栗野院(読み)くりのいん

日本歴史地名大系 「栗野院」の解説

栗野院
くりのいん

古代の桑原くわはら郡域に成立したと考えられる中世の院。ほぼ現在の栗野町域にあたる。院内には大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)の四つの正若宮の一、正若宮八幡(栗野若宮とも、現勝栗神社)松尾まつお(栗野城)があった。大隅国建久図田帳に「栗野院六四丁」とみえ、正八幡宮領、本家は山城石清水いわしみず八幡宮地頭は中原親能で、六四町は御供田四町と公田六〇町からなっていた。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では建久(一一九〇―九九)段階より一〇町増加して田積は七四町(うち定田七一町)、四〇町の南里(預所卿法眼)と三四町の北里(弁済使阿波房成幸・名主丹後房)に二分され、南里は米永よねなが(一六町七反半、郡司貞高)恒次つねつぐ重武しげたけ恒山つねやま(一二町一反三〇〇歩、御家人大新太夫入道西善)在次ありつぐ(九町六反大、名主長三郎太夫助直)からなっていた。南里と北里は院内を西に流れる川内せんだい川で南北に分けたものと考えられる。また米永・恒次は現在の米永・恒次、在次は木場こばの字有次ありつぐが遺称地とみられ、重武は米永山崎やまさき地区の通称として残る。なお中原親能の地頭職は正治元年(一一九九)以前に停止されているが(「吾妻鏡」元久元年一〇月一七日条)、本家職は石清水八幡宮の善法寺坊領として相伝された。承久二年(一二二〇)一二月一〇日、善法寺家祖成清の子祐清は正八幡宮領「栗野南北両村」ほかを弟子宝清に譲っている(「祐清譲状」石清水文書)。宝清の後、宮清(仁治三年九月二五日「家田宝清処分状」同文書)、尚清(文永一一年七月日「宮清処分帳」同文書)を経て通清に譲られたが(永仁五年六月日「尚清処分帳」同文書)、尚清はこれを悔返して康清に譲り直している(応長元年一二月一五日「尚清処分状写」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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