松尾城跡(読み)まつおじようあと

日本歴史地名大系 「松尾城跡」の解説

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]延岡市松山町

五ヶ瀬川の北岸、高平こびら山の南麓に立地した中世の山城。あがた庄域にあったので県(吾田・阿県)城・県松尾城ともいわれ、土持氏の居城であったので土持つちもち城・土持要害とも記される。土持氏は本姓田部氏で、豊前宇佐宮の祠官として封戸郷司を歴任。平安時代後期には臼杵郡の封郡司などを勤めていた。天永元年(一一一〇)一一月日に封郡司田部宿禰が臼杵郡の鎮守であった今山いまやま八幡宮の御神事并祭会料米下行引付を注進しており、同宮では嘉保元年(一〇九四)に田部光海が官庁(宮司)職につき、以降七代宣綱・八代妙綱(栄妙)と継承してきたという(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)。田部姓系図(田部家蔵)では諸県太輔の宗綱の息に妙綱・栄妙の兄弟がみえ、栄妙を土持冠者、のち宣綱と改名、法名宣西、貞応二年(一二二三)飫肥おび三俣みまた(現三股町)、臼杵、財部たからべ(現高鍋町)の地名を冠したと注記する。日下部姓郡司系図(郡司家蔵)によれば、日下部盛平は在国司職と新納にいろ(現児湯郡)郡司職、都於郡とのこおり(現西都市)領主地頭職国富くどみ河南本かわみなみほん郷郡司職を相伝していたが、実子がなかったので田部栄妙を養子とし、文治三年(一一八七)二月一〇日、在国司職と右松みぎまつ(現西都市)を栄妙に譲与した(「日下部盛平譲状写」日下部姓郡司系図)国富庄那賀なか(現佐土原町)郡司職などは盛平舎兄の盛俊、同息の右盛(那賀氏)に伝領された。しかしこれら諸職は右盛息の光盛には伝領されず、土持栄妙の側に移ったとみられる。光盛は挽回を目指し土持真綱と在国司職を相論したが敗れ、以降日下部氏の本宗の地位と付随する所職のほとんどは土持氏が領有するようになった。

建久図田帳では土持太郎宣綱が弁済使職や地頭職をもつ所領として臼杵郡のうち岡富おかとみ庄八〇町、塩見しおみ庄三五町・富高とみたか(現日向市)三〇町、高知尾たかちお(現高千穂町)八町、三宅みやけ郷二〇町・三納みのう郷四〇町・間世田ませた(現西都市)八町、右松保二五町、児湯こゆ郡のうち国分こくぶん寺田二〇町・法元ほうが(現西都市)二〇町、尼寺田一〇町・安寧あんねい寺田一〇町、佐土原さどわら(現佐土原町)一五町、倍木へき(日置)三〇町・新田にゆうた八〇町・下富田しもとんだ(現新富町)三〇町、穂北ほきた郷七〇町・鹿野田かのだ(現西都市)五〇町、都於院(都於郡)一五〇町、那珂郡のうち新名爪にいなづめ別符八〇町・国富本郷(現宮崎市)二四〇町、今泉いまいずみ(現清武町)三〇町、那珂二〇〇町、田島たじま破四〇町・ふくろ(現佐土原町)一五町がみえる。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]指宿市西方

みやはまの北西、錦江きんこう湾沿いの標高三五メートルを最高地点とするシラス台地の先端を主とする山城。揖宿いぶすき城ともいう。最初の城主は薩摩平氏系頴娃忠永の次男忠光といわれ(薩隅日三州他家古城主来由記)、忠永は揖宿郡司・御家人(建久八年一二月二四日「島津忠久内裏大番役支配注文」旧記雑録)、指宿氏の祖となる。しかし実際には一三世紀後半に平氏系指宿氏が館を構えたのが当城の前身と思われる。その子孫の指宿忠篤(成栄)は、元弘三年(一三三三)から建武三年(一三三六)まで守護島津貞久に属した(元弘三年七月一三日「指宿成栄着到状」・建武三年三月五日「足利尊氏軍勢催促状」・同年四月二五日「指宿成栄着到状」指宿文書)。延元二年(一三三七)三月に三条泰季が薩摩に上陸すると南朝方となって貞久方と合戦し(同三年二月五日「指宿成栄軍忠状」同文書)、同二年九月三〇日には市来いちき(現東市来町)の市来時家を救援した(同年一〇月日「指宿成栄代宗栄軍忠状」同文書)。当城の主体部はこの頃に築かれたとみられる。康永元年(一三四二)五月征西将軍懐良親王が薩摩津(山川津、現山川町)に上陸し谷山たにやま(現鹿児島市)に入ると(五月八日「氏名未詳令旨副状写」阿蘇文書)、指宿氏もそれに応じ(年未詳六月吉日「御感綸旨所望輩注文案」旧記雑録)、その後も南朝方であった(建徳元年一一月二一日「征西将軍宮令旨」同書)

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]吉田町東佐多浦

おもい川の中流域右岸、城内しろうち集落南側の山にある。北側を思川、東側を思川の支流本名ほんみよう川が流れる。山は南西から北東になだらかな傾斜になっていて、その北東端の麓に集落がある。南西側は山続きだが、野首のくびに二本の深い竪堀があって城域と城外とを切断している。吉田城ともよばれる。応永(一三九四―一四二八)末頃に吉田清正が築城したとされるが、その際にまず整備されたのは本丸と向丸とむかいの城と記されている曲輪であったとみられる。文明一七年(一四八五)吉田孝清が島津忠昌に従わず、吉田勢と鹿児島の島津勢が当城付近で合戦した(文明記)。永正一四年(一五一七)二月には吉田位清が島津忠隆に反抗し、忠隆自身が当城攻めに出陣した後、城の鍵を忠隆に渡して降伏している(「島津忠隆譜」同書)。この時期、当城は急速に整備され、同年以降は島津氏が領有した。この頃野村のむら城・なかノ城・尾之おの城・田代たしろ城の各曲輪が整備されたとみられる。

天文一八年(一五四九)島津氏の当主となる直前の貴久が、蒲生氏への押えとして当城を重視して新納忠元らの有力な家臣を入れ、当城の北側で蒲生勢と合戦があった(「新納忠元譜」旧記雑録)

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]栗野町木場

木場こばの北部、川内せんだい川上流の左岸に位置する。標高二五三メートルを最高地点とする東から西に延びるシラス台地の先端を主にする山城で、栗野城ともいう。鎌倉初期の栗野院の地頭は中原親能(大隅国建久図田帳)、郡司は御家人守綱であった(建久九年三月一二日「大隅国御家人注進状写」隼人桑幡家文書)。伊地知季通の栗野踊溝辺横川廻勤雑記(地誌備考)ではこの頃に守綱によって当城が築かれたとするがはっきりしない。観応の擾乱で島津氏と日向の畠山直顕が抗争した際、栗野郡司は島津方に属し、北里城(現北方にあったか)を居城に直顕方と合戦を続けており(文和二年一〇月二六日「大隅国将軍方交名注文」旧記雑録など)、この頃に直顕方が北里城に対する陣城として築いたと考えられる。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]飯田市松尾

島田しまだ村の西端、河岸段丘の突端を利用して築城された平山城。信濃国守護小笠原政康の子光康を祖とする松尾小笠原氏の居城。松尾館ともいわれる。毛賀沢けがさわ川と北の沢きたのさわとに挟まれた断崖上にある。東方に松尾・毛賀の平坦部を見下ろし、天竜川を隔てて伊那山脈に対し、東南の方角に知久氏の居城神之峰かんのみね(現飯田市柏原)を遠望する。西方は緩やかな傾斜をなして名古熊なごくま台地(現下伊那郡かなえ町)に続き、南は毛賀沢川の深い渓谷を挟んで、同族鈴岡すずおか小笠原氏の居城鈴岡城(現飯田市駄科だしな)が指呼の間にある。

本郭は台地の先端部にあり、東西約五五メートル、南北約六八メートルの平地で、その北西に空堀を隔てて二の郭がある。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]川辺町野崎

万之瀬まのせ川と北東から流れ込む野崎川との合流点の標高一〇〇メートルを最高地点とするシラス台地先端に築かれた山城。野崎のさき城・たか城ともいう。貞和二年(一三四六)六月一日の島津貞久書下(比志島文書)によると、反島津勢力が「河辺郡高城」に打集まり、守護貞久の陣へ寄せてきそうだとの風聞があり、別府政貞が先年まで召使っていた下女犬袈裟が城より逃れてきて告げた内容から、貞久は直ちに当方の陣へ駆けつけるようにと満家みついえ(現鹿児島市)の領主に伝えている。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]美土里町横田

東流する本村ほむら川によって開けた横田よこた盆地の北側、きたに通ずる峠の入口にある。丘陵の背後を空堀で区切り、頂部に六段の郭を直線状に並べて築城されており、南北両側には部分的に土塁も残る。石見阿須那あすな(現島根県邑智郡羽須美村)藤掛ふじかけ城主高橋氏の出城として重きをなしていた。

高橋氏は紀氏の流れをくみ、南北朝の兵乱では備中松山まつやま(跡地は現岡山県高梁市)にあって足利尊氏を助け、師光の時阿須那三千貫を得て藤掛城に移った。その後藤掛城を中心に安芸・備後地方にも進出、師光より七代の弘景(大九郎久光ともいう)は、毛利興元にその女が嫁いで外戚となったが、興元の没後は幼少の幸松丸を補佐するため松尾城に移り住んだ。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]小松町安井

通称安井やすい谷を約五キロさかのぼった山上(八〇〇メートル)にある城跡。

明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「村ノ南方拾町山字松尾ニアリ、本城東西一町、南北一町四拾間 上城東西七間、南北七間(中略)松本氏之ニ居ル」とある。「伊予二名集」には「松尾城越智式部 黒川氏兼帯 或は城が森とも云ふ」とあり、「予陽郡郷俚諺集」には松本豊後守がいたとも記す。「小松邑誌」には「松尾砦安井享禄中黒河肥前守元春攻之砦主松本豊後守敗走シテ来見村ニテ自害墓アリ大松殿ト云其後黒河左近進通重美濃守伯父山城守之息男之」とある。さらに異伝には松本豊後守頼全は敗死せず、この時は雌雄が決せず双方兵を引き、天正五年(一五七七)長宗我部元親に攻められて六本松ろつぽんまつ付近で敗死したとされる。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]伊予三島市中曾根

中曾根なかぞねの南の山間、城ノ山にあった中世の城。「大西軍記」に「後は大山峩々として山の流れを切開尾上に櫓をかけ東西は谷深ふして大手計りの責口」と要害ぶりを記し、明治初年の「伊予国宇摩郡地誌」には「城墟東西二拾五間南北五拾間回字形ヲナス村ノ南方拾五町三拾間山字城ノ山ニアリ」と記されている。城主については「伊予古城砦記」に「真鍋大炊介通近、同左衛門佐守る」とあり、「小松邑誌」には松尾砦には前記のほか「後今村筑後守義親居」としている。

天正五年(一五七七)轟城主大西備中守元武が志摩守らに松尾城を攻めさせたが失敗し、宇摩うま郡は長宗我部氏の支配下に入った。

松尾城跡
まつおじようあと

[現在地名]栃尾市松尾

北魚沼郡から栃尾谷への主要道であったいし峠越の道を見下ろす尾根上にある。道からの比高は約二〇メートル。全長七〇メートルほどの小規模な城。東側を切崖とした高・低二段の主郭を半円状に空堀をめぐらせ、大堀を挟んで配置された二つの曲輪は、複郭守備の巧妙な縄張りといえるが、規模からは見張台程度の砦とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報