長屋(読み)ナガヤ

デジタル大辞泉 「長屋」の意味・読み・例文・類語

なが‐や【長屋/長家】

細長い形の家。棟を長く建てた家。
1棟を仕切って、数戸が住めるようにつくった細長い家。棟割り長屋。
遊女屋の一。最下級の遊女であるつぼね女郎のいる切見世。また、そこで商売する局女郎
[類語]アパートマンションコーポラスハイツレジデンス

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改訂新版 世界大百科事典 「長屋」の意味・わかりやすい解説

長屋 (ながや)

長家とも書く。棟の細長い平面の建物を区切って,複数の世帯で住み分ける住居形態。一つの敷地に建てられた建物に一世帯が住んでいる〈独立住宅〉に対して,複数の世帯が一つの建物に住む住居形態を〈集合住宅〉と呼ぶが,長屋は江戸時代以前におけるその一般的な形態である。

 日本では長屋は古くからさまざまな形で存在し,奈良時代の寺院の僧の住居であった僧坊も長屋形式である。奈良元興寺の僧坊が古材などから復原されており,その住房の1単位は間口7m弱,奥行13m弱のかなり大きなものである。隣室との境,内部の間仕切にも土壁を用い,開口部は板扉と連子窓で,閉鎖的な構成をとっている。この住房で5~8人の僧が共同生活をしていたと考えられる。このような例から,平城京跡で発掘された遺構にみられる細長い平面の建物の中にも,長屋形式の住宅が含まれている可能性がある。《信貴山縁起絵巻》(平安後期)にみる民家や《年中行事絵巻》(原本は平安末期)に描かれている平安京の庶民の住居は長屋形式である。その規模は1単位が間口2~3間,奥行3~4間とみられ,掘立柱板葺き屋根で,壁は土壁か網代(あじろ)を張った,全体としては粗末なものである。中世末の京都を描いた町田本《洛中洛外図》(16世紀前期)や上杉本《洛中洛外図》(16世紀中期)にも,通りに面した商人の店舗に長屋形式がみられ,古代末から中世にかけての都市庶民住居として,長屋はかなり一般的なものであったと考えられる。

 近世の城下町では,武士と町人以下の居住地区がはっきりと区分されていたが,武士の中でも上級家臣は城の近く,足軽などの下級武士は周辺部というように,身分により居住区が定められていた。下級の武士は長屋に住んでおり,現存する越後新発田(しばた)藩の足軽長屋は茅葺きの窓の少ない閉鎖的な建物で,1戸分は間口3間,奥行3間で,6畳2部屋に板の間という部屋構成をとり,ここに一家族が住んでいたと考えられる。このような長屋が少なくとも数棟並び,下級の武士たちがその身分編成組織である〈組〉単位で,まとまって住んでいるのが一般的な形態であった。なお,下級武士の住居がまとまって建っている場合,個々の建物が長屋であるなしにかかわらず,その全体をひとまとめにして長屋と呼ぶ場合もある。参勤交代制度により全国の大名の藩邸が江戸に置かれ,江戸での藩主の生活を支える中下級武士の長屋も藩邸の中にあった。この長屋も御姓衆長屋,御裏衆長屋,家老長屋,足軽長屋のように身分編成で分けられていたが,その建物は藩邸を守るように外周をとりまく形で配された。この長屋の一部に扉をつけて出入口にし,その脇に見張り番人(中間)部屋を置いたのが長屋門で,武家屋敷の格式を表すものであった。この長屋門は農村においては名主,庄屋など村役人を務める上層の農民だけに建てることが許されていた。現在各地に残る農家などの長屋門の多くは,じつはこの規制がなくなった明治以後に建てられたものであり,長屋門による家格の表現が大きな意味を持っていたことを物語る。

 町人の住居も,比較的上層町人の町家以外は長屋が多い。なかでも江戸,大坂など人口の密集した都市では,個々の町屋敷内の表通りに面していない裏側に建てられた〈裏長屋〉が数の上でも多かった。これは〈裏店(うらだな)〉とも呼ばれ,その住人大工,左官,桶職などの職人や棒手振(ぼてふり)と呼ばれる天秤棒をかついで魚や野菜を売り歩く小商人,さらに鳶(とび)や其日稼(そのひかせぎ)の者と呼ばれた日雇など,さまざまな都市下層庶民であった。江戸の場合,裏長屋の1戸分は間口9尺~2間,奥行2間~2間半程度で,内部は畳部分に板の間と台所を兼ねた土間がつく1部屋の零細なものであった。これが10~20戸集まって1棟になっていた。長屋の平面は部屋が一列に並ぶのが普通であるが,平面のまん中,長手方向に通る棟の下で分けて,2列の部屋にする〈棟割長屋(むねわりながや)〉も多かった。屋根は板葺きで材料も造りも悪かった。このような長屋が通路としての路地をはさんで数棟建ち並び,井戸,便所,掃溜は共用であったので,住環境は劣悪であった。こうした裏長屋の住環境は近代以後の都市庶民住居にも影響を与え,良好な都市集合住宅の発展を遅らせたと考えられる。(図参照)
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長屋」の意味・わかりやすい解説

長屋
ながや

一棟の建物を数戸の家にくぎった形式で、長家とも書く。中世の町家に多くみられるが、規格化されたのは戦国時代山城(やまじろ)の麓(ふもと)に建てられた根小屋に始まる。雑兵の休泊所で、一単位の間口九尺(約2.7メートル)、奥行二間(約3.6メートル)という最小の居住空間の連続である。また地方武士が都会へ出たとき、家臣の泊まる宿舎もこの形式で、長屋といい、江戸時代、諸藩の藩邸にもっとも多くみられる。すなわち、表門の左右から塀の内側にぐるりと建て、主屋(おもや)を取り巻くので四方長屋といった。往来に面する部分は二階建てとし、上下五室ほどあり、中級以上の武士が住む。他の側にあるのを中(なか)長屋といい、これは手狭で採光も悪く、士分以下の軽輩の住居であった。長屋住まいは、普通、共同で国者(くにもの)を雇い、炊事や風呂(ふろ)たきをさせた。藩の上屋敷にはかならずこうした長屋があり、中屋敷、下屋敷には、藩によっては設けないこともあった。

 江戸時代の町地では人口稠密(ちゅうみつ)化の結果、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達した。表通りのものを「表長屋」、裏通りや路地にあるものを「裏長屋」といった。しかし表通りには商店など独立家屋が多くあったので、通常、長屋といえば裏長屋のことで、裏店(うらだな)ともよんだ。表通りの木戸を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建つ。六軒長屋が多かった。一軒の規模は根小屋と同様で、九尺に二間、または九尺に二間半であった。多くは二階建てで、上下二室からなり、台所は共同井戸に近く、戸口(とぐち)の土間にあった。路地の中央に下水溝があり、どぶ板で覆われていた。井戸のほか便所も共同で、路地の突き当たりにあり、その付近に稲荷(いなり)の小祠(しょうし)もあった。路地を一筋節約し、建物を両側から使うようにしたのが「棟割長屋」である。長屋には商家はなく、職人や振り売りなど細民が多く住み、「大家(おおや)といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」といって、宰領の大家を中心とする連帯の強い極小コミュニティを形成していた。裏長屋の家賃は文政(ぶんせい)年間(1818~1830)で月400文、天保(てんぽう)年間(1830~1844)で600文だったが、それも一度に払えず、日掛けにする者が多かった。

 なお、城塁(じょうるい)の上に長く建てられた櫓(やぐら)を多門櫓または多門長屋といい、略して単に「長屋」ともいった。

 農家にあっては、主屋に対し付属家をすべて長屋とよぶ地方もある。屋敷の入口に、門を兼ねて建てるのが長屋門または門長屋、門屋である。門の左右には、厩(うまや)、作業場、納屋を設けるが、隠居屋や若衆(わかしゅ)部屋を付属させることもある。長屋門は格式あるものとして、大地主や地侍級の家にのみ許されたものであるが、禁制が緩和するにしたがい、経済的にゆとりをもつようになった農家は、競ってこれを建てて誇りとするようになった。また、主屋に対し直角に、両側ないし片側に付属家を設け、これを横屋(よこや)ないしは長屋とよんでいる地方もある。そこには作業場や鶏舎を置くこともあるが、客室を設けることもある。この部屋は隠居や若者の居室であることもあるが、その家でもっとも重要な客座敷として使用している地方もある。今日、都市の団地にみられる「テラスハウス」も、近代的な長屋とみることができる。

[竹内芳太郎]


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百科事典マイペディア 「長屋」の意味・わかりやすい解説

長屋【ながや】

一つ棟(むね)を細長く建てた家屋。壁で仕切って1区画に1戸ずつ数戸が住む。江戸時代,大名屋敷のまわり等に設け,家臣の住居にあてたりした。下層庶民の住居は表通りに面していない裏側に建てられた〈裏長屋〉が多く,台所を兼ねた土間と部屋一つというのが普通。棟に沿って縦方向に仕切り,表と裏を別々に使用した棟割長屋もあった。
→関連項目うだつ(卯建)世間胸算用タウン・ハウス

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長屋」の解説

長屋
ながや

1棟を壁で仕切って数世帯で住みわける長方形の家。棟の線と直角にいくつかの住戸に仕切ったものを棟割(むねわり)長屋という。中世・近世の下級武士の家や町屋に多くみられた。一般に塀・垣はなく間取りも画一的で,きわめて単純な造りである。建材も安価なものを用いた。井戸・便所などを共用し,住人の間に親密な空気をうんだ。下級武士の長屋は城の近くにあり,事あれば即座に用に応じた。のちには賃貸住宅としても使われた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長屋」の意味・わかりやすい解説

長屋
ながや

棟の長い家,または壁を境として共有し,入口が別々で一棟に多くの家が隣合って住んでいる建物。古くからあったが,特に戦国時代から江戸時代にかけて武家屋敷内の家臣の家に,さらに町屋に多くみられるようになった。町人の長屋には表通りで店借りしている表長屋と,通りから引込んだ裏長屋とがあり,裏長屋の構造は一棟が間口九間,奥行二間半で,これを六軒に仕切ったので,棟割長屋とか,九尺二間とかいった。

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家とインテリアの用語がわかる辞典 「長屋」の解説

ながや【長屋/長家】

1棟の細長い建物を壁で仕切って複数の住戸に分けた、比較的質素な集合住宅。それぞれの住戸に玄関が付く。古代から寺院で僧の住房として、また中世から近世、都市の武家屋敷で下級武士の住居として、また町屋では貸家として用いられた。

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世界大百科事典(旧版)内の長屋の言及

【裏店】より

…江戸時代に江戸・大坂などの大都市の町人居住地で,表通りに面していない路地裏に建てられた小商人・職人・日雇いなど下層庶民の借家住居のこと。多くは長屋建てであったので裏長屋とも呼ばれる。江戸町人地の場合,基本的な町割りは,京間で60間四方の街区のまん中に,会所地という20間四方の空地をとり,街路に面した奥行き20間の部分を間口5~6間の短冊形に割って屋敷地とするものである。…

【江戸】より

…幕府直属の御家人は推定で約6万人とされているが,これらはわずかな扶持と土地を拝領しているだけであるから生活を維持していくだけでもたいへんであった。そこで拝領地内に長屋を建てて町人に貸し,店賃を得て収入とするようになった者が多い。御小人組,御簞笥組,御納戸組,黒鍬組といった御家人たちも,それぞれの拝領地内に町方の下層民と混住するといった現象がみられたのである。…

【切見世】より

…近世後期の江戸吉原における最下級の女郎屋。各所の岡場所にもあったもので,間口4.5~6尺,奥行2.5~3間の店が5~8軒,長屋形式で続いていたため,局見世(つぼねみせ)(局店),長屋ともいった。1軒1妓を原則とし,抱主は数軒を管理営業した。…

【住居】より

…なかには妻側の壁を高くあげ,建物外側を高い土壁で囲むようにした家もあり,防火に対する関心もうかがわれる。屋根は板葺きで石を置いているが,長屋であっても隣家との間に茅の小屋根でつくった〈卯建(うだつ∥うだち)〉を置き,一戸ごとのくぎりを明確にしている。内部ははっきりしないが,片側が裏まで抜ける土間になり,それに沿って前後2室の床(ゆか)の間が並んでいるようである。…

【武家屋敷】より

…中奥は藩主の居間と執務の場,奥御殿は藩主の妻子などの生活の場である。国許の御殿と違うのは家囲いで,敷地の外周に長屋を建て,国許から詰めてくる家臣や奉公人の住宅に当てた。江戸初期までは表門に櫓門を構え,派手な彫物を飾るなど,華美を競ったが,幕府の倹約方針に従って江戸中期以後は,3間または5間の平棟門を構えるようになる。…

【町】より

町(ちょう)【仲村 研】
[近世の町]
 近世初頭の兵農分離によって武士層は城下に集められ,武家町がつくられた。領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。…

※「長屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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