藤津郡(読み)ふじつぐん

日本歴史地名大系 「藤津郡」の解説

藤津郡
ふじつぐん

面積:二〇〇・八一平方キロ
塩田町しおたちよう嬉野町うれしのまち太良町たらちよう

佐賀県の西南隅に位置し長崎県に隣接する。鹿島市により北(塩田町・嬉野町)と南(太良町)に分断され、東は有明海に面する。多良たら(九八三メートル)きようヶ岳(一〇七六メートル)の裾野が東・北・北西に延び、その放射状の山稜が面積の大半を占める。生活の舞台は、山稜の間に展開する浸食谷と、多良岳の北部に発達した沖積平野および多良山系と虚空蔵こくぞう山系とによって形成された嬉野盆地などが主流を占める。多良山系に属するおもな山には多良岳・経ヶ岳のほか、唐泉とうせん(四一〇メートル)浄土じようど(五〇一メートル)などがある。多良山系に源を発するおもな小河川の吉田よしだ川・鹿島川・中川・はま川・伊福いふく川・多良川・糸岐いとき川・田古里たごり川や、多良山系と虚空蔵山系の水を集めて東流する塩田川などはすべて有明海に注ぎ、その河口は小漁港を形成する。塩田川の下流には水田地帯が開け、江戸時代初期頃より干拓も行われた。

肥前風土記」に「藤津郡 郷肆所里九 駅壱所 烽壱所」とあり、日本武尊が「此津」に至り「大藤」に船をつないだという地名説話を伝える。また「筑後国風土記」逸文に「蔽肥前国藤津郡多良峰」、平城宮出土木簡に「藤津郡」、「三代実録」貞観八年(八六六)七月一五日条に「藤津郡領葛津貞津」とあり、「和名抄」に「布知豆」と訓じている。この「藤津郡」は現在の藤津郡と鹿島市を併せた地域と比定される。

〔原始〕

縄文時代の遺物散布地としては、現太良町大浦の山茶花おおうらのさざんか牛尾呂うしおろ塩田町大草野おおくさの小学校近傍、嬉野町的場まとば陣野じんの大野原おおのばる遺跡、塩田町大字久間の志田原くまのしだばる南志田みなみしだがあげられるが、石鏃・石斧などの石器の出土が主体をなし、遺跡の性格は明らかでない。

弥生時代の遺跡として、太良町大字大浦字野崎のざき(大浦中学校近傍)・同大字多良の矢答やごたえ遺跡および同栄町の峰さかえまちのみね遺跡、塩田町の南下久間みなみしもくま遺跡などがあげられ、野崎からは夜臼ゆす式土器片・遠賀川おんががわ式土器が出土し、有明海岸近くにも人人が居住していたことが知られる。

〔古代〕

古墳は太良町大字大浦字田古里・道越みちごし平浜ひらはま広江ひろえおよび同町の伊福、塩田町大字馬場下ばばしたおよび同町の下久間に集中し、「肥前風土記」にある「託羅たら郷」と「和名抄」にある「塩田郷」の存在を裏付ける。

「国造本紀」に「葛津立国造、志賀高穴穂朝御代紀直同祖大名弟彦命児若彦命定賜国造」とある。「葛津立」の「葛津」は藤津のことで、立は「たち」と読んで旧高来たかき(現長崎県)のことであろうと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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