長唄(読み)ナガウタ

デジタル大辞泉 「長唄」の意味・読み・例文・類語

なが‐うた【長唄/長歌】

(長唄)江戸歌舞伎の伴奏曲として発達した三味線音楽。享保(1716~1736)ごろまでに2の影響を受けて確立。豊後節ぶんごぶし系統の浄瑠璃大薩摩節などを取り入れて多様な音楽となり、文政(1818~1830)ごろには劇場と離れた鑑賞本位のお座敷長唄も生まれ、明治以後広く普及。江戸長唄
(長歌)地歌の一種で、組歌の次に創始された古典的な三味線歌曲。小編歌曲を組み合わせた組歌に対し、一つのまとまった内容の歌詞をもつ歌曲。元禄(1688~1704)ごろに上方に現れた。長歌物。上方長歌。
ちょうか(長歌)1」に同じ。⇔短歌みじかうた

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改訂新版 世界大百科事典 「長唄」の意味・わかりやすい解説

長唄 (ながうた)

三味線音楽の一種。歌舞伎芝居の効果音楽ないしその舞踊の伴奏音楽として成立したもので,三味線を主奏楽器とする歌曲中心の楽曲であるが,器楽曲として独立させうる間奏または歌を略した三味線のみの演奏の場合もある。〈鳴物(なりもの)〉と称する,太鼓,大鼓,小鼓,笛の4種の楽器(これを四拍子ともいう)が加わることもあり,さらに舞台裏で他のさまざまな効果楽器を加えることもある。後代には芝居・舞踊から独立して,音楽のみの演奏も行われるようになった。

 〈ながうた〉という言葉は,本来は長編の〈うた〉をいうもので,文芸上の短歌に対する長歌(ちようか)とは異なるものの,歌謡では今様以来用いられた言葉である。江戸時代に入って三味線音楽の成立とともに,各種目において異なる概念で用いられるようになり,表記法も一定しないが,古くは長歌(哥)などと表記するほうが一般的であった。明治以降,本来は歌舞伎に付随していた三味線音楽の〈ながうた〉に対して,とくに〈長唄〉と表記することが普通となった。ただし,関西では他の江戸系の浄瑠璃や端唄とともに,〈江戸歌〉と総称することもあった。なお,地歌の細分類名称として〈長歌(ながうた)〉という分類もあるが,歌舞伎音楽の〈ながうた〉とは直接の関係はない。歌舞伎における〈長歌〉という言葉の成立は,はっきりせず,古くは〈小歌〉〈鼓歌〉などに対するものでもあり,また〈江戸長歌(唄)〉〈大坂長歌(唄)〉〈京長歌(唄)〉などの区別もあり,かなり後代までこうした芝居小屋所在の地名を冠する習慣が行われたようであるが,明治以降は〈江戸長唄〉で代表させるようになり,それを〈長唄〉と略称することが一般的となった。
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お国歌舞伎時代(17世紀初期)の舞踊は能の四拍子(太鼓,大鼓,小鼓,笛)を伴奏楽器としていたが,お国歌舞伎を模倣した女歌舞伎(1629年禁止)の時代になると三味線が演奏されている。しかし,この時代は俳優が舞台で三味線を演奏する程度であった。しかし,次の若衆歌舞伎(1652年禁止)では四拍子に代わって三味線が主要楽器の地位を占め,俳優と演奏者の別も確立した。3世杵屋(きねや)勘五郎編《杵屋系譜》では,元和年間(1615-24)に江戸に下った初世杵屋勘五郎杵屋の始祖とし,3代目杵屋勘五郎(杵屋の3代目であり,杵屋勘五郎名義では2世)を〈長哥三絃始祖〉としているが確証はない。次の野郎歌舞伎は元禄期(1688-1704)を迎えて急速な進歩をとげ,顔見世的な総踊り以外に〈続き狂言〉の幕間にも舞踊が盛んに上演されるようになり,上方に岸野次郎三山本喜市などの作曲者や三味線演奏者,江戸にも杵屋喜三郎杵屋六三郎などが現れた。その伴奏音楽も最初は〈小うた〉〈うた〉などとも呼ばれていたが,元禄期ころからは〈長うた〉と呼ばれるようになった。

 初期の江戸歌舞伎では陽気で軽快な二上り調子の曲(例《七つになる子(七つ子)》《馬場先踊》《槍踊》)が作曲されていたが,享保・宝暦期(1716-64)に上方から歌舞伎俳優に伴われて東下した長唄演奏家によって上方の優雅な三下り調子が盛んにとり入れられた。また当時,歌舞伎舞踊は女形の専門芸とされていた関係で,長唄も女性的な曲(例《鷺娘(さぎむすめ)》《娘道成寺(むすめどうじようじ)》《執着獅子(しゆうぢやくじし)》)が作曲された。この時期の長唄唄方には坂田兵四郎,初世松島庄五郎,初世吉住小三郎三味線方には7代目杵屋喜三郎,初世杵屋新右衛門,初世杵屋弥三郎,初世杵屋忠次郎,囃子方には宇野長七などがいる。明和期(1764-72)になると,一中節の太夫から転向した初世富士田吉次(治)によって長唄に浄瑠璃の曲節を加えた唄浄瑠璃(例《吉原雀(よしわらすずめ)》《安宅松(あたかのまつ)》)が創始されたり,大薩摩節(おおざつまぶし)との掛合(《鞭桜宇佐幣(むちざくらうさのみてぐら)》)も開始されて,長唄に新機軸を生みだした。また,この時期には9代目市村羽左衛門など立役(男役)にも舞踊の名手が現れ,舞踊は女形の独占芸という慣行が打破された結果,男性的な曲も生まれた。前述の《安宅松》《鞭桜宇佐幣》はその例である。この期の唄方には初世富士田吉次のほか,のちに遊里に進出して荻江風(おぎえふう)長唄(のちの荻江節)を創始した初世荻江露友,そのほか初世坂田仙四郎,初世湖出市十郎,三味線方に錦屋総治,西川億蔵,初世杵屋作十郎,2世杵屋六三郎,囃子方に宇野長七,3世田中伝左衛門などがいる。

 安永・寛政期(1772-1801)は長唄が上方依存から江戸趣味へと転向し,内容本位の唄浄瑠璃風の長唄から拍子本位の舞踊曲へと移行する,いわば過渡期であり,《二人椀久(ににんわんきゆう)》《蜘蛛拍子舞(くものひようしまい)》がその代表曲であった。また,1792年(寛政4)には舞台に演奏者が並ぶための雛壇が採用されて,歌舞伎舞踊の舞台をより豪華なものとした。この時期の唄方には初世湖出市十郎,初世松永忠五郎,初世富士田音蔵,初世・2世芳村伊三郎,三味線方に8代目杵屋喜三郎,初世杵屋正次郎,初世杵屋佐吉,囃子方に3世田中伝左衛門,2世六郷新三郎などがいる。文化・文政期(1804-30)は江戸趣味的な拍子本位の舞踊曲の全盛期である。この期には俳優にも3世坂東三津五郎,3世中村歌右衛門など兼ねる役者に名人が現れ,変化物(へんげもの)舞踊が流行した結果,長唄も短編ではあるが変化物に《越後獅子》《汐汲(しおくみ)》《小原女(おはらめ)》などの傑作が生まれた。また,伴奏音楽の面でも変化の妙を示そうとして豊後節系浄瑠璃(常磐津,富本,清元)と長唄との掛合が流行したのもこのころで,《舌出三番叟(しただしさんばそう)》《晒女(さらしめ)》《角兵衛》などが掛合で上演された。さらにこの時代には,舞踊の伴奏音楽という制約から離れた鑑賞用長唄(お座敷長唄)が誕生した。これは長唄演奏者の芸術的意欲の高揚から生まれた新傾向の長唄で,このころには《老松(おいまつ)》《吾妻八景(あづまはつけい)》《外記節石橋(げきぶししやつきよう)》などが作曲されている。また,長い間,市川家荒事舞踊の伴奏音楽をつとめていた大薩摩節が衰退し,1826年(文政9)その家元権が4世杵屋三郎助(のちの10代目杵屋六左衛門)に預けられた結果,大薩摩節の旋律を加味した長唄が積極的に作曲されるようになった。なお,天明期(1781-89)から文化期にかけて,初世鈴木万里らによって江戸長唄が上方に紹介・普及された結果,文化年間には大坂に〈チリカラ連〉と呼ばれる江戸長唄愛好者の団体が生まれた。この期の唄方には2世芳村伊三郎,2世芳村伊十郎,初世富士田千蔵,三味線方に9代目杵屋六左衛門,2世杵屋正次郎,4世杵屋三郎助,囃子方では4世望月太左衛門,4世田中伝左衛門らが活躍している。

 天保期(1830-44)から幕末にかけても長唄は全盛期であった。歌舞伎や長唄を愛好する大名,旗本,豪商,文人らがその邸宅や料亭に長唄演奏家を招いて鑑賞することが流行し,なかには作詞を試みる者も現れ,作曲者たちの作曲意欲と相まって,《翁千歳三番叟(おきなせんざいさんばそう)》《秋色種(あきのいろくさ)》《鶴亀》《紀州道成寺》《四季の山姥(しきのやまんば)》《土蜘(つちぐも)》など鑑賞用長唄の傑作が生まれた。一方,前代に全盛をきわめた変化物舞踊もようやく行詰りをみせはじめ,さらに幕藩体制の崩壊,長唄愛好者の大名,旗本の高尚趣味の影響もあって,長唄にも復古的な傾向が現れ,謡曲を直接にとり入れた曲が作曲されるようになり,前述の《鶴亀》や《勧進帳》《竹生島》などが生まれた。この時期の唄方には天保の三名人といわれる3世芳村伊十郎,岡安喜代八,2世富士田音蔵,三味線方に10代目杵屋六左衛門,4世杵屋六三郎,5世杵屋三郎助(のち11代目杵屋六左衛門,3世勘五郎),2世杵屋勝三郎,囃子方に4世望月太左衛門,6世田中伝左衛門などがいる。明治前期(明治30年ころまで)では三味線方の3世杵屋勘五郎,2世杵屋勝三郎,3世杵屋正次郎が作曲の三傑として傑出している。勘五郎は《橋弁慶》《綱館(つなやかた)》《望月》,勝三郎は能役者日吉(ひよし)吉左衛門の主唱する邦楽を地に能を舞う吾妻能狂言のために《船弁慶》《安達原》,正次郎は歌舞伎長唄に手腕を発揮し《連獅子》《土蜘》《元禄花見踊》《茨木》《鏡獅子》などを作曲している。また,1868年(明治1)には3世杵屋勘五郎が大薩摩節の家元権を正式に譲られ,以後,大薩摩節は長唄演奏家の兼名,兼業となった。この時期の唄方には5世・6世芳村伊三郎,6世芳村伊十郎,2世松島庄五郎,3世松永和風(楓)らがいる。

 1902年,4世吉住小三郎と3世杵屋六四郎(のち2世稀音家(きねや)浄観)によって研精会が結成された。これは長唄を純粋な鑑賞用音楽とし,定期的な演奏会によって広く一般の家庭への普及を意図したもので,これが世論を喚起し評判を高めた結果,明治末期から大正期にかけて長唄演奏会の全盛期を迎え,鶴命(かくめい)会,岡安会,東歌会,杵六会,芙蓉(ふよう)会などが生まれた。明治末期から大正・昭和期にかけては,唄方に6世芳村伊十郎,5世富士田音蔵,4世吉住小三郎,4世松永和風,三味線方に12・13代目杵屋六左衛門,5世杵屋勘五郎,2世稀音家浄観,4世杵屋勝太郎,3世杵屋栄蔵,4世杵屋佐吉,囃子方に7世望月太左衛門,10世田中伝左衛門,3世住田又兵衛らが輩出し,〈長唄八天下〉と呼ばれる黄金時代を迎え,《新曲浦島》《多摩川》《紀文大尽》などの傑作が生まれた。第2次世界大戦中は国家の統制が厳しく,軍国主義的な傾向の濃い作詞・作曲が要求され,歌詞の改訂なども行われた。戦後は舞踊界隆盛の波にのって長唄界も復活し,若手の進出もあって各流派間の交流も盛んとなり,古曲,稀曲の調査研究をはかる一方,従来の長唄の範囲を超えた新しい日本音楽の創造をめざす運動も盛んとなった。

長唄はその発展途上で,地歌,各種浄瑠璃,謡曲,狂言,流行歌(はやりうた)などの歌詞あるいは旋律をとり入れた幅の広い歌曲である。伴奏の三味線には細棹(ほそざお)を用いる。初期の長唄は二上り調子の短編であったが,享保期ころより三下り調子が基調となり,さらに浄瑠璃風の本調子が採用され,現在では本調子,二上り,三下り,さらには六下り(三メリ),一下りを巧みに組み合わせ,また複旋律としての上調子,ときには替手(かえて),即興的な〈たま〉なども加えて演奏される。歌舞伎舞踊の制約を受ける関係で,置唄・出・クドキ・踊り地・チラシ・段切という形式をとるものが多いが,変化物や鑑賞用長唄では必ずしもその形式は踏襲しない。

 長唄の演奏は二挺一枚(三味線方2名と唄方1名)を最小単位とし,数十挺数十枚による演奏も可能であり,三味線のみならず,管楽器(能管,竹笛など),打楽器(大鼓,小鼓,太鼓など)をも加える。また,常磐津節や清元節などの浄瑠璃と一曲を細かく分担して交互演奏(掛合という)も行うなど演奏方法が多種多様である。また歌舞伎では,中幕の舞踊の出囃子(舞台に出て演奏する形式)以外に,下座(げざ)音楽(舞台左隅の黒御簾(くろみす)の中で演奏する効果音楽)の演奏や,浅葱幕(あさぎまく)の外で情景描写などのために演奏する勇壮な大薩摩などはすべて長唄関係者が勤める約束になっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長唄」の意味・わかりやすい解説

長唄
ながうた

三味線音楽の一種目。歌舞伎(かぶき)舞踊の伴奏音楽として誕生、のち鑑賞用長唄(「お座敷長唄」とも「演奏会長唄」ともいわれる)も現れる。細棹(ほそざお)の三味線や鳴物(大鼓(おおつづみ/おおかわ)、小鼓、笛、太鼓など)を伴奏楽器とする。

[植田隆之助]

名称

「長唄」の名称は、上方(かみがた)(京坂地方)の地歌(じうた)のなかの長歌に由来するといわれ、ついで歌舞伎芝居の、三味線を伴奏とする長編の歌曲も「ながうた」というようになった。元禄(げんろく)期(1688~1704)ごろ現れ、最初は「長歌」「長哥」「長うた」などとも記されていた。初期には演奏者の出身地によって、「江戸長唄」「大坂長唄」「京長唄」などと区別されていたが、江戸出身者が多くなるにつれて、「江戸」の名称も無意味となり、単に「長唄」とよばれることが多くなった。

[植田隆之助]

沿革

元禄期に上方の盲人音楽家の演奏する三味線音楽(地歌)のなかに比較的まとまった内容をもった長歌が現れた。これが上方の芝居唄となり、やがて上方の歌舞伎俳優の江戸進出によって江戸にも伝来し、江戸歌舞伎の芝居唄にも影響を与えながら、しだいに江戸趣味に淘汰(とうた)され、江戸長唄として発展していった。一方、上方では、芝居唄は元禄期にその頂点に達したものの、その後は歌舞伎音楽としての伝承は行われず、座敷音楽としての地歌の一分野である端歌(はうた)のなかに吸収され、長唄といえば江戸長唄に限られるようになった。

〔1〕享保(きょうほう)~宝暦(ほうれき)期(1716~1764) 上方の歌舞伎俳優とともに東下した長唄演奏家の活躍により、地歌の影響の強い三下(さんさが)り調子の曲が中心である。また当時は歌舞伎舞踊が女方(おんながた)の専門芸であったところから、女性的な曲が多かった。唄方に坂田兵四郎(ひょうしろう)(1702―1749)、初世松島庄五郎、初世吉住(よしずみ)小三郎、三味線方に6世杵屋(きねや)喜三郎(?―1730)、7世杵屋喜三郎(?―1752)、杵屋新右衛門(しんえもん)、杵屋弥三郎(やさぶろう)(?―1758)、鳴物に多田逸八、宇野長七らが輩出、曲では『無間の鐘(むけんのかね)』『相生獅子(あいおいじし)』『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』『英執着獅子(はなぶさしゅうじゃくのしし)』『鷺娘(さぎむすめ)』などが生まれた。

〔2〕明和(めいわ)期(1764~1772) この期になると、一中節(いっちゅうぶし)・豊後(ぶんご)節・義太夫(ぎだゆう)節・外記(げき)節などの旋律を加味した唄浄瑠璃(うたじょうるり)を創始して一世を風靡(ふうび)した美声の唄方初世富士田吉次(ふじたきちじ)(吉治)、遊里に進出して荻江(おぎえ)風長唄(後の荻江節)を創始した初世荻江露友(ろゆう)、めりやすを得意とした初世湖出(こいで)市十郎(?―1800)、三味線方に西川奥蔵(おくぞう)(?―1768)、錦屋惣治(にしきやそうじ)(?―1771)、初世杵屋作十郎(1728―1799)、2世杵屋六三郎、鳴物に宇野長七、3世田中伝左衛門らが輩出した。この時期には立役(たちやく)(男役)にも舞踊の名手が現れ、立役舞踊も上演されるようになった。それに伴って男性的な曲も作曲され、本調子が積極的に取り入れられ、江戸趣味的な長唄も生まれた。『娘七種(むすめななくさ)』『吉原雀(よしわらすずめ)』『隈取安宅松(くまどりあたかのまつ)』などが作曲されている。

〔3〕安永(あんえい)~寛政(かんせい)期(1772~1801) 長唄の過渡期で、前代の内容本位の唄浄瑠璃の時代から次の文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)期のリズミカルな江戸趣味的な長唄の全盛期を迎える転換期であった。唄方では初世湖出市十郎、初世松永忠五郎(松永和風)、初世富士田音蔵、初世芳村(よしむら)伊三郎(1719―1808)、2世芳村伊三郎(1735―1821)、三味線方に8世杵屋喜三郎(?―1787)、2世六三郎、初世正次郎、初世佐吉らが活躍し、『二人椀久(ににんわんきゅう)』『蜘蛛拍子舞(くものひょうしまい)』『五大力(ごだいりき)』『木賊刈(とくさかり)』などが生まれた。また舞台に雛壇(ひなだん)(演奏者が上下2段に座して演奏するための台)が採用されて華やかに演奏されるようになったのもこの時期からである。

〔4〕文化~文政期(1804~1830) 長唄の黄金時代。変化(へんげ)舞踊の流行に伴い短編の舞踊曲が数多く作曲され、一方では豊後(ぶんご)節系浄瑠璃(常磐津(ときわず)、富本(とみもと)、清元(きよもと))との掛合(かけあい)(一曲を細かく分担して交互に演奏する形式)による変化の妙が発揮された。『越後獅子(えちごじし)』『汐汲(しおくみ)』『舌出三番叟(しただしさんばそう)』『供奴(ともやっこ)』『浦島(うらしま)』『角兵衛(かくべえ)』などが作曲されている。また新たに歌舞伎舞踊の制約を脱した鑑賞用長唄(お座敷長唄)として『老松(おいまつ)』『外記猿(げきざる)』『吾妻八景(あづまはっけい)』などが作曲されたのもこの時期である。1826年(文政9)には豪快な節回しを持色とする大薩摩(おおざつま)節を吸収し、その後は積極的にその旋律を駆使し、長唄の領域は拡大された。唄方に2世芳村伊三郎、2世伊十郎、初世富士田千蔵(1757―1824)、三味線方に9代目杵屋六左衛門、2世正次郎、4世六三郎、4世三郎助(のち10代目六左衛門)、鳴物では4世望月(もちづき)太左衛門らが活躍している。

〔5〕天保(てんぽう)~慶応(けいおう)期(1830~1868) 前代に続く全盛期で、『秋色種(あきのいろくさ)』『四季の山姥(しきのやまんば)』など鑑賞用の長唄が作曲されるとともに、復古的な傾向として謡曲に題材を求めた『勧進帳(かんじんちょう)』『鶴亀(つるかめ)』『紀州道成寺』『羅生門(らしょうもん)』などが作曲された。唄方には天保の三名人といわれる岡安喜代八(おかやすきよはち)(のち3世岡安喜三郎。1792―1871)、3世芳村伊十郎(のち2世吉住小三郎)、2世富士田音蔵、三味線方では10代目杵屋六左衛門、4世六三郎、5世三郎助(のち11代目六左衛門から3世勘五郎)、2世杵屋勝三郎、鳴物では4世、5世望月太左衛門、4世六郷新三郎(ろくごうしんざぶろう)(?―1850)、6世田中伝左衛門らが輩出した。

〔6〕明治以降 明治前期(1868~1896)には唄方では5世芳村伊三郎、5世伊十郎、2世松島庄五郎が活躍し、三味線方では3世杵屋勘五郎(前11代目六左衛門)、2世杵屋勝三郎、3世杵屋正次郎が作曲の三傑として、『綱館(つなやかた)』『望月(もちづき)』『船弁慶(ふなべんけい)』『正治郎連獅子(れんじし)』『元禄花見踊(げんろくはなみおどり)』などの傑作を残している。1902年(明治35)、4世吉住小三郎(のち慈恭(じきょう))と3世杵屋六四郎(のち2世稀音家浄観(きねやじょうかん))によって長唄研精(けんせい)会が創設され、長唄を歌舞伎劇から独立させ、純粋な鑑賞用音楽として演奏会形式によって広く一般家庭へ普及、浸透させた。これに刺激されて、大正時代には演奏会長唄の全盛期を迎えた。1912年(大正1)に4世杵屋佐吉によって創設された長唄芙蓉(ふよう)会もその一つである。佐吉は三味線だけで表現できる美の世界を探究し、『隅田(すみだ)の四季』『まつり』をはじめ多くの三味線主奏楽を発表し、長唄の領域はさらに拡大された。1925年(大正14)には長唄協会が結成され、長唄界の向上発展のために貢献した。明治後期から大正・昭和期の長唄界には、唄方に6世芳村伊十郎、5世富士田音蔵、4世吉住小三郎、4世松永和風、三味線方に12代目・13代目杵屋六左衛門、5世勘五郎、2世稀音家浄観、4世杵屋勝太郎(1885―1966)、3世栄蔵、4世佐吉、鳴物に7世望月太左衛門、10世田中伝左衛門、3世住田又兵衛(1859―1921)とまさに多士済々、長唄の黄金時代を再現させ、『楠公(なんこう)』『五条橋(ごじょうばし)』『新曲浦島(しんきょくうらしま)』『多摩川(たまがわ)』『鳥羽の恋塚(とばのこいづか)』『紀文大尽(きぶんだいじん)』『お七吉三(おしちきちさ)』などの曲が生まれた。

 第二次世界大戦中は国家の統制が強化され、長唄にも軍国主義的な作品が生まれるとともに、従来の卑猥(ひわい)な歌詞の改訂などが行われた。しかし、戦後の長唄界は大きく変貌(へんぼう)した。唄、三味線、鳴物ともに家元制度のもとに組織されてはいるものの、他方では各流派間の交流も盛んになり、本名で活躍することも可能となった。作曲面でも、従来の長唄の領域をはるかに越えて、邦楽はもちろん、洋楽の分野に至るさまざまな技法を取り入れた新しい日本音楽を創造しようという運動もおこった。しかし一方では、古典尊重の立場からその保存、調査研究が国立文化財研究所(現、文化財研究所)、日本放送協会などの団体、あるいは有志によって進められた。

 1955年(昭和30)2月、第一次の重要無形文化財の指定と保持者の認定に際し、まず長唄三味線方の山田抄太郎(しょうたろう)が同保持者(人間国宝)に選ばれたのを皮切りに、翌年4月には唄方の4世吉住小三郎(のち慈恭(じきょう))、7世芳村伊十郎が認定された。しかし、昭和30年代から50年代にかけてこれら数多くの名人も没した。2003年(平成15)4月時点で重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けている長唄関係者は、唄方で15世杵屋喜三郎(1923―2023)、宮田哲男(てつお)(1934― )、7世鳥羽屋里長(とばやりちょう)、三味線方の3世杵屋五三郎(ごさぶろう)(1918―2013)、松島寿三郎(じゅさぶろう)(1920―2007)、囃子方(はやしかた)の4世望月朴清(ぼくせい)(1934―2007)、笛方の6世福原百之助(ひゃくのすけ)こと、4世宝山左衛門(たからさんざえもん)(1922―2010)、堅田喜三久(かただきさく)(1935―2020)の8名であった。

[植田隆之助]

特色

(1)邦楽のなかでもっとも多様性に富んだ領域の広い歌曲である。長唄はその発展過程において、謡曲、狂言、地歌、各種浄瑠璃、流行唄(はやりうた)、民謡などの技法、曲節、あるいは題材を取り入れた、文字どおり日本の伝統音楽を集大成した細棹(ほそざお)芸術である。

(2)複雑な転調、旋律をもつ歌曲である。初期の長唄は二上(にあが)り調子の短編であったが、享保ごろより三下りが中心となり、さらに本調子も採用され、現在では本調子、二上り、三下りなどを組み合わせ、さらに複旋律の上調子(うわぢょうし)、別個の旋律の替手(かえで)、あるいは即興的なたまなどを加えて演奏する。

(3)多様な演奏法をもつ歌曲である。その演奏は二挺(にちょう)一枚(三味線方2名、唄方1名)の独吟を最小単位とし、数十挺数十枚で演奏することも可能であり、また、めりやす、独吟物、あるいは鑑賞用長唄(お座敷長唄)の一部を除き、管楽器(能管(のうかん)、竹笛)、打楽器(大鼓、小鼓、太鼓)も加えられ、さらに、浄瑠璃(義太夫節、清元節、常磐津節)との掛合も行うなど、演奏法が多様である。

(4)三味線音楽のなかでもっとも上品な内容をもつ歌曲であり、表現方法もほかの浄瑠璃にみられるような極端な喜怒哀楽の表現ではない。これはとくに明治以降洗練を重ねてきた結果である。したがって、健全な家庭音楽としても、また素人(しろうと)の演奏曲としても抵抗なく受け入れられている。

[植田隆之助]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長唄」の意味・わかりやすい解説

長唄
ながうた

三味線を伴奏楽器とする歌曲の一種。歴史的名辞は江戸長唄。歌舞伎と歩みをともにし,当初はその演奏者の出生地にちなんで江戸長唄,大坂長唄などと記されていたが,劇場出演者が江戸出身者によって占められるようになって,享保 12 (1727) 年以降,単に長唄と呼ばれるようになった。初期の長唄は目の不自由な音楽家の伝承音楽の影響下にあって,上方風の三下りの優艶な曲が多く,『娘道成寺』『鷺娘』などの傑作がある。その後,一中節より転向した富士田吉治 (富士田吉次〈1世〉 ) によって,浄瑠璃の曲風を摂取した唄浄瑠璃の様式が創始され,また上方風を脱却した曲もつくられるようになった。2世杵屋六三郎,1世杵屋正次郎の活躍した明和,安永,天明期 (1764~89) には長唄独自の性格が確立され,化政期 (1804~30) 以後,別家9世杵屋六左衛門,別家 10世杵屋六左衛門,4世杵屋六三郎らによって『越後獅子』『賤機帯 (しずはたおび) 』『鶴亀』『勧進帳』などの名曲が作曲されて,江戸長唄の全盛期を迎えるとともに,六左衛門家は長唄宗家としての地位を不動のものとした。また文政9 (1826) 年,10世六左衛門が大薩摩の家元の権利を預ったことにより,その曲節を利用した曲もつくられるようになった。幕末から明治にかけては積極的にの三味線音楽化をはかり,2世杵屋勝三郎の『船弁慶』『安達原』あるいは3世杵屋勘五郎の『望月』などが作曲された。また,長唄そのものを芸術的歌曲として鑑賞しようという態度も養われ,それとともに舞台の制約を離れた演奏本位の長唄も誕生した。4世杵屋六三郎の『吾妻八景』,10世杵屋六左衛門の『秋の色種』はその代表。 1902年4世吉住小三郎,3世杵屋六四郎による研精会の結成も,長唄を一般家庭に普及させ,それ以後,各流派による演奏会も数多く開かれるようになった。長唄はその内容が多種多様ではあるが,便宜上これを大別すると次のようになる。 (1) 舞踊曲長唄 『越後獅子』『娘道成寺』『五郎』『鷺娘』など。 (2) 浄瑠璃風長唄 『安宅の松』『靫猿』『賤機帯』『綱館』など。 (3) 謡曲風長唄 『竹生島』『船弁慶』『望月』『鶴亀』など。 (4) 演奏本位長唄 『吾妻八景』『秋の色種』『四季山姥 (しきのやまんば) 』『紀文大尽』など。 (5) メリヤス 『黒髪』『明の鐘』『五大力』『無間の鐘』など。

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百科事典マイペディア 「長唄」の意味・わかりやすい解説

長唄【ながうた】

日本音楽の一種目。三味線を伴奏に用いる歌い物で,謡曲,浄瑠璃などの要素を取り入れた幅広い音楽性をもっている。18世紀の初めごろ,江戸の歌舞伎舞踊の伴奏音楽として起こり,その後も歌舞伎と密接な関係をもって発展。19世紀初めごろに,歌舞伎を離れた,いわゆる〈お座敷長唄〉が生まれ,さらに明治期に入って,演奏会用の長唄もでき,その演奏団体も成立した。三味線は細棹(ほそざお)を用い,華麗な撥(ばち)さばきを特徴とする。《京鹿子娘道成寺》《越後獅子》《吾妻八景》など一般の人にも知られた曲が多い。長歌と区別して江戸長唄といった。
→関連項目荻江節勝新太郎五行本俗曲独吟

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長唄」の解説

長唄
ながうた

江戸長唄とも。三味線音楽の種目名。歌舞伎音楽の代表的種目で,18世紀以降江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発達したが,のちには劇場を離れて演奏のみ鑑賞されるようにもなり,そのための長唄(お座敷長唄。「吾妻八景」「秋色種(あきのいろくさ)」など)もうまれた。また歌舞伎芝居の演出上の効果音楽である抒情的な小曲(めりやす物。「黒髪」「五大力」など)もある。他種目の曲節や手法をもとりいれ,多様な曲調をもつが,一般に派手で,賑やか,拍子本位といえる。演奏形式は雛段の上段に唄方(うたかた)と三味線方が,下段に囃子(はやし)方が並ぶのが一般的である。舞踊はなく唄と三味線だけの演奏(素唄(すうた))もある。三味線は細棹を用いる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「長唄」の解説

長唄
ながうた

江戸中期,劇場音楽として栄えた音曲
貞享・元禄期(1684〜1704),上方で発達。宝永(1704〜11)ころ歌舞伎と結んで江戸に下り,文化文政期(1804〜30)ころ最盛となった。笛・鼓・大鼓の囃子 (はやし) ,寛濶陽気な曲風,明快な詞章が特色で,代表作に「勧進帳」「越後獅子」「吾妻八景」などがある。のち歌舞伎から離れたお座敷長唄が現れ普及した。

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日本文化いろは事典 「長唄」の解説

長唄

歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した三味線音楽で、「江戸長唄」とも言います。長編の歌曲として、現代でも歌舞伎音楽の伴奏として演奏されています。

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世界大百科事典(旧版)内の長唄の言及

【地歌】より

…三味線音楽の一種。かつては盲人音楽家を伝承・教習の専業者とし,箏曲とも関連しつつ,おもに京都,大坂を中心に発展してきたもので,室内音楽として最も普及した芸術音楽。上方の舞の地(伴奏)に用いられる楽曲もある。古くは盲人の扱った三味線音楽を総称して〈弦(絃)曲〉ともいい,語り物の〈浄瑠璃〉に対して,単に〈歌(うた)〉とも〈歌曲〉ともいったが,江戸ではこれを〈上方歌(唄)〉ともいい,また,専業者の関係から〈法師歌〉ということもあった。…

【日本音楽】より

…歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。また歌舞伎とともに発達した歌が,長唄である。長唄は,江戸時代後期には大薩摩節(おおざつまぶし)という浄瑠璃を併合したり,お座敷長唄という歌舞伎から離れた演奏会長唄ともいうべきものを生じたりして,芸域を拡張した。…

※「長唄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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