佐倉城下(読み)さくらじようか

日本歴史地名大系 「佐倉城下」の解説

佐倉城下
さくらじようか

鹿島かしま川右岸の台地上に位置する譜代大名城下町。佐倉城の東に広がり、城外の侍屋敷地と成田道(佐倉道)に沿う商工人町に大別される。成田道(佐倉道)のほか、千葉町と結ぶ千葉佐倉道、印西いんざい方面と結ぶ道が通る交通の要衝で、戦国期には鹿島城が築かれていた。

〔城下の形成〕

慶長一五年(一六一〇)に入部した土井利勝は翌一六年から元和三年(一六一七)にかけて佐倉城を築き、その際城下も造成したものと考えられる。以後藩主は度々変わったが、城下の基本的構図は大きな変化をみずに幕末に至ったとされる。城下町は佐倉城の東に続く台地上に形成されたが、町屋(商工人町)の中心は大手門先のふだつじから東に延びる尾根上に西からよこ町・しん町・さかな町・間之あいの町と続く町並で、この成田道に沿う四町を総称してたんに新町と称したほか、佐倉新町・城下新町とよんだ。武家屋敷は城内以外に大手門東側の宮小路みやこうじを中心とする地域および佐倉新町の南北両裏側などにあった。町奉行の支配地は佐倉新町のみであったと考えられ、ほかに当城下の町・弥勒みろく町・もと町と城下の東に位置する本佐倉もとさくら町・酒々井しゆすい(現酒々井町)を含め佐倉六町と総称された。田町は城北側の五ノ堀・四ノ堀の堀端を通って台地に至る成田道に沿い、海隣寺門前かいりんじもんぜんを経て佐倉新町に至り、弥勒町・本町は佐倉新町の東に続いた。なお田町・新町・弥勒町・本町は郷帳類に高付されており、純然たる商工人町は旧高旧領取調帳で幕府領とされる新町(佐倉新町)のみで、ほかの三町は住民が田地も所持する半農の町であったとみられる。

大久保忠朝時代(延宝六年―貞享三年)の佐倉絵図(小田原市立図書館蔵)によれば城下の侍屋敷数二〇八・町人数三千六五一。寛延三年(一七五〇)当時の町中人別は二千九六八人(うち禅門三人・山伏二人・医師一一人など)で、ほかに寺社人別三六人・御朱印地人別一二五人であった(佐倉藩年寄部屋日記)。堀田氏時代の安政年間(一八五四―六〇)の佐倉家中調(佐倉市保管文書)では家数一千二三八のうち堀田家家臣九二一(内訳は給人以上一八八・御通掛以上一六九・御通掛以下一七九・組ノ者三八五)・町家三一七、人数六千四〇〇ほどであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の佐倉城下の言及

【佐倉[市]】より

…1983年佐倉城跡に国立歴史民俗博物館が開設された。【菊地 利夫】
[佐倉城下]
 鎌倉以来の名族千葉氏は,文明年間(1469‐87)に本拠を佐倉に移し,城下町を整備したといわれる。ここは現在本佐倉城と呼ばれる地(大部分は酒々井(しすい)町内)で,千葉介孝胤以後,滅亡まで8代がここを本城とした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」