矢作村(読み)やはぎむら

日本歴史地名大系 「矢作村」の解説

矢作村
やはぎむら

[現在地名]陸前高田市矢作町

気仙けせん郡の南西端に位置し、北は横田よこた村。東は気仙川を境に竹駒たけこま村、西は磐井いわい大原おおはら(現東磐井郡大東町)、南は本吉もとよし鹿折ししおり(現宮城県気仙沼市)。ほぼ東流する気仙川支流矢作川に沿った山村で、村域は現陸前高田市の三分の一近くを占める。東西に今泉いまいずみ街道が通る。村名は古くから矢を製作していた地であることにちなむとされ(安永風土記)、現在も島部しまぺ地区で端午の節句用の弓矢が作られている。永正元年(一五〇四)七月東山大原ひがしやまおおはら(現大東町)の大原刑部大輔信明と気仙高田たかたの浜田安房守基継は矢作郷で戦ったという(大原町誌)。天正一六年(一五八八)六月一〇日の葛西晴信知行宛行状(陸前高田矢作文書)によれば、外館とだての館主矢作修理は本領の矢作村を安堵されたとある。

寛永一九年(一六四二)の検地時には人頭五六(「土地検地帳写」上諏訪文書)正保郷帳では田一二貫七四文・畑四二貫二一〇文、ほかに同所新田一貫九二六文、水損、雑木山と注記される。宝永二年(一七〇五)人数改では総人数一千八九七、名子二三・水呑一四二、鉄砲数五〇。

矢作村
やはぎむら

[現在地名]岩井市矢作

利根川の流作場の北に所在。浅間あさま沼や菅生すがお沼のヤトなどに囲まれる。字中矢作の矢作貝塚からは縄文早期・前期の土器片が出土。村南端に矢作古墳群がある。地名は経津主命(香取大明神)の後裔矢作連が移住したことによって起こったものと考えられる。「和名抄」のさしま高根たかね郷に比定する説もあるが明確でない。「吾妻鏡」の文治元年(一一八五)八月二四日条に「下河辺庄司行平蒙帰参御免(中略)留置下総国之郎従矢作二郎、鈴置平五等、用意旅粮」とある下河辺しもこうべ庄司行平の部下矢作二郎は当地の土豪と考えられ、矢作は下河辺庄に含まれていたと思われる。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「やはきのかう 卅五貫文 ミねんく 七十(ママ) 斗物 十貫文 夫銭」とあり、また「矢作之とミ山与二郎」の人名がみえる。

矢作村
やはぎむら

[現在地名]弥彦村矢作、吉田よしだ町矢作・浜首はまくび町・神明しんめい

西にし川左岸の微高地にあり、北西は中山なかやま村、東は田中たなか新田。元暦元年(一一八四)一一月二三日付の後白河院庁下文写(国上寺文書)に弥彦神社領の一として「矢作之条」がみえる。文明二年(一四七〇)五月一八日の弥彦神社御頭注文写(大矢文書)では正月一五日の御頭を「矢作」と「船越」で勤めるとある。大永五年(一五二五)には「矢作分」二町五反分の公田段銭が守護上杉氏に納められている(同年九月一六日「大熊政秀段銭請取状写」同文書)

矢作村
やはぎむら

[現在地名]久留米市草野町矢作くさのまちやはぎ

夫婦木みようとぎ村の西に位置し、山辺やまべ往還が通る。耳納みのう山中に白山、まつ山・中尾なかお御立松山・坂本さかもと松山が描かれ、夫婦木分畠との境に矢作村内堤がある(上三郡絵図)。天文二〇年(一五五一)二月の高良山神領検地帳(太宰管内志)に「山本郡一ほこ田矢作之内喜多院薬師免壱町内教光坊」とある。本高は五三四石余(元禄国絵図)

矢作村
やはぎむら

[現在地名]中央区矢作町・青葉町あおばちよう亀岡町かめおかちよう亥鼻いのはな一丁目

千葉寺ちばでら村の北東にあり、北はみやこ川を村境とする。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に円城寺兵庫入道分として矢作とみえ、田七丁四反半余で分銭一貫文とされていた。元和元年(一六一五)旗本遠山領であったとされるが、寛永四年(一六二七)の知行宛行状に葛飾かつしか郡矢作村とあり、高二九一石余が遠山領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三四〇石余で佐倉藩領。幕末も同藩領。嘉永三年(一八五〇)の千葉筋成箇取付帳によれば年貢は反取法で、同元年から三ヵ年の定免とされ、米一〇八石余・永一貫四文・金一両一分・鐚九八七文余。

矢作村
やはぎむら

[現在地名]唐津市半田はだ

半田村の北にあり、藩政初期は半田村に属して矢作分とよんでいたが、宝暦六年(一七五六)矢作村となり、庄屋がおかれた。しかし、その後半田村庄屋が矢作村庄屋を兼務、明治初年半田村になる。かがみ山の南麓にあり、古代の官道筋にあたっているためか鬼五郎おにごろう塚・水の尻みずのしり古墳などの遺跡がある。

矢作村
やはぎむら

[現在地名]野々市町矢作一―四丁目

手取川扇状地扇央部に位置し、北は野々市村。矢矯とも記す。村の西端を富樫とがし用水の分流木呂ころ川が北流する。中世に矢作りを業とする者が住んだため、あるいは近世破魔矢の特産地であったためなどの村名由来が伝わる(石川訪古遊記)。「三宮古記」に正和元年(一三一二)の白山本宮臨時祭礼に勤仕する御油神人として「矢矯藤源次権守」の名がみえる。

矢作村
やはぎむら

[現在地名]土浦市矢作

桜川南岸の砂洲状地にあり、飯田いいだ村の西に位置する。元徳元年(一三二九)一二月日の常陸国信太庄土佐前司跡京進年貢注文(東寺百合文書)に「式部大夫殿分 矢作郷」とあり、信太しだ庄の中にある。至徳二年(一三八五)一〇月二五日の足利氏満寺領寄進状(明月院文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、氏満が明月庵に寺領として寄進している。

天正一八年(一五九〇)に結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)二月七日に検地が行われた(「常陸国信太庄矢作村御縄打水帳」宮本庸郎氏蔵)

矢作村
やはぎむら

[現在地名]小田原市矢作

西端をきく川、東端を酒匂さかわ堰が流れ、東は中里なかざと村、南は酒匂村、西は鴨宮かものみや村、北は千代ちよ村に接する。富士道が西の小田原道、東の大山道に分れ、東端を酒匂道、南端を順礼道が通る。小田原衆所領役帳には南条寄子窪孫兵衛「拾六貫七百五十文 矢作」とある。「風土記稿」は村内の浄土宗春光しゆんこう院の傍らに矢師が居住していたことから村名が起こったとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報