四三平方キロ(境界未定)

現多可郡の中央部、加古川の支流杉原すぎはら川中流域に位置する。東は黒田庄くろだしよう町、南は西脇市、西は八千代やちよ町、北西は加美かみ町、北東は氷上ひかみ山南さんなん町に接する。町北部に妙見みようけん(六九二・六メートル)がある。町内を南流する思出おもいで川は南東流する杉原川に合流する。古代以来多可郡に所属。明治一二年(一八七九)多可郡役所が当地に設置され、同二二年の町村制施行によって同郡中村が成立。大正一三年(一九二四)町制を施行して中町となる。昭和四九年(一九七四)大字曾我井そがいの一部を西脇市に編入。

中町
なかまち

[現在地名]本荘市中町

おお町の西、北はうしろ町、南は町。本荘城下町の町人町、外町の中心である。慶長一五年(一六一〇)楯岡豊前守満茂の本荘への移城に際し、細矢与惣左衛門はよく町民を誘導した功労により初代庄屋となり、代々世襲した。庄屋役は安永六年(一七七七)名主役と改められ、外町をとりまとめた。その管轄町名は田町・さかな町・なか町・おお町・後町・猟師りようし町・日役ひくじ町・鍛冶かじ町・桶屋おけや町・中横なかよこ町・上横かみよこ町・油小路あぶらこうじで、これらの町々を以前は総称して赤尾津あこうづ町とよび、六郷氏の時代になってからは出戸でと町と通称した。出戸町の総戸数は七〇〇軒であった。

寛政二年(一七九〇)高山彦九郎は「北行日記」に「本庄町名主細谷与惣左衛門所に着て」と記し、享和二年(一八〇二)日本海沿岸を南下しながら測量した伊能忠敬もその日記に「本庄城下町中町え八ツ後ニ着、止宿、名主細谷弥治右衛門、新宅素建なり、然共諸事丁寧なり」と名主細矢家に寄宿し、丁重な扱いを受けている。

中町
なかまち

[現在地名]四日市市中町

たて町の東にあり、東ははま町に続く。南に中新なかじん町がある。明和五年(一七六八)の四日市町絵図(四日市市立図書館井島文庫蔵)では東西に二二四間の町並である。古くは中瀬古なかせこといったが寛文七年(一六六七)以降中町と称したと伝える。寛永一三年(一六三六)の五町米盛には「拾壱町四反弐拾壱歩 中瀬古」とあり、伝馬一・船二七の負担があった(旧版「四日市市史」)

中町
なかまち

[現在地名]福島市中町

あら町の北、奥州道中に沿って南北に延びる両側町。当町から東に入る小路をしろ道、西の村方に延びる道は太田おおた口と称し、ともに木戸が設けられた(「福島沿革誌」県立図書館蔵など)。文禄(一五九二―九六)の町割で、大森おおもり城下から町名を移したとされる。延宝元年(一六七三)の福島町検地不納高反別帳写(福島市史)によれば、反別二町五反六畝余、高二五石六斗余。

中町
なかまち

[現在地名]掛川市中町・城下しろした

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道往還の両側町。西は西にし町、東は連尺れんじやく町、南は紺屋こうや町、北はさか川を境として掛川城の松尾まつお郭・なかの丸に接する。懸川かけがわ城の築城に際し、東海道が逆川の南に移され、古駅の中宿なかじゆくが中町となったという(掛川誌稿)。正保城絵図では町屋としてみえ、宝永(一七〇四―一一)頃の懸河城郭図に中町と記される。分間延絵図には往還南側に本陣一軒とその両側に二軒の問屋場が描かれている。延享二年(一七四五)の役家高人馬覚(問屋要用)では町並の間口二六二間余、歩数六千五九歩、人馬役家三四軒、立馬一二、立人足二八。

中町
なかまち

[現在地名]松阪市中町

伊勢参宮街道が松坂大橋を越えて松坂町に入ると、ほん町を経て中町に至る。「権輿雑集」に「天正十六子年従松ケ嶋移、丁役全歩、町之正中也」とあり、本役町で町の中央にある。近世松坂町の前身まつしま城下に中町なる町名があったか否か、知る手立てはない。近世松ヶ島村などの検地帳にも記載されていない。当町は、本陣を中心とする宿場として発展し、多くの旅籠があった。

中町
なかまち

[現在地名]金沢市大手町おおてまち尾張町おわりちよう一丁目

城の大手、尾坂口おさかぐち御門から北に延びる道に沿う。南は大手前の武家地、北は尾張町の通り(北陸街道)に限られる。西は上今かみいま町、東は下今町に続き、両側町で本町。町名は大手先に位置し、城中より出る本通りに面していたことにちなむ。当初は南方、のち大手前の武家地に町立てされたという。天正一一年(一五八三)の前田利家入部頃には、のちに家柄町人と称されるようになる平野屋半助(「町人由緒帳」加越能文庫)や片岡孫兵衛(金沢古蹟志)などが当町旧地において屋敷を拝領、また同一二年には当町および今町・修理谷しゆりたに(尻垂坂)近辺で御帳面大工一〇〇人余に屋敷が与えられており(加藩国初遺文)、城下形成の様子がうかがえる。


なかつじちよう

[現在地名]奈良市中辻町

井上いのうえ町の南に所在。「奈良曝」に「紀寺組。町役卅九軒半。井上町の南町。いにしへ中辻殿と云し公家屋しきの跡也」とあるが、「奈良坊目拙解」では、奈良町南部を南北に通る三本の道を東から上津かみつ路・中津路・下津路といい、東西に通る五条ごじよう大路と中津路の交差する所すなわち中津路を中辻と称したとする。また北方にあった元興がんごう寺南大門などへ至る中央の辻とも考証している。「大乗院雑事記」寛正六年(一四六五)八月一〇日条に「京ハテ郷・中辻子郷・カヰノツカ郷此三个所ハ七郷也」とある中辻子なかずし郷は当地と考えられ、同書文明一二年(一四八〇)六月一九日条の「七郷」(興福寺寺門郷)のうちの新薬師しんやくし郷に中辻子がみえ、興福寺寺務の支配下にあった。

中町
なかまち

[現在地名]氷見市比美町ひみまち丸の内まるのうち

北六町のうちの一町で、東ははま町、南はみなと町、北は北新きたしん町に囲まれ、北町の中心部にあり本町に属する。元文二年(一七三七)の戸数は九八、地子米七五石(憲令要略)。商家が多かった。日蓮宗では越中で最初に建立された蓮乗れんじよう寺、宝徳元年(一四四九)日祐の建立になると伝える同宗宝徳ほうとく寺が浜往来の東側に並んで建っていたが、蓮乗寺は天保二年(一八三一)に焼失したのち朝日あさひ村に移転した(応響雑記)。北町の総社ともいうべき日宮ひのみや神社がある。六月一三日・一四日の祇園祭は、南十町・北六町も加わり氷見町の総祭であった。しかし享保年間(一七一六―三六)神社参詣の席順争いや、神輿渡御の順番争いにより、北町の氏神は日宮神社であるとして、北町六町は南町と激しく対立した。

中町
なかまち

[現在地名]猪苗代町 中町・つつみ土町南はにまちみなみ新地しんち馬場ばばなど

あら町のうち堤町の西に続く二本松街道の両側町で、同街道は当町の西端で北に折れ、はに町に続いた。南は足軽組町の半坂同心はんざかどうしん町。川東組に属した。延宝年中(一六七三―八一)土津はにつ神社の造営により土町が形成された際、当地が同町と新町との中ほどにあたるようになったため生じた町名と伝える(新編会津風土記)。元来は北に接する見禰みね村の地内で、猪苗代城下の一町でありながら同村の小名として扱われていたが(同書など)、のち中町として見禰村とは別筆で高付されるようになった。

中町
なかまち

[現在地名]三木市福井ふくい一丁目

かみ町の西、美嚢みの川左岸に位置する。三木町の町方町の一町で、しも五ヵ町に属する。慶長国絵図にみえる三木町の一部。文化元年(一八〇四)の三木町家別人数並諸商売書上写(三木市有文書)によれば家数七三・人数三六四。弘化二年(一八四五)の家数取調帳(同文書)では家数七二。文政六年(一八二三)当町の角屋伊兵衛家借宅に切手会所が開かれている(同一三年「三木切手会所諸事控」黒田家文書)。寛政一〇年(一七九八)当町の前挽屋五郎右衛門ら前挽鍛冶三人は前挽値段を定めており、五郎右衛門印は三木前挽仲買衆中へは正味銀三六〇匁、大坂問屋衆中へは金五分仕かけ三七〇匁、江戸表問屋衆中へは正味銀三八〇匁であった(文化二年「前挽職方控」同文書)

中町
なかまち

[現在地名]能代市日吉ひよし

能代町の東部、東に羽立はだち町、西にあら町がある。

享保七年(一七二二)能代町絵図(能代市役所蔵)に「中町」とあり、寛保元年(一七四一)の「代邑聞見録」は「建年不知」であるが、おそらく弘治年中(一五五五―五八)としている。享保一三年の能代町絵図(能代市役所蔵)では、中町は両側に町屋が並んでいる。同一五年の「六郡郡邑記」には家数二七軒とある。文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)によると、中町は東端から西端まで五一間弱で、途中に小路はない。東端から南へ下り馬口労町へ通ずる通路は、枡六ますろく小路といわれる。

中町
なかまち

[現在地名]徳島市八百屋町やおやまち二丁目

八百屋町の西に続く東西の通りに沿う町人地。西は紀伊国きのくに町に至る。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)では紀伊国町筋、東西三町、家数八七軒のなかに含まれ、元禄四年(一六九一)御山下絵図では中町二丁目とみえる。当町は立売市場設置を許されていた。天和三年(一六八三)には焼失した証文に替わり、改めて証文を下され、他町での立売は禁止された(元居書抜)

中町
なかまち

[現在地名]明石市本町ほんまち二丁目

西本にしほん町の西に続く山陽道沿いの両側町で、西は東樽屋ひがしたるや町、南は当津とうづ湊、北は西魚にしうお町に接しており、城下町の中心街を形成していた町の一つ。元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町の一町で、東本町・西本町と並び城下町の頭町とされていた(明石名勝古事談)。当初は信濃しなの町とよばれていたが、明石藩主大久保季任のとき中町と改称された(町割年号記)。新町名は西本町と東樽屋町との間にあった町であったことによるという(明石三十年史)。享保六年(一七二一)改によれば役門二一間、家数三六(本家二〇・借家一六)、建家表地口一四七間、人数一六八。

中町
なかまち

[現在地名]豊岡市元町もとまち

滋茂しも町の南に位置し、南は宵田よいだ町、西はてら町に接し、東は円山まるやま川。天正一〇年(一五八二)発足の豊岡町(城下)の五町の一。同年地子免除(免除高二二石三斗余・反畝合一町一反六畝余)となる(「豊岡五町御免地旧記之写」鳥井家文書)。文禄五年(一五九六)九月二六日の鎌田久々井分名寄帳(足立家文書)の入作人の肩書に「とよおか中丁」とみえる。豊岡五町御免地旧記之写によると承応三年(一六五四)の家数六二。弘化三年(一八四六)には家数六〇・人数三二九(「公私之日記」鳥井家文書)

中町
なかまち

[現在地名]西尾市中町

大手おおて門前面より北東に、追羽おつぱ門に至るのが中町。侍屋敷と町家との中間に位置する。以前市場いちばといわれ、中世にはすでに穀市・肴市が設けられていた。「西尾町史」上巻は、「中町は往昔、市場と称へ、市場夙に開けたものの如く、而も侍屋敷と町家との中間に位し、商業の中心地たりしを以て中町と名つけしものならん」と町名の由来を記す。町の西には、馬場ばば町を中心に南北に侍屋敷があり、北には追羽門付近から大給おぎゆう町にかけて侍屋敷があったことから、侍たちの消費生活を支える町人の町であったといえる。

天正一八年(一五九〇)城主田中吉政が三の丸を増築すると、昔からそこに住む民家数十軒を、中町をはじめほん町・よこ町・さかな町などへ移住させたというから、この頃から町の体裁を整えたと思われる。

中町
なかまち

[現在地名]加賀市大聖寺中町だいしようじなかまち

馬場ばばの東、北陸街道に沿った町人町で、北はほん町・八間道はちけんみち上新かみあら町とも(享保一三年「洪水之節助船定」後藤文書)中筋なかすじ通ともいった(三州奇談)。寛永年間(一六二四―四四)大聖寺町家図(伊東家蔵)では五〇戸余の家割がなされており、半数には屋号が記載されている。元禄年間(一六八八―一七〇四)の町家図(同家蔵)に町名がみえ道幅は四間で、桶屋・鍋屋・味噌屋などの小売商人が多い。

中町
なかまち

[現在地名]小矢部市中央町ちゆうおうまち

しろ山を背にする加賀藩役所・高札場を基点に、東に延びる北陸街道に沿う両側町。今石動町の中心で、本町一五町の一。寛保二年(一七四二)には宅地一千七〇九歩六厘で、地子米一六石四升八合を上納、一歩につき一升五勺と今石動町で最も高い税率であった。下越前しもえちぜん町・細工さいく町内に計九五歩の地があり、逆に当町内に上糸岡かみいとおか町・細工町・紺屋こんや町分の地計三六八歩があった。組合頭は牧屋伊兵衛・倉原屋弥次兵衛(今石動由来)。町内紅屋平兵衛家に町会所が置かれた(「町会所見合印鑑」千葉家文書)。天明六年(一七八六)の家数一八(紺屋島家文書)。享保―延享年間(一七一六―四八)に本陣を勤めた高儀屋半右衛門、寛文(一六六一―七三)から延享期に蔵宿であった平野屋助右衛門、御荷物宿の倉原屋弥次兵衛など今石動町を代表する大店が多い(小矢部市史)

中町
なかまち

[現在地名]大垣市中町

大垣城の東部、ほん町の東に並行する町家地域。寛永城下絵図には、町家の中央を南北に走る中町通が記される。享和元年(一八〇一)の街路の長さ二町三五間余(大垣市史)。天正期(一五七三―九二)に成立したと推定され、古来町の一つで、伊勢国富田とみだ(現三重県四日市市)の者が取立てたという。町の南部に瀬戸物店があったため「せともの町」とも称し、南端の牛屋うしや川まで船が入り、伊勢桑名方面から商品を運んだという(新修大垣市史)。明暦三年(一六五七)の無役家数は年寄三・町代二・帳付二・桶屋一・檜物屋一・綿かけ二・医者一(「大垣町無役家数覚」林文書)

中町
なかまち

[現在地名]松前郡松前町字福山ふくやま

近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川下流左岸に位置し、南は大松前おおまつまい町、北はよこ町、東はふくろ町で町域は狭い。享保二年(一七一七)の「松前蝦夷記」に町名がみえるが、これより早く寛永二一年(一六四四)三月の大火で当町も焼失したと記録されている(和田本「福山秘府」など)。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると東西の通り六〇間。寛政一〇年(一七九八)には幸左衛門が名主(家中及扶持人列席調)

中町
なかまち

[現在地名]伊勢崎市中町

しば町の東、沖積低地にある。東は堀口ほりぐち村。柴町の分村。日光例幣使街道が通り、柴宿加宿。町名の由来は柴町と堀口村の間に位置することによる(伊勢崎風土記)。由緒を書上げた享保二一年(一七三六)の覚(小暮文書)に慶長三年(一五九八)「町割被仰付、御百姓今村より引越」とある。また柴町からの分村を正保三年(一六四六)としている。寛文郷帳では柴町のうち。元禄郷帳では高六一〇石余、伊勢崎藩領。天保郷帳では柴村のうちとなっているが独立した村であった。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別四八町五反余、うち田方二一町四反余・畑方二七町余。

中町
なかまち

[現在地名]滑川市中町

北陸街道に面した両側町で、東は神明しんめい町、西はあら町。かつては新町(のちの荒町)と神明町の間にあった「竹藪不毛の地」であったが、延宝年間(一六七三―八一)おお町の綿屋九郎右衛門から分家した綿屋七兵衛が酒造業を始め、人家がしだいに増加して町ができたと伝える(滑川町誌)。町域の北部は鍛冶屋橋かじやばしとよばれ、慶長年間(一五九六―一六一五)に加賀藩主より認められた地子免除地であったともいわれる(以上「滑川町誌」)。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)に中町とみえ、天保一二年(一八四一)の滑川町見取絵図(滑川市立博物館蔵)では家数六七。

中町
なかまち

[現在地名]新湊市放生津町ほうじようづまち

奈呉なご町の東に位置し、東は山王さんのう町。浜往来が通る。北は富山湾に面し砂浜が続く。おお(浜往来、中町通)の奈呉町境には放生津町の高札場が建っていた(嘉永六年「放生津領分間絵図」新湊市教育委員会蔵)。高札は高さ一丈五尺、長さ三間五寸・幅六尺であった(「新町万覚帳」近岡家文書)。高札場南のうち川には放生津新町へ至る中橋が架けられていた。安政年間(一八五四―六〇)の中町組の高七七石余、四千二五八歩余(「総絵図並歩数等書写」柴屋文書)。文政一二年(一八二九)の家数は表町八五軒・裏町一六五間(「放生津町家数書上覚」久々江屋文書)

中町
なかまち

[現在地名]余市郡余市町沢町さわまち富沢町とみさわちよう梅川町うめかわちよう

明治一四年(一八八一)から同三三年まで存続した町。沢町の北にある。富沢町で貸座敷業を営んでいた中道代吉が明治一二年から私財を投じて湿地帯を開墾、同一四年に完了して一三万三千坪を地割、同年七月に中町・琴平ことひら町・梅川町が設置された(「事業略記」・郡区沿革表など)。町名は中道にちなむが、仲町とも記した。同一六年沢町外五ヶ町二ヶ村戸長役場が中町番外地に設置された。また円山まるやま公園に転丸入聖碑が建立、円山に西国三十三観音を置いた由来を記す。

中町
なかまち

[現在地名]松任市中町

安田やすた町の東に続く北陸街道(本町通)の両側町で本町。町の長さ二町五四間(皇国地誌)。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名がみえ、町家の屋並が描かれており、高札場がある。西端南側に後町うしろまち通に至る小路があり、中ほどから北へ新町しんまち通に至りさらに北方の金剣かなつるぎ宮に向かう道がある。文久三年(一八六三)の宿絵図(青木家蔵)によると軒数七〇、ほかに町役所がある。

中町
なかまち

[現在地名]唐津市中町

うち町のほぼ中央に位置、唐津城築城時の町割でできた。

文化年中記録に「一、古来本軒四十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百四十三人、引合五人組五十三人、内町年寄二人、組頭二人、御八百屋一人、御用船問屋二人、砂官棟梁一人、酒屋三軒、糀屋、呉服屋一軒、質屋、寺高徳寺、山伏東琳坊」とある。元文年中(一七三六―四一)の酒屋定法帳によれば四軒の造り酒屋があった。幕末頃は横浜屋一軒になったが、当時の横浜屋は中町の地所の三分の一を占めていた。また水野氏時代御用八百屋を勤めた八百吉が記録されているように、生鮮食品の店が並び賑っていた。

中町
なかまち

[現在地名]松本市中央ちゆうおう三丁目

松本城下町の親町三町の一。ほん町の大手橋手前角から東に折れる。女鳥羽めとば川の南に、川と平行してつくられた東西の町筋で、塩問屋・肴問屋などがある。「信府統記」に「中町 東西ノ町ナリ、長サ四町十九間二尺、或ハ四町拾五間半共、内十九間三尺本町分裏行ナリ、町幅三間、家数九拾八軒、新小路 北側ニアリ、長サ中町北側ノ裏行ナリ、町幅二間是ハ中町孫四郎願ニテ、屋敷ノ内ヲ小路トシテ肴店トスルナリ、一ツ橋小路 北側ニアリ、長サ三拾二間幅二間、此小路古ヨリ肴店ナリ、北側裏通大手橋前ヨリ東町大橋マデ川際ニ道アリ、幅三尺、東ノ橋際木戸アリ、暮六ツ切ナリ、神明社 北側ニアリ、川際ヨリモ入口アリ、南側東ノ角ニ小路アリ、作場道ナリ、長善寺 真言宗ナリ、広福寺 日蓮宗ナリ、本立寺 横町東側ニアリ日蓮宗ナリ、寺家二軒アリ、大橋長サ拾間幅 此橋中東町中町ノ境ナリ」とある。

中町
なかまち

[現在地名]富山市中央通ちゆうおうどおり一丁目・総曲輪そうがわ三丁目

北陸街道(巡見使道)に沿う両側町で、本町のうち。西にし町東端から北に延び、あら町南端付近で東に折れる。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図に町名がみえ、前田利次による町割当初からの町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によると二丁目まであり、南北の通りで千種ちぐさと称された所が一丁目、総曲輪へ入る所の東西の通りが二丁目であった。

安永八年(一七七九)の本家数二二・貸家数二九で、三丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)

中町
なかまち

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、当時きた町と称し、南はほん町、北は採養院さいよういん川を隔てて神明しんめい町、西端には洞泉とうせん寺があり、南端には御札場がある。洞泉寺境内には、廓洞かくどう院と昌樹しようじゆ院がある。「七州城沿革小史」によれば町の南側には鳥山御屋敷に通ずる路があり、当時の家数は五八、うち萱屋七軒・板屋四八軒・瓦屋一軒・明地のみ二軒で、座敷のある家は九軒。寛延二年(一七四九)内藤氏入部時には、同書によると家数八五、高四一四石余で、苗字帯刀を許された用達人に川上栄茂助と春日井弥八郎がいる。

中町
なかまち

[現在地名]小松市中町

東は材木ざいもく町、西はきよう町に挟まれた南北通りで、長さ二町五間三尺・幅二間(皇国地誌)。町名は小松町の中央に位置することによる(小松市史)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一六二石、免六ツ九分(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)の小松町家数并人高調理帳(小松旧記)によれば、本町の一つで、家数一五二。この家数には材木町の分も含まれており、のち材木町は独立する。

中町
なかまち

[現在地名]鹿児島市中町など

金生かなふ町の西に位置し、北は六日むいか町、南は呉服ごふく(「鹿児島県地誌」など)しも町一二町の一。町屋敷の西端で、当町北部北側に御舂屋おつきやがあった。御舂屋下は正徳三年(一七一三)の火災後、広場となり、当町との境界には松並木が設けられた(落穂集)。天保城下絵図でも確認できる。鹿児島城を経由した水道は当町に至り、薬屋の前に高枡が設けられていたという(薩摩風土記)

中町
なかまち

[現在地名]柳川市中町

ほん町から北へ続く通りに沿った両側町。町人地。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数四二。道幅三間余・長さ七六間余(柳川惣町図)。当町に居を構えた紅粉屋は代々上納金改役を勤めており、また豊富な資金力を背景に新田開発を行い、現在も大川市紅粉屋べにやにその名を残している。元禄一四年(一七〇一)四月二〇日の大火により、表家二九軒・裏家五一軒、蔵三が焼失した(「出火記録」伝習館文庫)

中町
なかまち

[現在地名]角館町中町

外町の中央に位置し、南は下中しもなか町、北はよこ町通りに突き当る。東は上新かみしん町通り、西は七日なのか町通り。

延宝二年(一六七四)中町・下中町で馬市が開かれた。宝永二年(一七〇五)には家数三四戸、庄屋屋敷と伝馬役所があり、役所の前に高札場があった(角館誌)。享保八年(一七二三)には家数四〇軒で、駅馬役を負担した(「仙北郡郡村本村支村御高調帳」秋田県庁蔵)

中町
なかまち

[現在地名]長野市松代町中町

伊勢いせ町と荒神こうじん町の中間にあることによる町名。枝町には大手先穀おおてさきこく町があった。これは中町からさかな町に通ずるところで、穀屋が多かったことによる。また中町から下田しもた町へ入るところを藤屋小路ふじやこうじといった。藤屋なる店があったことによる。この町も町人町で、伊勢町に次ぐ賑いがあった。

中町
なかまち

[現在地名]大洲市大洲 中町一―三丁目

大洲城下町の中央部にあり、北のほん町、南のうら町と平行する東西の通り。長さ三町余。寛永二〇年(一六四三)の大津惣町中之絵図(大洲町役場旧蔵)によれば、北側に三九軒、南側に四七軒の町家があった。慶安四年(一六五一)の大洲町十人組帳(菅菊太郎氏蔵)によれば、十人組が一二組、町人一〇八人が住んでいた。幕末期(一八六〇年頃と推定)の大洲町内図(滝正市氏蔵)によると、中町は西から東へ一丁目・二丁目・三丁目と分れていた。

中町
なかまち

[現在地名]長崎市大黒町だいこくまち・中町・上町うわまち

恵美須えびす町の北、岩原いわはら川右岸にあり、町並はほぼ東西に長く形成される。上町と恵美須町(下町)の間に位置することから中町と称される。慶長二年(一五九七)頃「本中町衆」が伊勢参宮に赴いているが、慶安三年(一六五〇)以降も伊勢参りがみられる(「御参宮人抜書」橋村家文書)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「中町」「なか町」とみえ、「丸こす」「かうづる」「るしや」「まるせいろ」が署名している。

中町
なかまち

[現在地名]大館市中町

外町の町人町。城下町の南西部に位置し、東西に走る道路沿いに形成され、西はおお町と丁字形に交わる。北は馬口労ばくろう町、南はしん町。「郷村史略」に「中町大工町柳町ハ支配」とあり、両町と相接する。

元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「中町」とみえ、町屋敷と百姓屋敷があった。また「六郡郡邑記」の商家の項にも「中町」とある。

延宝三年(一六七五)の大館町市日相定之事(大館肝煎文書)によれば馬口労町と交互に七の三斎市を立て「博労町、中町、横町共 太物細物茶紙繰綿致売買間敷候、其外何共勝手次第ニ可致商売、附酒造事為無用事」とある。

中町
なかまち

[現在地名]黒石市中町

黒石陣屋の東北にあたり、南にまえ町、北にはま町が続く。元禄四年(一六九一)の黒石御絵図(市立弘前図書館蔵)にも描かれているように、前町・浜町とともに、弘前方面から青森方面に通ずる街道筋に位置する。中町には造酒屋・呉服屋・米屋が軒を並べ、前町・よこ町などの商人町とともに黒石城下の経済の中心であった。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)には浜町と合せて家数二六とある。

中町
なかまち

[現在地名]刈谷市銀座ぎんざ

ほん町に続き、すそ町につながる。町の長さ一町三四間一尺。享保(一七一六―三六)頃までは藁屋根の農家が多く、領主の必要に応じて諸品を上納した。そののちおいおい発展し、嘉永三年(一八五〇)中町前栽から寺横てらよこ町番家前へ切抜ける道が開け、町並が整いはじめる。弘化五年(一八四八)本家二七・借家三、人数一四三(男七二・女七一)

中町
なかまち

[現在地名]水戸市おお町二―三丁目・みなみ町一―三丁目

大町と南町の間に東西に通じる町で、西は西にし町、東は元白銀もとしろかね町。「佐竹侯の在城の時は町家」(水府地理温故録)で、また「此所にも佐竹の比より寺院ありて天学院珠賢寺行照院密蔵院なと」(水府地名考)があったが、寛永二年(一六二五)下町したまち開発以後移転し、諸士の居住地となった。

中町
なかまち

[現在地名]米沢市ひがし三丁目・駅前えきまえ一丁目

信濃しなの町の北に続く下級家臣(原方衆)屋敷町。信濃町を通る上片子かみかたこ道に並行な北の脇道に沿う両側町。西端は信濃町北側にある長尾家下屋敷。花沢はなざわ八町の一。明和六年(一七六九)の原方屋敷絵図(市立米沢図書館蔵)によれば家数一〇一。

中町
なかまち

[現在地名]島原市中町

島原城の南東、三会みえ町の東に位置する。天和二年(一六八二)の火災でほぼ全焼したとされる。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳では三会町別当の管轄四ヵ町として「中町」がみえる。天明三年(一七八三)中町・上之町で失火、五八〇余戸が延焼している(深溝世紀)。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ三四間・幅二間。

中町
なかまち

[現在地名]福山市昭和しようわ

大工だいく町の東に位置し、東西の通りおよび神島かしま(中市)に続く南北の通りに面する。水野時代福山城下地図では町域北部にあたる部分に「カシマ横町」とあるが、これが南に発展し中町となったものか、神島横町の南に別に中町が生れたものか不明である。呼称は古くからの医者いしや町・町に挟まれ、北は神島中市に続くという位置的条件から生じたものであろう。

中町
なかまち

[現在地名]白石市 中町

もと町の北に続く六町の一。北はなが町、東は清水小路しみずこうじ、西は本鍛冶もとかじ小路。寛文一〇年(一六七〇)の書上(「白石市史」所収)によると町の長さ一〇六間で、奥州街道を挟んで東側二七軒、西側二三軒、検断屋敷一軒。

中町
なかまち

[現在地名]土浦市中央ちゆうおう二丁目

土浦城の東に位置する。慶長九年(一六〇四)頃に整備された町屋で、元文年間(一七三六―四一)の東崎町分戸別図(土浦市立図書館蔵)には、中町は「橋より橋迄七十三間二尺」とあり、江戸寄りのほん町とは中町橋、水戸寄りの町とは田町橋・土手が境となっている。

中町
なかまち

[現在地名]大館市十二所 中町

十二所じゆうにしよ町の北部に位置する町人町。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」や幕末の「郷村史略」に「中町」とある。鹿角かづの比内ひないを結ぶ街道沿いに形成され、東はうわ町、西はしも町。北は米代川が西流し、幕末の十二所士族屋敷図によれば南側に「上城中町」があった。

中町
なかのちよう

[現在地名]洲本市本町ほんまち八丁目

しん町の西に続く東西の通り。そと町のうちの武家地で中ノ丁とも記される。新町との間には下代げだい(江国寺通)、西端にはてら町の南北の通りがある。

中町
なかまち

[現在地名]佐賀市白山しらやま一丁目

長崎街道は白山町から竜造寺八幡宮を北に迂回して米屋こめや町から中町に入る。佐賀城の北西部に位置する。嘉永七年(一八五四)の竈帳によれば実竈数一一一、人口は男二八五人、女二七〇人、計五五五人。職業は日傭取一一竈、大工八竈などが目立つ。身分構成は町人三四竈、足軽三一竈、被官一九竈などである。

中町
なかのちよう

[現在地名]和歌山市広瀬中ひろせなかの丁一―二丁目

広瀬通ひろせとおり町南の東西の通りに面した武家町。東端は和歌川、中央やや西で雑賀道さいかみちと交差する。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図には通りを挟んで三〇余の武家屋敷が並ぶ。

中町
なかまち

[現在地名]新発田市中央ちゆうおう町三丁目

町人町の本町三町のうち、上町の西に続く。西は下町。東は青木あおき小路から西は石川いしかわ小路までで、本町のなかでは間数が短い。上町とともに古くから成立していた町場と考えられる。

中町
なかまち

[現在地名]沼田市 中町

本町ほんちよう通の中央、上之かみの町の西にあり、西は下之町。延宝五年(一六七七)城下絵図(高橋家蔵)に町名がみえる。「沼田町記」の延享五年(一七四八)写分では東西一二一間余、町家数四一で表口六間、竪三八間、八畝ほどが屋敷地の平均。

中町
なかまち

[現在地名]鹿角市十和田毛馬内 中町

毛馬内けまないの町並中央部の町人町。正徳二年(一七一二)の毛馬内絵図に「中町」とある。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」には「三十四軒中町」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android