棚田村(読み)たなだむら

日本歴史地名大系 「棚田村」の解説

棚田村
たなだむら

[現在地名]美山町大字長谷ながたに

宮島みやじま一一ヵ村の一。由良川上流左岸に位置する山間集落。川の上流右岸はしま村、下流(西北)沢田さわだ村、対岸和泉いずみ村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高一〇八・一八六石、旧高旧領取調帳では一三六・六四六石。生業は農業を主とし、養蚕製茶・薪炭・川漁なども営んだ。

棚田村
たなだむら

[現在地名]行田市棚田町・清水町しみずちよう壱里山町いちりやまちよう西新町にししんまち深水町ふかみちよう

北は持田もちだ村、西は太井おおい(現熊谷市)、南は元荒川を隔てて大里郡久下くげ(現同上)。当村はちょうど元荒川河道がU字形に屈曲した外側に位置していて頻繁に水害を受けたようで、小名に砂畠すなはたけ砂原すなはら・深水・押出おしだしなどの名称が残っている。忍藩領、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳によれば大井四ヵ村のうちで、高六一二石余。

棚田村
たなだむら

[現在地名]大門町棚田

なか村の東に位置し、集落の北部東西通称東三ひがしさんヶ往来が通じる。東三ヶ(村)は当村と北の安吉やすよし村およびその東の本田ほんでん村を合せた通称。南の本江ほんごう村との境近くに地形が棚状になっている地があることから棚田とよばれるようになったといわれる。正保郷帳に村名がみえ、高四九五石余、田方のみで三三町余、ほかに新田高三一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高五六三石、免五ツ、ほかに同五年の新開高一三石、小物成は野役三一匁(三箇国高物成帳)

棚田村
たなだむら

[現在地名]清里村棚田

西を櫛池くしいけ川が北流し、南は水草みずくさ村に接する。正保国絵図に「柵田村」とみえる。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高七七石七斗余。天和三年郷帳には高八二石八斗余、うち山高四石四斗七合とある。宝暦八年(一七五八)年貢米納入の扱いに関して、従来の高野たかの郷蔵(現板倉町)扱いから南京田みなみきようでん郷蔵(現上越市)扱いへの変更を請願した(清里村史)

棚田村
たなだむら

[現在地名]小矢部市棚田

松尾まつお村の南東五郎丸ごろまる川と渋江しぶえ川の合流点西側に位置。元和五年(一六一九)の家高新帳に「たなた」とみえ、役家数六、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高二七〇石余、田方一七町余・畑方一町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九七石・免四ツ六歩(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では高二五四石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android