臼杵郡(読み)うすきぐん

日本歴史地名大系 「臼杵郡」の解説

臼杵郡
うすきぐん

日向国北部に位置し、北は豊後国、西は肥後国、南は児湯こゆ郡に接する。「色葉字類抄」には臼木と表記され、「和名抄」名博本や建久図田帳にはウスキと訓が付される。その名義に関して「日向旧跡見聞録」は、昔ここに神が集まって初めに土を掘って臼とし木の枝を杵としたので臼杵といったという古老伝を載せる。「太宰管内志」は不詳としながらもこの古老伝を紹介している。

〔古代〕

郡域内ではとくに五ヶ瀬川下流の現延岡市域に前方後円墳が集中しており、この地域が臼杵郡の中心であったと考えられる。臼杵郡の郡名は六国史には登場しないが、「続日本後紀」承和一〇年(八四三)九月一九日条、「三代実録」天安二年(八五八)一〇月二二日条にみえる高智保皇神・高智保神は所在郡名が記されていないものの、臼杵郡智保ちほ郷に所在したことは確実である。「和名抄」によると、当郡は氷上ひかみ・智保・英多あがた刈田かりたの四郷からなる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば、当郡には長井ながい川辺かわべ・刈田・美弥みやの四駅が置かれ、駅馬・伝馬が五疋ずつ用意されていた。平安時代中期になると、豊前宇佐宮領の庄園が次々と成立していく。宇佐大鏡によると、永承年中(一〇四六―五三)国司海為隆は封民一五人の代替として荒野を宇佐宮に寄進して富田とんだ庄が立券された。永承元年国司海高時は臼杵郡惣鎮守今山いまやま八幡宮(現延岡市)に仏性田を寄進している(「今山八幡宮旧記」今山八幡宮文書)。治暦二年(一〇六六)には国司菅原義資が封民二〇人の代替として臼杵郡北郷内の荒野を宇佐宮に寄進して臼杵庄が立券された。このことからこの時までに北郷が成立していたことがわかり、同時期に成立したと思われる南郷はのちに島津庄寄郡に編成された。その後臼杵庄の荒野を開発し、岡富おかとみ別符が立てられた。寛治二年(一〇八八)国司中原明俊は封民一六人の代替として公田一六丁を宇佐宮に寄進して長井院浮免一六丁が立券された(宇佐大鏡)

今山八幡宮旧記には天永元年(一一一〇)一一月に封郡司散位田部宿禰によって作成された今山八幡宮御神事并祭会料米下行引付が収められている。封郡司田部宿禰は田部姓系図(田部家文書)や田部姓土持氏系図(土持文書)にみえる臼杵郡司に任命された信村かその子息則綱ではないかともみられる。日向最大の在地系の地頭となる土持氏の祖先である田部氏は、本来豊前国宇佐郡封戸ふべ郷の郷司を勤める宇佐宮の神官で、臼杵郡の宇佐宮の御封を管理する郡司であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報