東陽寺(読み)とうようじ

日本歴史地名大系 「東陽寺」の解説

東陽寺
とうようじ

[現在地名]川西町上小松

原田はらだ館跡である置賜公園近くにある。亀松山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。天台門宗権大僧都三部都法印亀明が正元二年(一二六〇)三月朔日に当山奥に入定したことに始まる。文明年中(一四六九―八七)高玉たかだま(現西置賜郡白鷹町)瑞竜ずいりゆう院五世九皐宥鶴が再興を図り、現在地に伽藍を建立した。原田館主原田家の菩提寺であった。現在宮城県登米とめ東和とうわ米谷まいやにある東陽寺は、天正一九年(一五九一)原田家が伊達政宗とともに陸奥岩出山いわでやまに移って以後、当地の東陽寺を分けて移ったもの。

東陽寺
とうようじ

[現在地名]岩井市矢作 中矢作

中矢作なかやはぎ小字竜見前の御殿りゆうけんまえのごてん山という台地にある。南に利根川を望む。石段脇に寛文二年(一六六二)の五輪塔、青板碑数基、そして本堂・薬師堂・鐘楼などがある。曹洞宗万年山と号し、本尊釈迦如来。明和六年(一七六九)の寺社方調帳(富山家文書)によると本寺は現猿島さしま五霞ごか村の東昌とうしよう寺。境内は東西四八間・南北四九間。慶安二年(一六四九)八月に朱印地三石を与えられ、田五畝・畑六反五畝、薬師堂・客殿・庫裏・鐘堂・長屋があり、鎮守白山はくさん明神

明和四年の猿島郡矢作県万年山東陽寺薬師如来之縁起並山之因由によると、薬師堂には行基作といわれる薬師如来が祀られ、応永三〇年(一四二三)には破損がはなはだしく、猿島郡主平守明が宇都宮円阿弥に修理させている。

東陽寺
とうようじ

[現在地名]東和町米谷 越路

米谷まいやの町並東方の越路こしじにあり、亀松山と号し、曹洞宗、本尊は釈迦牟尼仏。寛文事件の主役の一人原田甲斐宗輔にゆかりの寺で甲斐の墓と伝えられるものがある。当寺は伊達家の重臣原田家の菩提所で、応仁―文明(一四六七―八七)の頃出羽国置賜おきたま小松こまつ(現山形県東置賜郡川西町)開山、のち原田氏の舟岡ふなおか(現柴田郡柴田町)移封に従った。寛文事件の結果原田家は断絶、舟岡には柴田氏が入り、代わって東陽寺は天和元年(一六八一)柴田氏旧領の米谷に移る。本堂裏手の池のほとりに高さ約一・八メートル、幅約九〇センチの自然石の名号碑があり、原田甲斐宗輔の墓と伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報