柳川検校(読み)ヤナガワケンギョウ

デジタル大辞泉 「柳川検校」の意味・読み・例文・類語

やながわ‐けんぎょう〔やながはケンゲウ〕【柳川検校】

[?~1680]江戸前期の地歌演奏家・作曲家。柳川流創始者大坂の人。地歌三味線名手として京都活躍三味線組歌破手はでを作曲したといわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「柳川検校」の意味・読み・例文・類語

やながわ‐けんぎょう【柳川検校】

江戸初期の地歌の三味線方。大坂の人。初名加賀都(かがのいち)山野井検校弟子。柳川流の祖。京都に出て名をなし、八橋検校と並び称された名人。延宝八年(一六八〇)没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳川検校」の意味・わかりやすい解説

柳川検校
やながわけんぎょう

[生]?
[没]延宝8 (1680).7.11.
江戸時代初期の盲人音楽家。三味線組歌(→三味線本手柳川流の祖。都名(いちな)は応一。三味線音楽始祖石村検校の弟子とする説と,石村の弟子山井検校の弟子とする説とがある。藤本箕山著『色道大鏡』(1678)によれば,寛永年間(1624~44)の初め頃,大坂で加賀都(かがのいち)を名のり,城秀(のちの近世箏曲の開祖八橋検校)とともに三味線の名人として活躍していたという。また京都鹿苑寺住職の鳳林承章の日記『隔蓂記』の寛永期にも三味線の「当代名人之二人之内」と記されている。寛永16(1639)年検校に登官。最古の芸術的な三味線音楽である組歌本手組(→本手)の形式主義的な様式に対し,破格的な破手組(端手組,→破手)を創始したと伝えられている。作品は『松の葉』(1703)に破手組「待つにござれ」「葛の葉」「下総ほそり(→ほそり)」,裏組「賤」「錦木」「早舟」,秘曲「揺上(ゆりかん)」「七つ子」「堺」などが収載されている。門下長歌様式の新曲をつくり,歌舞伎音楽である長唄の成立に影響を与えたといわれる浅利検校,佐山検校,市川検校らが出た。今日,京都柳川流には組歌は 6曲のみ伝承されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「柳川検校」の意味・わかりやすい解説

柳川検校 (やながわけんぎょう)

盲人音楽家。地歌三味線柳川流の祖。都名(いちな)は応一。初名は加賀都(かがのいち)。寛永(1624-44)の初年,大坂にて後の八橋検校とともに三味線を弾く。1639年藤下いさ一検校のもとで検校となる。三味線組歌の破手組その他の曲を作曲,古来の本手組を編曲して,後の京都の柳川流の伝承体系を確立。没後,1703年(元禄16)に刊行された《松の葉》には,浅利検校を経て早崎検校に伝承されたものが収録された。その後,深草検校の作品を加えたものが,早崎流として伝えられ,69年(明和6)には,田中検校によって楽譜化も試みられて,《五線録》が編集された。以後,安村,河原崎,上原,桂,富士岡の各検校に伝承され,明治期には古川滝斎が《柳川流本手組大意全書》を著したりして,柳川流三味線組歌の普及を図ったが,しだいに廃れ,現在ではわずか6曲ほど伝承されているにすぎない。大阪の野川流が全曲遺存させているのとは対照的である。なお,この柳川流の組歌を演奏する際には,古態の柳川三味線と小さな京ばちを使用する。
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朝日日本歴史人物事典 「柳川検校」の解説

柳川検校

没年:延宝8.7.11(1680.8.5)
生年:生年不詳
江戸前期の三弦家,柳川流の始祖。初名加賀都。寛永16(1639)年12月4日検校となって柳川検校応一を名乗る。寛永(1624~44)のはじめごろ,城秀(のち八橋検校)と共に大坂で三弦家として活躍。その後,京都でも天下一の名人として名を馳せた。『糸竹初心集』(1664)には「色あひ撥のしなやかなる事,中々凡人のわざとはおぼえず」と評される。三味線の日本伝来とともに成立した芸術的歌曲(三味線組歌)の本手組(「琉球組」以下7曲)を編曲。「待つにござれ」以下7曲の端手組と「賤」以下7曲の裏組,「揺上」以下7曲の秘曲の計21曲を作曲。その後の京都に伝えられた柳川流の伝承体系を確立した。その伝承に基づく歌詞は,没後刊行された『松の葉』(1703)に収録。組歌以外の作品もある。<参考文献>平野健次『三味線と箏の組歌』

(谷垣内和子)

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百科事典マイペディア 「柳川検校」の意味・わかりやすい解説

柳川検校【やながわけんぎょう】

地歌三味線演奏家,作曲家。柳川流の始祖。1639年検校となる。名は応一。地歌の最古の曲種〈三味線組歌〉の大成者で,《待にござれ》《葛の葉》など20曲余りを作曲,石村検校,虎沢検校作曲の組歌を改訂して今日の京都に伝わる柳川流の伝承の基礎を築いた。
→関連項目破手

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳川検校」の解説

柳川検校 やながわけんぎょう

?-1680 江戸時代前期の地歌三味線奏者,作曲家。
柳川流の祖。石村検校または山野井検校の門人。大坂で城秀(八橋(やつはし)検校)とともに名人といわれた。寛永16年検校。三味線組歌表組(本手)にくわえて端手(はで)組,裏組,秘曲各7曲を作曲。延宝8年7月11日死去。名は加賀都(かがのいち),のち応一。

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世界大百科事典(旧版)内の柳川検校の言及

【地歌】より

…これを,〈三味線本手〉ないし〈本手〉と称したが,のちには〈三味線組歌〉などとも称した。その中でも最古典曲は,石村検校作曲とされる《琉球組》であるが,虎沢検校を経て柳川検校に至るまでに,増補・整理された。とくに柳川が〈カタバチ(片撥)〉(撥を弦にあてて胴皮におろす普通の弾き方とスクイ撥が交互になるモロバチが本手には用いられたが,これに対して普通の弾き方のみが連続する)の奏法によって新作したものを〈破(端・葉)手(はで)〉と称してから,それ以前のものを,狭義の〈本手組〉(表組)と称した。…

【三味線組歌】より

… 盲人音楽家の間に,芸術的伝承曲として伝えられるにいたって,さまざまな増補・編曲が行われるようになった。京都において,その伝承体系を確立させたのは柳川検校であって,みずから破手組その他の楽曲の作曲も行い,それ以前の古曲のみを本手組と称した。柳川の体系づけたものは,その後の伝承において,柳川流と称せられ,その詞章は《松の葉》(1703)に収録された。…

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