栃本村(読み)とちもとむら

日本歴史地名大系 「栃本村」の解説

栃本村
とちもとむら

[現在地名]田沼町栃本

秋山あきやま川流域を占め、北は山越やまこし村・下多田しもただ村、西は田沼村吉水よしみず村、唐沢からさわ山を挟み東は小野寺おのでら(現下都賀郡岩舟町)富士ふじ(現佐野市)、南は奈良淵ならぶち(現同上)に接する大村。中世には佐野庄に含まれた。「吾妻鏡」正嘉二年(一二五八)七月一〇日条に「下野国栃本郷」とみえ、泉義信と安房頼綱が質地であった同郷をめぐって争い、幕府は頼綱に対し一〇〇貫文を義信に渡すよう命じている。頼綱は佐野国綱の子と考えられる(佐野阿曾沼系図)。南北朝期と推定される結城宗広所領注文案(結城文書)には「栃本郷内田在家 荒野 狩倉等」とあり、結城氏の所領であった。狩倉とは在地領主の狩猟ならびに騎射などの軍事訓練の場として、一般の立入りを禁止した山野をいう。なお甲冑師明珍信家は当地に住み佐野氏のため兜を製作していたという。天正一五年(一五八七)六月一一日の佐野氏忠定書(本光寺文書)では同郷の五貫文の地が本光ほんこう寺領と定められている。年未詳三月二八日の佐野氏忠印判状(設楽己知氏所蔵文書)によると佐野氏忠は同郷の川入かわいりの百姓に田畑を荒廃させないよう申付けている。

北方の字青柳あおやぎは佐野庄青柳郷の遺称地とされ、宝徳二年(一四五〇)五月三日の小野寺朝通譲状案・小野寺朝通言上状(小野寺文書)に郷名がみえる。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]東村栃本

やしろ川の支流矢武やぶ川上流左岸に位置し、南は千田せんだ村、北は深仁井田ふかにいだ村、東は釜子かまのこ村、西は形見かたみ村に接する。古くから開けた土地で、縄文時代の下野内しものうち遺跡、弥生時代の桝形ますがた遺跡、古墳時代の桝形古墳群・市倉山いちくらやま古墳、平太郎へいたろう住居跡などがある。字上本郷かみほんごう小屋こや(高野館)跡があり、結城宗広の一族広政の館とも、栃本右衛門の居館ともいう。天正年間(一五七三―九二)に結城白川氏と石川氏との間で行われた攻防戦で栃本氏は石川氏方に味方し、この地が会津領になったとき土着して百姓となり、姓を根本と改めたという(東村史)

栃本村
とちもとむら

[現在地名]智頭町奥本おくもと

真加野まがの村の西方に位置し、土師はじ川右岸に合流する奥本川の下流に集落が発達する。備前街道が通り、藩政初期には当村に国境御番所が設置されていた(藩史)。慶安年間(一六四八―五二)には備前街道の宿駅であったが(「在方御法度」など)、正徳―享保年中(一七一一―三六)までに宿駅は野原のばらに移されたと思われる(「在方御定」「鳥取県史」など)。拝領高は三八石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高四一石余、毛付高五一石余、本免五ツ、同年の物成高二四石余、ほかに藪役銀七匁二分五厘が課されていた。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]国府町栃本

楠城なわしろ村の北東、ふくろ川とその支流大石おおいし川の合流点付近に位置する。永禄一二年(一五六九)一二月二一日に作成された大萱郷米方算用状(因幡民談記)に「とち本口のさんてん」とみえる。藩政期の拝領高は一三五石余、本免は七ツ一分。横尾氏・福田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数四九で、産物は照石降石。天保一五年(一八四四)の作人七八・出奉公人八、牛一九(「作人帳」井上家文書など)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高一四七石余(うち畑高一五石余)で、永荒を引き年々開二九石余などを加えた都合高は一七八石余。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]京北町大字栃本

宇津うつ七ヵ村の一。大堰おおい川流域の山間集落で、北は明石あけし村、南は細川ほそかわ長野ながの村、川の上流(東)弓槻ゆづき村、下流(西)中地ちゆうじ村がある。古代は「和名抄」に記す有頭うつ郷に属し、のち宇都うつ(吉富本庄)に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高一一四石余。明和七年(一七七〇)には本年貢の免率六割二分五厘というが定免でない。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]足助町栃本

県道坂上―追分線に沿う。東はまつ村、南は岩谷いわや村・平折ひろり村、西は桑原田くわはらだ村、北は上国谷かみぐにや村・山中やまなか村に接する。ともえ川左岸に連なる小起伏面であるが、巴川に注ぐかがみ川の水源地で、集落はこの川の流れる谷地形の山麓に点在。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]北山村大字小橡ことち

北山川の支流小橡川流域にある。滝川りゆうせん寺の「仏遺教経」に「去康正丁子(丁丑の誤)臘月二日夜赤松カ徒殺奉ル、此経勧請一結衆之姓名在斯、所謂(中略)栃本分、中宅左衛門、竹下刑部(下略)」とみえる。長禄元年(一四五七)一二月二日の赤松浪人襲撃の記録である。

慶長郷帳では村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」の内に含まれている。寛永郷帳では「小瀬栃本村」と記され、村高八二・五六一石、幕府領(代官小野宗左衛門)

栃本村
とちもとむら

[現在地名]日高町栃本

山宮やまのみや村の西、神鍋かんなべ山麓に位置する。江戸時代の領主の変遷は頃垣ころがき村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高一三九石余。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(栃本区有文書)でも同高、うち田方一〇七石余・畑方三二石余、ほかに宝永元年に高入れされた新田高四斗余がある。小物成は山手米・茶代米など。養蚕を行い、桑役として真綿を運上。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]郡山市田村町栃本たむらまちとちもと

栃山神とちやまがみ村の南、阿武隈高地の山間に立地。守山もりやま村から磐城への道が通る。文和二年(一三五三)五月日の石河兼光軍忠状(遠藤白川文書)に当地の「柴塚」がみえ、同年四月五日、兼光らは柴塚しばづかを攻撃、同一五日には城際に迫り合戦している。江戸時代初めは白河藩領、寛保元年(一七四一)から越後高田藩領。

栃本村
とちもとむら

[現在地名]下市町大字栃本

梨子堂なしどう村の東に位置する。丹生にう郷のうち。慶長郷帳では村高六二・二二二石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は一二六・三九八石と倍増した。延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡丹生郷栃本検地帳(大沢家文書)では反合一二町六反二畝九歩で、楮畑・漆畑・茶畑の記載がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報