国富庄(読み)くどみのしよう

日本歴史地名大系 「国富庄」の解説

国富庄
くどみのしよう

宮崎平野一帯にあった庄園。庄域は現在の宮崎市、宮崎郡佐土原さどわら町・清武きよたけ町・田野たの町、西都市、児湯こゆ新富しんとみ町にまたがっていたと考えられる。

〔平安末期から鎌倉期〕

安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「日向国富」とみえ、当時すでに鳥羽天皇の第三皇女八条院子の所領だった。寿永三年(一一八四)四月六日、八条院領であった国富庄が池大納言平頼盛に安堵されている(「源頼朝下文案」久我文書)。建久図田帳によれば、八条女院領国富庄は田数一千五〇二町で、一円庄一千三八二町と寄郡一二〇町からなり、当時の庄域は宮崎郡・那珂郡児湯郡にわたっている。一円庄としては宮崎郡内に加江田かえだ八〇町・大田おおた一〇〇町・国富本郷くどみほんごう二四〇町・左右恒久そうつねひさ一〇〇町・隈野くまの八〇町・吉田(田吉の誤記)三〇町・鏡淵(鏡洲)六〇町・源藤げんどう(以上現宮崎市)六町、加納かのう二〇〇町・今泉いまいずみ(ともに現清武町)三〇町、那珂郡内に那珂二〇〇町・田島破たじまは四〇町・ふくろ(以上現佐土原町)一五町、児湯郡内に佐土原(現同上)一五町、倍木へき三〇町・新田にゆうた八〇町・下富田しもとんだ(以上現新富町)一三〇町があり、寄郡としては児湯郡内に穂北ほきた郷七〇町・鹿野田かのだ(ともに現西都市)五〇町がある。当時の国富庄における地頭は一円庄の宮崎郡内の所々はおおむね平五で、その他はすべて土持宣綱である。

嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には、国富庄は歓喜光かんきこう(現京都市左京区)領となっており、得分関係は領家として摂政一条家経の子で近江国園城おんじよう寺の長吏となった常住院准后道昭がおり(「寺門伝記補録」など)、預所として春宮亮などを歴任した高階泰継が相伝知行していた(尊卑分脈)。那珂郷(那賀郷)については、正和三年(一三一四)九月一二日に極楽寺備後律師慶覚の譲状に任せて那賀郷五分の一知行分の庄官職と「恵平薗」が日下部万却丸に給与された(「某袖判下文」郡司文書)。正慶元年(一三三二)一〇月二日には国富庄那賀郷の公文職および屋敷・名田畠・給分などが那賀(日下部)盛連に給与され(「沙弥某下文」同文書)、同年一二月一五日地頭代僧がこれらの所職を安堵し、那賀郷五分の一の地における百姓からの公事徴収と那賀氏の給分地以外からの年貢弁済を那賀盛連に命じている(「地頭代僧某安堵状」同文書)

国富庄
くにとみのしよう

現小浜市の次吉つぎよし熊野くまの羽賀はが奈胡なごおよび若狭湾に面する犬熊いぬくまに所在比定される太政官厨家領荘園。平安末期の永万元年(一一六五)に便補保として成立した。建久六年(一一九五)一二月四日付太政官符(吉川半七氏旧蔵文書)

<資料は省略されています>

とある。官使の立券状に任せ、吉原安富(左大史小槻隆職の仮名)の所領国富保・犬熊野荒浦への国郡使入勘等を停止し、公家長日修法供米などを弁済させるべく、若狭国司宛に命じたものである。ここにみえる国富保は遠敷おにゆう郡国富郷に所在し、四至は「東限山峯 南限次吉并神女崎 西限山峯 北限山」で、示は五本、「一本 打宮河山并多羅山与当保山三辻峯 一本西 打西津山与当保堺峯 一本 打神女崎 一本 打次吉崎 一本 打阿那尾山并同尻山与当保三辻峯」に打たれていた。田積は三四町一段余、このうち現作田が二五町三段余・田代八町八段余・荒田三町余であり、木前五里・同六里・積無里および熊野北作・東外に広がっていた。またこの太政官符に引かれた国富保解に

<資料は省略されています>

とみえて、国富保が本来吉原安富の相伝私領であり、永万元年に保を号して以後荒野を開発し、四ヵ所納物(公家長日修法供米・造八省院料米・円宗寺法花会用途・太政官厨家納物)を進済していたことがわかる。ただその後、国中の土民が保領に入作し、勝手に松林寺田や細工名田を称したりする。そこで国司に提訴したところ、一円ということで裁決の庁宣が下ったわけである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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