極楽寺(読み)ごくらくじ

精選版 日本国語大辞典 「極楽寺」の意味・読み・例文・類語

ごくらく‐じ【極楽寺】

神奈川県鎌倉市極楽寺町にある真言律宗の寺。山号は霊鷲山(りょうじゅさん)。奈良西大寺の末寺。正元元年(一二五九)北条重時が忍性(にんしょう)を開山に創建。鎌倉幕府の祈願所で、関東屈指の大寺院となった。近世以降火災などで衰退したが、本尊釈迦如来をはじめ多数の文化財がある。

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デジタル大辞泉 「極楽寺」の意味・読み・例文・類語

ごくらく‐じ【極楽寺】

神奈川県鎌倉市極楽寺町にある真言律宗の寺。山号は霊鷲山。開創、正元元年(1259)、開基は北条重時、開山は忍性。江戸時代に荒廃したが、多数の古文書・寺宝を所蔵する。

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日本歴史地名大系 「極楽寺」の解説

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]鎌倉市極楽寺三丁目

極楽寺坂切通の西にある。霊鷲山感応院極楽寺と号し、真言律宗。本尊は釈迦如来。開山は良観房忍性、開基は北条重時。奥書に永禄四年(一五六一)の年紀をもつ極楽寺縁起によると、一三世紀中頃、僧正永が深沢ふかさわ里に丈六の阿弥陀如来像を安置して一寺創建を志したが事半ばに没し、北条重時が忍性とはかって移建再興に努めた。しかし重時も途中で世を去ったので、父の遺志をついだ長時・業時兄弟が地獄谷と称されていた現在の寺域に伽藍を整え、極楽寺を造営したのが正元元年(一二五九)であると伝える。「元亨釈書」もほぼ同内容を記すが、「極楽寺由緒沿革書」は永久年中(一一一三―一八)勝覚の創建と伝えるなど、建立当初のことは未詳。ただし「忍性菩薩行状略頌」によると忍性は文永四年(一二六七)八月入寺したといい、寺蔵の十大弟子立像(国指定重要文化財)銘にも「文永五年造立畢、願主忍性」とあり、伽藍は文永四年以後に重時の子長時・業時が造営し、父を開基に迎えたと考えられる。

「吾妻鏡」によると、弘長元年(一二六一)四月二一日、将軍宗尊親王が「奥州禅門(重時)極楽寺亭」に向かうため供奉人を遣わし、二四日に将軍が重時の「極楽寺新造山庄」に渡り、翌二五日には同亭で笠懸が行われた。同年一一月三日「極楽寺別業」で重時が没し、同三年一〇月二六日に重時の三回忌を極楽寺で執行。導師は宗観房。文永二年八月一三日、北条時宗が重時の追善供養のため五部大乗経を頓写開題している。

忍性は入寺後短期間で七堂伽藍と塔頭四九院を擁した寺容を整えたと伝え(前掲由緒沿革書)、当寺を拠点として律宗弘通に活躍した。そのため日蓮の激しい批判を受けもした。文永六年、寺内に熊野新宮を創建(忍性菩薩略行記)して寺観を整えたが、建治元年(一二七五)二月の大火で寺内はほとんど焼失した(本朝高僧伝など)。ただし、忍性は文殊菩薩の夢告で勧縁し、翌年には寺内がことごとく旧状に復興したという(前掲略行記)。同三年頃極楽寺月影つきかげやつに一時住んだ阿仏尼は「十六夜日記」に「やまでらのかたはらなれば、のどかにすごくて、なみのおと、松の風、たえず」と記した。正応二年(一二八九)三月に来鎌した二条の「とはずがたり」には、「極楽寺といふ寺へ参りてみれば、僧の振舞都に違はず、懐しく覚えてみつゝ」とある。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]長尾町東

ひがしの中央南寄りにある低い丘の上に位置する。紫雲山宝蔵ほうぞう院と号し、真言宗大覚寺派。本尊薬師如来。宝蔵院古暦記(松浦文書)によると、天長元年(八二四)空海が勅を奉じて創建、極楽寺代々因由記(寺蔵)は天平勝宝五年(七五三)行基が建立し、淳和天皇の時に空海が再興したとする。寺伝では天平年間(七二九―七四九)行基が石田いしだ(現寒川町)に建立して極楽寺と称したが、大同四年(八〇九)火災で焼失、天長元年鴨部かべ東山ひがしやま(現志度町)で再興したという。このとき従来の法相宗を真言宗に改め、勅して紫雲山宝蔵院の号を賜った(讃岐国名勝図会)。創建の地とされる寒川さんがわ石田東いしだひがしには極楽寺の地名が残っており、寺跡の発掘調査では白鳳期の瓦が出土し、四天王寺式伽藍配置の大寺であったと推定されている(寒川町の→極楽寺跡。天長元年清滝せいりゆう権現を勧請して鎮守とし、また鴨部東山の下張したばり(志太張)神社を境外鎮守とした(極楽寺代々因由記)

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]周東町大字用田 西午王ノ内

午王ごううちの南、二井寺にいでら山の中腹にあり、古くは一山の総称として二井寺・新寺にいでらとも称した。現在は大坊極楽寺とよばれ、真言宗御室派。本尊聖観音を安置する観音堂のほか、宝塔・虚空蔵堂・仁王門・阿弥陀堂などがある。

元禄八年(一六九五)の「寺社記」によれば「当山ハ聖武皇帝御宇天平年中、当国玖珂大領秦皆足朝臣草創也」とあり、寺伝も天平一六年(七四四)に秦皆足が霊夢により当山に登り、十一面観音を授かって一宇を建立したのに始まると伝える。同書によると代々の勅願所とされたといい、天文八年(一五三九)五月二三日付の後奈良天皇の綸旨(二井寺蔵文書)にも「防州玖珂郡新寺山之事、代々為勅願浄場」とある。寺蔵の鐘銘に文永九年(一二七二)一一月の年号があり「周防国玖珂庄新寺」と記される。

また「今昔物語集」巻一六(周防国判官代、依観音助存命語)に「今ハ昔、周防ノ国玖珂ノ郡ニ住ム人有ケリ、其ノ国ノ判官代也、(中略)其ノ郡ノ内ニ一ノ山寺有リ、三井ト云フ、観音ノ験ジ給フ寺也」という話を載せる。これは「法華験記」に基づいて構成された説話とされ、いずれも三井寺と記されるが、金沢文庫本「観音利益集」は同様の話を新寺として載せるから、三井寺は二井寺の誤記と思われる。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]智頭町大背

五月田ごがつでん集落の西部にあり、高野山真言宗。高貴山と号し、本尊は十一面観音。寺伝によると大化二年(六四六)法道の創建といい、現本堂南方の丘の上に法道の開基塚が残る。神亀二年(七二五)には行基が来住、本尊十一面観音と薬師如来を刻んで安置し、このとき一二の僧坊を建立して極楽寺と号したという。この一二坊とは東之ひがしの坊・東前とうぜん坊・松本まつもと坊・池前いけのまえ坊・池之いけの坊・浄泉じようせん坊・奥之おくの坊・如意によい坊・竹本たけのもと坊・西之にしの坊・小林こばやし坊・谷之たにの(谷野坊)で、うち東之坊が本坊にあたり、当寺は同坊を継承するという。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]岡崎市中町 北野東

りよう町北裏後方、北野きたのの丘陵南側中腹に位置する。大雲山(もと福応山)と号し、曹洞宗。もと竜海りゆうかい院末。本尊釈迦如来。天正三年(一五七五)創建。開山は新田につた白山社別当の慶安周賀。開基は土井氏一族で周賀の姪、徳川家康の乳母と伝える西福寺殿清海妙性大姉。

周賀は永禄九年(一五六六)創建の白山社別当として城内に居住していたが、老衰のため城外居住を願出て、家康が許可し姪の尽力で当寺が開創されたという。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]長岡市石内二丁目

かき川右岸にある。時宗、石内山と号し、本尊阿弥陀如来。永仁六年(一二九八)遊行二世真教が当地巡回の折、配流の身でこの地に寓居していた鷲尾大納言長郷が帰依し、里人に勧めて一宇を営み、石打山道場福聚院極楽寺と号し、真教直作の上品阿弥陀如来を本尊としたという。もと乙吉おとよしにあり、慶長四年(一五九九)当地へ移転したという説もあるが、疑わしい。その後長郷は勅免を得て帰洛し、執権北条家へ依頼して極楽寺を昇格し、若干の寺領を寄せた。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]名張市赤目町一ノ井

堂前どうのまえにあり、西鏡山大徳院と号し、真言宗豊山派。本尊は不動明王であるが、旧本尊は阿弥陀如来とも伝える(伊水温故)。正徳二年(一七一二)表装寄進の裏書のある涅槃画像、明琢筆という(三国地志)不動明王の印板(版木)を所蔵する。現在の本堂は明治二一年(一八八八)の造営、天井は名張藤堂邸の大広間のものを買受けた。

毎年三月の東大寺二月堂修二会のお水取行法に用いられる松明は、一之井いちのい村民の奉仕により(いま松明講、昔は松明組と称した)、当寺で調整、法要が行われ、三月一二日に調進されてきた。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]榛原町大字篠楽

篠楽ささがくの北部高台にある。融通念仏宗。本尊阿弥陀如来。「感身学正記」弘安六年(一二八三)三月条に「一日宇陀極楽寺住侶、以数郷殺生禁断状勧請、故進発着岩田郷、三輪郷内(中略)三日著極楽寺、自四日開講十重古迹、八日講畢、九日六百四十九人授菩薩戒」とある。元亨三年(一三二三)八月三日の僧専信・善真連署田地寄進状(東大寺文書)によると、僧訓海が添上そえかみ郡左京七条四坊一六坪内の田二段を極楽寺に寄進しており、この二段の水田は正平一六年(一三六一)四月日の極楽寺院主信覚等連署水田売券(同文書)には「宇陀郡篠野庄内極楽寺不断如法経料田也」とみえる。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]米沢市相生町

菩提山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。暦応元年(一三三八)越後国蒲原かんばら奥山おくやま中条なかじよう(現新潟県北蒲原郡中条町)の城主中条土佐守茂資が創建したという(旧米沢市史)。当地に移転した時期は不明だが、慶長九年(一六〇四)に没した桂岩院(上杉景勝後室、定勝母)林泉りんせん寺に葬られていたが、のち当寺に改葬された。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]鳴門市大麻町檜

ひのき地区南西方の山麓にある。日照山と号し、高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。四国霊場八十八ヵ所第二番札所。御詠歌は「極らくの弥陀の浄土へゆきたくば南無あみだ仏くちくせにせよ」。

創建の時期は不詳。寺伝では、空海巡錫のみぎり二一日間阿弥陀経を読誦し、結願の日に阿弥陀如来が現れたので、その姿を刻んで本尊として当寺に安置して立去ったという。室町時代末には三好氏により保護され、一〇貫文の寺領を与えられた(「阿州三好記大状前書」徴古雑抄)

極楽寺
ごくらくじ

高塚たかつか八咫烏やたがらす神社付近にあったが現存しない。史料には高塚寺・鷹塚たかつか寺・高塚極楽寺とみえる。京都市右京区高山こうざん寺蔵の「三昧耶吉祥」奥書に建長八年(一二五六)「於宇陀郡高塚寺書了」とあり、「声字実相義」の弘長元年(一二六一)の写本奥書にも「宇陀郡於極楽寺高塚書畢」とみえる。また金沢文庫蔵の聖教奥書に「書本云、文永八年辛未九月八日戍尅許、於大和国宇陀郡之内、高塚極楽寺」とあり、奈良西大寺大慈だいじ院旧蔵の「孔雀明王法」奥書(日本古写経現存目録)に文保元年(一三一七)「於和州宇陀郡高塚之寺、以師真海宝御本写了」などとみえ、鎌倉時代には教学の寺であったことがうかがえる。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]斑鳩町大字法隆寺小字極楽寺

光明山と号し、もと聖徳宗の廃寺。俗に千日せんにち寺ともいった。創建は明らかではないが、「嘉元記」貞和四年(一三四八)一〇月二八日の条に「極楽寺結戒在之 招提寺長老 覚尭上人之御沙汰」とあることから、鎌倉時代をくだるものでないことが知られる。法隆寺所蔵の妙法蓮華経のなかに、観応二年(一三五一)法隆寺別院極楽寺において書写されたものがある。墓地は近郷の共同墓地で、文禄年間(一五九二―九六)まで一八郷、その後は興留おきどめ五百井いおい服部はつとり(現斑鳩町)西安堵にしあんど・東安堵(現奈良県安堵町)で占められている。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]廿日市町原

標高六六一メートルの極楽寺山山頂にある。上不見山浄土王院と号し、高野山真言宗別格本山。本尊千手観音。寺伝によると、天平三年(七三一)行基が諸国巡錫の途次当山の大杉から光明が放たれるのを見、その杉で千手観音を造仏したのが始まりで、大同元年(八〇六)弘法大師がその開眼供養をしたという。

中世には桜尾さくらお城主藤原氏や、大内氏・毛利氏など戦国武将の祈願寺として信仰を集め、伽藍の修造や寺領の寄進を得た。銅製鰐口(県指定重要文化財)には「奉施入鰐口芸州佐西郡極楽寺常住」「明応二年五月朔日 本願明賢大工久信敬白」との陰刻銘がある。天文(一五三二―五五)頃と推定される極楽寺々領坪付(当寺文書)は後欠文書で全体は不明であるが、五貫文余と「早田宮迫」の地および畠・茶薗が記される。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]宇佐市南宇佐 北田

南宇佐北西部の字北田きただにある。金蓮山と号し、浄土真宗本願寺派。草創は不明であるが、大尾おおお山北麓の寄藻よりも川沿いに字極楽寺があり、旧地であったと思われる。「四日市村年代記」によれば、宝暦三年(一七五三)拝田はいた村七左衛門が四日市よつかいち別院に寄贈安置した木仏一体は当寺旧蔵で、当寺廃退後、辻堂に安置されていたものであったという。文久二年(一八六二)国東翻迷が字上町かんまちに再興、明治二七年(一八九四)現宇佐神宮境内字寺家じけに移転、昭和七年(一九三二)の宇佐神宮復興大造営の際、現在地に再移転した。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]粉河町中津川

釈木山竜徳院と号し、天台宗。本尊は役行者で、開基も役行者と伝える。正平二四年(一三六九)一一月の年号を刻む板碑が残り、大永八年(一五二八)・天文四年(一五三五)など室町時代の一石五輪塔も残る。当寺のそばに阿弥陀堂があり、その本尊の木造阿弥陀三尊坐像(県指定文化財)は行基作と伝える。ほかに韋駄天・不動明王・役行者・前鬼後鬼の像を安置する。「続風土記」には「山伏先達此堂に於て綱位を蒙り、新客七日断食して名を改むるを規範とす」とあり、また「紀伊国名所図会」に「堂内に文安年中以下護摩修行の札を納む。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]河内長野市古野町

融通念仏宗、山号錦渓山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると聖徳太子開創と伝える温泉寺跡に創建したという。大念仏だいねんぶつ(現平野区)中興の祖法明が元亨年間(一三二一―二四)に建立した河内六別時の一で、錦部にしきべ別時とも称される。この「別時」とは別時念仏を修する念仏道場をいう。別時は寺地を固定しない挽道場であったが、江戸時代になり定堂化がみられるようになった。極楽寺としての開山は上原うわはら出身の祐算で、慶長八年(一六〇三)入山(「錦渓山歴代相承譜」寺蔵)。江戸時代初めまで寺地は定まらなかったが、相承譜によると寛永一九年(一六四二)以降古野ふるのに寺地をもつようになった。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]福島区玉川四丁目

真宗大谷派。清浄山と号し、本尊は阿弥陀如来。天文元年(一五三二)山科やましな本願寺(跡地は現京都市山科区)は佐々木(六角)定頼・日蓮宗徒に焼かれ、本願寺一〇世証如は石山いしやまの坊舎(跡地は現東区)に逃れた(紫雲殿由縁記)。翌年証如は野田のだ・福島の地を訪れたが、その折佐々木らの伏兵に襲われ、当地の門徒によって救われた。その際証如を守った門徒中二一人の者が討死した。その二一人の墓所に建立された道場が当寺のはじまりと伝える(「二十一人討死御書略縁起」寺蔵)。すなわちもとは野田村の惣道場であったと思われ、証如の「天文日記」に頻出する「野田之者」は、道場を維持運営した当地門徒団と考えられる。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]青山町老川

集落の東部、諸木もろきおよび奥鹿野おくがのへ通ずる道路の分岐点北西にある。曹洞宗、山号寿陽山。本尊は木造阿弥陀如来立像。秘仏で六一年ごとに開帳される。古くから老川如来の名でよばれ、近郷はもとより遠くまで知られ、文化六年(一八〇九)には津で出開帳も行われた(庁事類編)。寺蔵の極楽寺縁起録によれば、信州長野の善光ぜんこう寺三尊仏の分身で、奈良東大とうだい寺に納めてあったのを弘安七年(一二八四)正月八日にこの地に安置したと伝える。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]高岡市博労町

浄土宗に属し、安養山浄土院と号する。本尊阿弥陀如来。「蓮門精舎旧詞」では京都知恩院末、観応元年(一三五〇)の開基で、遊行上人他阿より付法を受けた後醍醐天皇第八皇子越中宮仏眼明心上人法親王の建立とする。その没年は嘉慶元年(一三八七)三月二一日で、六一歳であったという。寺伝では越中宮仏眼明心を宗良親王とする。遊行上人他阿は一二世遊行上人で、亀山天皇の皇孫尊観であるとされる。「越中志徴」所載の寺伝には、開山随従の徒は四人、大西・七高・芝・車であり、子孫は今もあり、遺跡を守り、法灯を掲げていると伝える。六世までは時宗寺院であったが、七世住職より浄土宗に改まり、知恩院末となって、越中国の触頭寺院となったという。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]山形市六日町

江戸時代城下町であった六日むいか町にある。紫雲山と号し、浄土宗。本尊は一三世紀前半の作と考えられる阿弥陀如来。浄土宗を当地方一帯に広めた念蓮社良全が、文禄元年(一五九二)紫雲たなびく古跡に一寺を建立して隠居寺としたのに始まると伝える。境内で文和五年(一三五六)銘の阿弥陀仏の種子を刻んだ板碑が発見された。この年は斯波(最上)兼頼の山形入封の年で、また同地が山形城の北東(鬼門)にあたることから、兼頼と関係ある古寺が存在した可能性がある。最上氏時代城下絵図に寺名がみえる。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]大山田村甲野

甲野こうのの南部太田おおたの丘陵寄りに位置する。竜宝山と号し、曹洞宗。本尊不動明王。寛文一一年(一六七一)鋳造の梵鐘の銘に「本邦伊賀国山田郡竜峰山極楽寺密教之道場而安置胎金両部大日如来之霊宇也」とあり、さらに「天正年中獲兵火而殿堂楼閣帰烏有矣(中略)当寺住持得入乗天運之須化而発再興之弘願募国中貴賤之檀施」とある。「伊水温故」に「米野氏得入再興、猶洪鐘一口ヲ鋳ス、鎮守愛宕権現」と記している。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]熊本市井川淵町

藤崎ふじさき八旛宮の北側、碩台せきだい小学校裏手の白川沿いにある。もとは現碩台小学校校地を含む寺地を有し、北の子飼こかい地域、南の井川淵いがわぶち地域との境をなしていた。そのために明治六年(一八七三)には寺の正面から西北に走る通りを極楽寺丁と称した。法王山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来坐像。「国誌」に「元和年中伝郭念誉開基、念誉ハ寛文五年四月九日寂五十六歳」とあり、「熊本区誌」は「寛永元年甲子僧伝郭開基創建ス」と記し、開基年を異にしている。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]下館市丙 金井町

勤行ごんぎよう川右岸に位置する。天台宗、無量寿山と号し、本尊は阿弥陀如来。応仁元年(一四六七)現在の蔵福ぞうふく(西町)付近に創建と伝え、開山は運応。寛永七年(一六三〇)下館城主水谷勝隆により現在地に移され(下館町郷土史)、藩主松平頼重の生活を記録した「英公日暦」同一六年一一月四日に、「一、同日夜五ツ時過、下館出家社人御礼之次第、光照寺・最勝寺・(中略)極楽寺(中略)、右之分今晩御書院ニ御目見有之」とある。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]東山区本町二十二丁目

本町ほんまち(伏見街道)の東側に位置する。寺門は西面して同通に向かう。金竜山と号し、浄土宗西山禅林寺派。「拾遺都名所図会」は「同街 田中社の南、東方にあり」と位置を示し、本尊阿弥陀仏は鑑真の作とする。寺号は深草ふかくさ(現京都市伏見区)の極楽寺の旧号を継いだもので、「京都府地誌」に「創立不分明、僧岷空、僧鳳山開基ス」とある。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]会津若松市宝町

小田おだ町の東端より北に続く通りの西側にある。安養山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。縁起によれば、明応四年(一四九五)浄顕が金堀かねほり村地内に太子宗の庵を結んだのが始まりという。永禄七年(一五六四)浄顕が京都西本願寺から極楽寺の寺号と本尊を受けて会津に帰り、領主蘆名盛氏から現在地一万坪と永楽銭一〇〇貫を与えられて堂宇を建立した。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]直島町

本村ほんむら集落にある。八幡山長寿院と号し、本尊阿弥陀如来。高野山真言宗。貞観年中(八五九―八七七)理源大師が草庵を建て、あまねく海島の群類を化度し、漁猟の民の罪業を滅除するため本尊を安置したのに始まるという。その後崇徳上皇が直島に配流されたとき寺号を改め、至徳年中(一三八四―八七)僧増吽が来島して同上皇追福のため島民にはかって修造を加えたが、このとき現本尊を海中より感得したと伝えている(直嶋旧跡順覧図会)

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]安堵町大字東安堵

紫雲山と号し、真言宗国分寺派。本尊阿弥陀如来。聖徳太子の建立と伝え、大御おおみ堂ともよばれた。江戸初期には寺家六坊を擁したが、貞享四年(一六八七)には東之ひがしの坊を残すだけとなったという。極楽寺日記(寺蔵)によれば、「極楽寺・常楽寺・御厩堂」の三ヵ寺は牛頭天王社(飽波神社)の宮寺であった。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]松山市鷹子町

浄土じようど寺に近く、その東北方の田畑のなかにある。灌頂山と号し、真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。真言宗新義派大覚寺末であった。寺伝によると、孝謙天皇の勅願寺として創建され、源頼朝による再建を経て、明応(一四九二―一五〇一)の頃に兵火によって焼失したという。古くは現在地より東南へ一キロ余、密接な関係を有する熊野大権現社の近くにあった。ここに重箱泉と称する閼伽井戸や極楽寺道とよぶ地名が残っている。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]更埴市稲荷山町

浄土宗、本尊は阿弥陀如来。京都知恩ちおん院の末寺。寺伝では、文永一〇年(一二七三)、鎌倉光明こうみよう寺開山の然阿良忠記主禅師の開創という。初め隣村桑原くわばらの浄土屋敷に堂宇を建立したが、天正一一年(一五八三)上杉景勝が稲荷山いなりやまに築城し、町割をするにあたって中町なかまち組に移り、当時の住僧明誉が中興した。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]田辺町天王 大岩

本堂は南面、庫裏は東面する。天王山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。明治一六年(一八八三)綴喜郡寺院明細帳によれば嘉暦年中(一三二六―二九)に仏念が開創したという。寛保三年(一七四三)の禁裏様御料御蔵入城州綴喜郡天王村差出明細帳(中島家文書)には除地境内は長さ七間半と横五間、寺は梁行三間・桁行五間で「嘉暦弐年之開基」とある。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]前橋市亀里町

亀里かめさと町南部の城之宮しろのみやにあり、成菩提山(常盤山)光明院と号し、天台宗、本尊阿弥陀如来。開山は貞観六年(八六四)慈覚によるという。永和三年(一三七七)の大般若経(杉本坊師岡秀鎮氏蔵)巻四五〇の奥書に「上州群馬郡阿内極楽寺住侶、永和三丁巳正月廿八日良舜」とある。江戸時代には朱印三五石が与えられている。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]三原市東町

米田よねだ山麓にある。日照山無量寿院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「三原志稿」によると、法然の法孫良忠が西国へ下向のとき豊田郡船木ふなき(現本郷町)に留錫して開いたと伝え、天正一〇年(一五八二)泉誉雲竜(文禄三年没)のとき現在地に移ったという。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]西城町八鳥

蟻腰ありのこし城跡の東麓にある。仏通山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。「芸藩通志」に「天文年間、当村故城主東兵部政幸創立、天正甲戌、僧白翁中興、政幸の位牌あり」とみえる。

蟻腰城主東政幸の創建になり、その後衰微し天正二年(一五七四)菅の徳雲すげのとくうん(現東城町)僧白翁が再興したというが、享保一六年(一七三一)の火災で縁起などを失ったため詳細は不明である。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]宇治田原町郷之口

郷之口ごうのくち山口やまぐち城跡とされる地の東に隣接してあり、帰命山摂取院と号する。浄土宗。本尊阿弥陀如来。織田信長の命により郷之口に城を築いた山口甚介秀康を中心に、その子玄蕃頭など山口一族の菩提を弔うために建立されたと伝える。現在は本堂・庫裏・鐘楼・山門が整然と並ぶが、山門は山口城の裏門であったと伝え、本堂前の灯籠もかつて城内にあったものという。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]下津町塩津

蛭子えびす神社の南方山際にある。巌亀山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。塩津しおつ浦の菩提寺とされる。開基など不明であるが、「続風土記」に「近年一条家の祈願所となる」とあり、文化六年(一八〇九)一条家から納められたと伝える伏見天皇宸翰「唯識三十頌」一帖(国指定重要文化財)が蔵される。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]下京区本塩竈町

町の中央東側に、寺門・本堂とも西面して位置。浄土宗。天照山と号し、本尊阿弥陀如来。

寺伝によれば天文一二年(一五四三)に一蓮社笈誉が四条坊門東洞院(現中京区一蓮社町)の地に創建。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の命により現在地に移転。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]宇和町小野田

現在は観音堂のみがある。千手山と号し、本尊は千手観音。「宇和旧記」は山田やまだ村のくにぎ(国木)長者が養老二年(七一八)建立、修験者が住み、寺内に熊野十二所権現があると記す。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]御所市大字南郷

極楽寺西部に位置するが、境内地は明治初年に南郷なんごうに編入された。仏頭山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。本堂と別に阿弥陀堂があり、本尊天得阿弥陀如来の画像を祀る。寺伝に天暦五年(九五一)奈良興福寺の一和の開基といい、鎌倉後期の林阿によって中興。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]桜井市大字粟殿

初瀬はせ川南岸に所在。三輪山と号し、浄土宗。行基の弟子信阿が天平四年(七三二)に開いたと伝える。本尊釈迦如来立像は鎌倉時代の作。阿弥陀如来坐像(平安時代)などの仏像がある。

極楽寺
ごくらくじ

[現在地名]下関市阿弥陀寺町

紅石べにいし山の南麓、関門かんもん海峡を望む地にある。浄土真宗本願寺派で願海山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、もと大内家の家臣粟屋主計頭が永正一三年(一五一六)本願寺で剃髪得度、法名を道善ともらい、この地に一堂を建てたのに始まるという。

極楽寺
ごくらくじ

平安時代、観世音寺脇に所在したとされる寺。「続本朝高僧伝」には観世音寺の傍ら極楽寺の僧である沙門能円が千日法華講を行い、結願ののちに遷化したとの話がみえる。「今昔物語集」巻一五は僧名は記さないが、やはり観音寺(観世音寺)傍らの極楽寺において千日講を行った聖人の話を収める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「極楽寺」の意味・わかりやすい解説

極楽寺 (ごくらくじ)

神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺。霊鷲山感応院と号する。奈良県西大寺の末。開山は良観房忍性(にんしよう),開基は北条重時。1259年(正元1)の創建というが,忍性が入寺した67年(文永4)以降に重時の子の長時,業時が寺を完成させたようである。その盛んなときには,七堂伽藍のほかに49の子院が存在したという。中世には,鎌倉の和賀江港の維持管理にもたずさわった。建武新政に際しては後醍醐天皇の勅願寺となり,室町時代も足利氏の保護を受けたが,1425年(応永32)の火災や33年(永享5)の地震で衰えた。現在,堂宇は少ないが,清凉寺式の釈迦如来立像や釈迦如来座像,十大弟子像,奥の院にたつ忍性の大五輪塔(いずれも重文)など,文化財は数多い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「極楽寺」の意味・わかりやすい解説

極楽寺
ごくらくじ

神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺。正しくは霊鷲山(りょうじゅさん)感応院(かんのういん)極楽律寺という。1259年(正元1)北条重時(しげとき)の創建にかかり、忍性(にんしょう)の開山といわれる。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐(ごだいご)天皇の勅願寺となり、寺運隆盛に向かった。室町時代の極楽寺古絵図には大伽藍(がらん)のほかに、49の塔頭(たっちゅう)子院が描かれているなど、当時の壮大さを物語っている。しかし江戸時代に大火・地震などで荒廃し、現在は本堂、客殿など数棟のみである。本尊は清凉寺(せいりょうじ)式の木造釈迦如来(しゃかにょらい)像(国重要文化財)。そのほか十大弟子像、木造不動明王像(以上国重要文化財)、密教法具、古文書など貴重な多くの文化財を蔵する。当寺裏山の奥の院には、忍性の墓といわれる石造五輪塔(国重要文化財)がある。

[眞柴弘宗]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「極楽寺」の解説

極楽寺
ごくらくじ

神奈川県鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺。もと奈良西大寺の末寺。霊鷲(りょうしゅう)山と号す。1258年(正嘉2)念仏僧が深沢の地に寺を建て始めたが,完成を前に死去した。北条重時がその寺を翌年に現在地に移して極楽寺と号した。はじめは念仏系の寺であったが,67年(文永4)忍性(にんしょう)の入寺以後は,真言律宗の寺となった。鎌倉の西の境にあり交通の要衝に位置していた。忍性らは病者や女性をはじめ鎌倉の民衆の救済につとめ,道路・橋の修造,鎌倉の港である和賀江津(わかえのつ)の管理も行い,鎌倉幕府の祈祷まで行う寺となった。清凉寺式の釈迦如来像,十大弟子像,忍性塔などの石造五輪塔(以上,重文),「極楽寺境内絵図」などがある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界の観光地名がわかる事典 「極楽寺」の解説

ごくらくじ【極楽寺】

マレーシアのペナン島北部、ペナンヒルの麓にある、同国最大で、東南アジア屈指の仏教寺院。約12万m2の広大な境内の中に、タイ・中国・ビルマの様式が入り混じったユニークな7層(高さ30m)のパゴダ(仏塔)をはじめ、色とりどりの建物がある。この寺院は、20年の歳月をかけて、1890年に完成した。

出典 講談社世界の観光地名がわかる事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「極楽寺」の意味・わかりやすい解説

極楽寺
ごくらくじ

鎌倉市極楽寺にある真言律宗の寺。山号は,霊鷲山感応院。正元1 (1259) 年北条重時によって創建され,開基は忍性。元弘2=正慶1 (1332) 年勅願所となり,そののち足利氏によって代々尊崇された。本尊は釈迦立像。

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事典 日本の地域遺産 「極楽寺」の解説

極楽寺

(愛知県岡崎市中町字北野東21-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積4,500【m2】

極楽寺

(大阪府大阪市住吉区遠里小野5-11-2)
大阪市都市景観資源」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「極楽寺」の解説

極楽寺

徳島県鳴門市にある寺院。奈良時代の創建とされる。宗派は高野山真言宗。本尊の阿弥陀如来は国の重要文化財に指定。四国八十八ヶ所霊場第2番札所。

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世界大百科事典(旧版)内の極楽寺の言及

【医学】より

…奈良近くの西大寺は傍らに癩者の救療のために癩人院を設けた。鎌倉の極楽寺も,貧困者の救療の施設〈北山十八間戸〉を設けて,20年間に5万7250人を受け入れたという記録がある。この寺では病馬の治療もおこなったという。…

【忍性】より

…52年(建長4)36歳で律宗の東国布教をめざして関東に下向,常陸三村寺に住した。62年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で北条氏の信頼を得,以後多宝寺・極楽寺など鎌倉の寺にあって,非人救済,作道(極楽寺坂),殺生禁断(鎌倉前浜)などの慈善事業に努めた。また,東大寺大勧進,四天王寺別当,摂津多田院別当などを兼任,死後菩薩号を贈られた。…

※「極楽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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