東吉田村(読み)ひがしよしだむら

日本歴史地名大系 「東吉田村」の解説

東吉田村
ひがしよしだむら

[現在地名]八街市東吉田

柳沢やなぎさわ牧を挟み大関おおせき新田村南方に位置し、西は勢田せた村。慶長一九年(一六一四)東金御成街道作帳に吉田村とみえるように、もとは吉田村と称した。村名を変更した年代は不明であるが、元禄九年(一六九六)年貢割付状(佐倉市保管文書)に吉田村とあり、同一三年頃の下総国各村級分には東吉田村とあるので、この間のことと思われる。もっともその後も吉田村の名は併用された。佐倉藩領を経て元禄一二年に旗本戸田領となり、幕末に至る。勢田・吉倉よしくらいさご・上砂の四村とともに戸田領印旛いんば五ヵ村とよばれた。前掲御成街道作帳では高二〇〇石、普請間数二町三〇間。万治三年(一六六〇)検地帳(東吉田区有文書)では高二四四石余、元禄四年の村明細帳(同文書)では高二九七石余で、以後変わらず。

東吉田村
ひがしよしだむら

[現在地名]勝央町東吉田

畑屋はたや村の東、たき川南岸の谷間に集落がある。正保郷帳には吉田村とみえ、田二五二石・畑六八石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一三四石余・開高二八石余、村位は中。慶長一九年(一六一四)津山藩主森氏の大坂冬の陣出陣に郷夫四人が出ている(美作一国鏡)。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数二八(うち下吉田九・南五など)

東吉田村
ひがしよしだむら

[現在地名]嬉野町大字吉田よしだ字東吉田

唐泉とうせん山の南西、吉田川の東山麓にある。正保絵図に村名がみえる。万延元年(一八六〇)改の郷村帳には、東吉田村の中に「宇留土村、下ケ棚村、中村」を含んで書いている。また「藤津郡村誌」には「東吉田名ハ二十三字ヲ以テ本称トス、東ハ殿ノ木庭名、西ハ皿屋名、南ハ両岩名、北ハ下野名ニ界ス、東西凡十三丁二十間、南北十三丁許」とあるが、天保郷帳にいう東吉田村がこの範囲であったのか、はっきりしない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報