東南アジア美術(読み)とうなんあじあびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「東南アジア美術」の意味・わかりやすい解説

東南アジア美術
とうなんあじあびじゅつ

本項では、ベトナムからミャンマー(ビルマ)に至るまでのインドシナ半島と、その先に延びるマレー半島、さらに南東の海上に散在するインドネシア共和国の諸群島にわたる地域の美術について扱う。考古学的にみると、ベトナム北部にみられる新石器時代の先史文化の存在や、ドンソン文化に代表される青銅器文化などが重要だが、歴史時代以降の主要な遺構・遺物は、ほとんど、インドに起源をもつ宗教美術で占められている。

 中国からの文化的影響の濃いベトナム北部を除くと、前述の大部分の地域では早くからインド人の海外進出に伴うインド文化の影響を受け、言語・宗教・政治制度・芸術といったあらゆる分野において土着固有の基層文化にインド的要素が浸透し、「インド化」とよばれる文化の融合が認められる。しかし、先史時代以来繰り返し行われた民族の移動や興亡は各地に多様な地域的特色を生み、共通するインド系宗教美術を取り上げただけでも、民族や国の違いによってその表現や展開過程がそれぞれまったく異なる様相を呈している。したがって、これをひとまとめに概観することは非常にむずかしく、本項では各地域ごとの美術をその様式的変遷に沿って述べることにする。

[秋山光文]

インドネシア

多数の島嶼(とうしょ)から構成されるインドネシアのなかでも、美術史上とくに重要なのはジャワ島で、そのほかスマトラ島、バリ島、スラウェシ(セレベス)島などが注目される。歴史時代以降に始まったインド人進出に伴う「インド化」によって、こうした地方には現存はしないものの仏教およびヒンドゥー教の木造寺院が建立されていたと思われる。これを裏づけるように東部ジャワやスラウェシからは、4~5世紀にさかのぼる南インド(おそらくはアーンドラ地方)製の青銅仏が数体発見され、また南インドのパッラバ様式を備えた石造のビシュヌ像も西部ジャワから2体出土している。紀元前後から7世紀中ごろまでの「初期インド化時代」には、こうしたインド的要素の濃厚な美術が支配的であったが、7世紀中ごろ以降には有力な王朝が相次いでジャワ島に成立し、しだいに「インド・ジャワ美術」とよばれる土着文化との混淆(こんこう)による独自の様式が確立されるに至る。

[秋山光文]

中部ジャワ期

7世紀後期にスマトラ島の東海岸に強大なシュリービジャヤ王国が興り、その勢力は、スマトラはもとより、マレー半島一帯からインドシナ半島南部にまで及んだ。この王国の下では仏教文化が栄えたが、パレンバン出土の石造四臂(しひ)観音立像やジャンビ出土の石造仏立像など、後グプタ様式(ポストグプタ様式)の影響を強く受けた8~9世紀の作例が数点知られるのみで遺品は少ない。一方、中部ジャワでは同じころディエン高原に南インドのパッラバ様式のヒンドゥー寺院を祖型にもつ切り石積みの小祠堂(しどう)(これをチャンディと称する)が造営され、7世紀後期から8世紀後期にかけて建立された8基が現存する。8世紀後半になると、中部ジャワではシャイレーンドラ朝が有力となり、大乗仏教を信奉した支配階層によって、クドゥー盆地一帯に多数のチャンディが建立されるようになった。残された銘文により778年の造営が明らかなチャンディ・カラサンをはじめ、ムンドゥ、パウォン、ボロブドゥールなどが、8世紀後半から9世紀前半にかけて創建された。このなかで、もっとも規模の大きなものがボロブドゥールで、一辺120メートルの二重基壇上に5層の方形基壇と3層の円形基壇が載り、最上層には釣鐘形の仏塔を頂く構造で、全体の高さは42メートルに及ぶ。この巨大モニュメントから東3キロメートルにあるムンドゥは、9世紀初頭ごろの建立になり、堂内には、転法輪印を結ぶ石造の如来倚像(にょらいいぞう)(像高約3メートル)を中尊とし、左脇侍(きょうじ)に金剛手、右脇侍に観音(かんのん)の両菩薩(ぼさつ)を配する三尊仏が安置されている。三尊ともサールナート派の後グプタ様式を伝える洗練された表現で、おそらく東南アジア仏教彫刻のなかでも屈指の優れた作品であろう。建物の外壁には密教的な多臂(たひ)像をはじめ種々の菩薩像、入口両側にパーンチカ(半支迦(はんしか))・ハーリティー(訶梨帝母(かりていも))像などの浮彫りが施され、これらの様式はボロブドゥールのそれとも通じるものである。

 9世紀に同じ中部ジャワに興ったマタラム朝の下では、ヒンドゥー教に属するチャンディが造立された。代表的な遺例にプランバナン地区に建てられたチャンディ・ロロジョングラン(9世紀後期)がある。これは、一辺の長さが222メートルに及ぶ広い敷地の中央にそびえる高さ47メートルのシバ堂をはじめ、その南北隣のビシュヌ堂、ブラフマー堂、および彼ら三大神の乗り物(バーハナ)を祀(まつ)る堂など、総数240基から構成されるジャワ随一の壮大な寺院建築群である。ヒンドゥー教の三大神を祀(まつ)る各祠堂には石造の主尊像(いずれも高さ約3メートル)が残り、シバ堂の外壁に浮彫りされたインドの叙事詩『ラーマーヤナ』の連続画面(後半部分はブラフマー堂にまで及ぶ)は、ボロブドゥールの回廊浮彫りの静謐(せいひつ)さとは対照的な、ダイナミックで生気あふれた造形感覚を備え、独特のおもしろさが感じられる。プランバナン地区には、このほかに仏教寺院として、セウ、サリ、プラオサンなども残り、仏教文化とヒンドゥー教文化とが共存していたことが知られる。

[秋山光文]

東部ジャワ期

10世紀に入ると造形活動の中心は東部ジャワに移り、それまでのインド的要素の濃厚に残る様式から、さらに土着文化の色彩の強い独自の様式へと展開し、14世紀以降イスラム教勢力が浸透するまでの「インド・ジャワ美術」の最後を飾った。おもな遺構に、チャンディ・サウェンタル(13世紀初期)、ジャゴ(1280ころ)、シンゴサリ、ジャウィ(ともに1300ころ)などがあるが、シンゴサリ王朝(13世紀)からマジャパヒト王朝(14世紀)時代にかけて建立されたチャンディでは、チャンディ本来の寺院としての性格を失い、神格化された王の姿を写した神像を祀る王の墓廟(ぼびょう)とみなされるようになった。またチャンディの側壁に施された装飾帯の浮彫りにも、ジャワ文学に取材した主題が用いられ、人物や自然描写は影絵芝居ワヤンの表現法を模するなど、民族化が進んだ。こうしたインドネシア独自のヒンドゥー文化はイスラム勢力に押され、14世紀以降はジャワ島のさらに東にあたるバリ島に移り、一段と民族化した形で現在も継承されている。また、バティックジャワ更紗(さらさ))やイカット織(絣(かすり)織)などの染織品や影絵芝居ワヤンの人形などの民芸のなかに、民族的な伝統意匠を残すものがあり、これも注目される。

[秋山光文]

カンボジア

中国の歴史書のみに名を残す扶南(ふなん)国にかわって、7世紀からカンボジアを支配したクメール王国は、9世紀初頭から、アンコール時代とよばれる黄金期を迎える。これを中心に、カンボジアの美術は次の4期に分けられる。

(1)扶南国時代(6世紀中ごろまで) オク・エオ(現、ベトナム領内)から出土した青銅製の小仏像はインドからの将来品とみられる。このほか、プノム・ダ出土の八臂ビシュヌ像とパラシュラーマ(斧(おの)を持ったラーマ)立像、ワット・ロムロク出土の仏頭(以上いずれも6世紀ごろ)などの石造美術にも南インドの影響が強く認められ、この地方が早くから「インド化」されていたことを知ることができる。

(2)前アンコール時代(6世紀後期~8世紀末) この時代は、扶南国を滅ぼした北隣のクメール人(真臘(しんろう)国)が、彼らの継承した扶南末期の様式に独自の民族性を組み込んで、新たな造形活動を始めた初期にあたる。遺跡や遺品はあまり多くはないが、旧都サンボー・プレイ・クックの周辺にヒンドゥー教寺院址(し)が残る。いずれも後代の高塔形塔堂建築(プラサット)の先駆となるれんが積み(一部石造)の堂宇で、ジャワのチャンディ、チャンパのカラン(祠堂)とも類似する。また石造や青銅製の仏教尊像(6世紀後期~7世紀)、ヒンドゥー教の女神像やハリハラ像(シバ神とビシュヌ神の合体像、7~8世紀初期)など、クメール独自の造形感覚が認められる彫刻類もある。

(3)アンコール時代(9~13世紀) クメール美術の黄金期で、トンレ・サップ湖の北に築かれた王都アンコールを基点に、長期間にわたって優れた造形活動が行われた時代である。とくにこの時期には国王一族を神の化身として崇拝する傾向が強まり、彼らを祀る寺院(大部分はヒンドゥー教に属するが一部は大乗仏教)建立が造形活動の中心になった。前代から始まったプラサット(塔堂)はより大規模な形態に展開し、アンコール・ワットやバイヨンなどの大寺を生むに至った。すべてを厳正な左右対称に構成させることが守られ、壁面は多種多様な浮彫りで繁雑なほどに装飾されている。ジャヤバルマン7世(在位1181~1219ころ)の時代に制作された人物像では、「アンコールの微笑」と称される独特の穏やかな顔だちが特筆される。

(4)後(ポスト)アンコール時代(13世紀中期以降) 『真臘風土記(ふどき)』(13世紀末)の記述以外にはほとんど不明だが、造形活動もあまり行われなくなった模様である。たび重なるタイ人の侵入もあり、やがて首都が放棄されたことに伴いタイ文化が流入する。

[秋山光文]

ミャンマー(ビルマ)

インド文化は南部に居住していたモン人によって早くから摂取されていたが、紀元前にさかのぼる初期美術は発見されていない。エーヤワディー(イラワディ)河中流域にはピュー人の王国が栄え、ピエー(プローム)近郊のフモーザには、タイェーキッタヤー(サンスクリット語で「吉祥の国土」を意味するシュリークシェトラから転訛(てんか))とよばれる遺跡があり、玄奘(げんじょう)の『大唐西域記』には「室利差咀羅(しつりさとら)」、義浄(ぎじょう)の『大唐南海寄帰内法伝(だいとうなんかいききのうほうでん)』には「室利察咀羅」と記された古代都市に比定されている。紀元後1世紀ごろから「インド化」されていたこの地方には上座部系の仏教・ヒンドゥーの文化が栄えていたようで、砲弾型の仏塔(パゴダ)や内部に仏像を祀った方形の寺院址などが残されている。遺跡から出土した尊像には石造や金銅製の仏教尊像のほか、ビシュヌ神と神妃ラクシュミー像や、ブラフマー、ビシュヌ、シバの3神像を一石に刻んだ浮彫石板なども含まれている。こうした尊像はおおむね5~7世紀ごろ制作され、同時代の南インドあるいはスリランカの彫刻様式が見られる。一方、仏塔内部からは法舎利(ほうしゃり)として納められた降魔印(ごうまいん)の仏坐像を形押しした素焼きの粘土板が多数発見され、これには後グプタ様式の影響が見られる。中国文献によると、ピュー王国は9世紀中ごろ(832年)雲南の南詔に侵略されて滅亡したとされる。

 その後パガンを中心にビルマ人が建国した王国が栄えたが、パガン朝ではアノーヤター王(在位1044~1077)による南部のモン人の都タトン侵攻(1057)に伴い、同地から連行された多数の仏教僧とともに厳格なスリランカ(セイロン)の上座部系仏教が導入され、それまで続いていた密教的色彩の強い大乗仏教やナッと呼ばれる神々を祀る呪術的儀礼が改められた。また、このときに移住したモン人の造寺工や彫刻師あるいは画工たちは、パガンの都に仏教建築の造営法を伝えた。アノーヤター王の指導のもとに建国されたパガン朝(1044~1287)は、「建寺王朝」とよばれるように歴代の王が熱心に仏教を奉じ、6.5キロメートル四方ほどの首都に造営された約5000に上る仏塔や寺堂などのおよそ半数が現在でも残り、ビルマにおける造形活動の最盛期であったことを物語っている。インドのストゥーパに相当するゼーディ(仏塔)は、方形基壇上に円錐形の本体が載り、基壇側面には、テラコッタ板や釉薬(ゆうやく)をかけた陶板の本生(ほんじょう)図をはめ込む場合が多い。一方、グー(寺堂)の本尊には東インドのパーラ様式を伝える塑像の釈迦像を祀るが、アーナンダ寺のような大型寺院の場合には中央の方形柱の周囲に像高7メートルにも及ぶ4体の大型像(賢劫(けんごう)四仏)が安置されることもある。また、寺院内壁は本生話(ほんじょうわ)や仏伝などの仏教説話や護法神、あるいは動植物や幾何学文様などを主題とする壁画(ほとんどは11~13世紀)で彩られたものが少なくない。おもな遺跡にアーナンダ寺(1105建立)、タッビンニュ寺(1155)、ミンガラゼーディ塔(1284)がある。なお、パガン朝は四度にわたる元(げん)(モンゴル)の侵入によって13世紀末(1287)に崩壊し、それ以降は南西部のアラカン地方でミャーウーを中心に仏教やヒンドゥー文化が栄え、シッタウン寺(1536建立)をはじめ15世紀中期から17世紀後期にかけて建立された仏塔や仏教寺院が残る。東南部ではバゴー(ペグー)に、モン人のミガティー王によって建立されたという大形の涅槃仏(ねはんぶつ)(高さ16メートル、全長55メートル)などがあるが、そのほかにあまり見るべき美術はない。

[秋山光文]

タイ

諸民族の興亡が複雑なこの国の美術は、タイ人の支配が優勢となった13世紀を境に前後二期に分けられる。もっとも、インド文化は早期に流入していたらしく、南部からはベンガル湾を渡って将来したインド製の仏像(3~7世紀)も数例出土している。前期は、ミャンマー(ビルマ)南部に拠点をもつモン人が興した王国であるドバーラバティー(7~11世紀)の美術がまず初めにあげられる。遺品にはチャオプラヤー川下流域から出土する石造および青銅製の仏教尊像があり、後グプタ様式(とくにサールナート派)を模した肌に密着する衣の表現を特色とするものの、顔だちはモン人の民族性が強調されている。また南部から半島部にかけてはスマトラに興ったシュリービジャヤ王国の支配が続き(8~13世紀)、チャイヤーからは中部ジャワ様式と同一の優れた青銅製菩薩像(8世紀)も発見されている。一般にシュリービジャヤの美術は大乗仏教に関わるが、ほぼ同じころの東インドに栄えたパーラ朝美術の様式を伝える。一方、アンコールの最盛期以来タイの中部・東部に進出したクメール人の下で、ロッブリーを中心にクメール美術が栄え(11~13世紀)、アンコール時代のそれと並行しながら地方色豊かな仏教およびヒンドゥー教の建造物や尊像が制作された(ロッブリー美術)。

 中国南部から南下したタイ人は、しだいに先住民族との間に同化を進めながら勢力を伸ばし、スリランカの上座部系仏教を信奉した。北部に興ったチェンセーン・チェンマイ美術(12~18世紀)をはじめ、チャオプラヤー川上流にスコータイ美術(13~14世紀)、同下流にウ・トン美術(12~15世紀)、さらにアユタヤ美術(14~18世紀)、バンコク美術(1782年以降)が相次いで出現した。建築遺構はすべて仏教に属し、スリランカ、ミャンマー、カンボジアの各様式が混入している。なかでもチェーディとよばれる仏塔はスリランカ式の先細の形式で、またプランとよばれる砲弾形高塔はカンボジアのプラサットを模したものになっている。仏像彫刻はおおむね青銅製で、様式の違いにより多少の変化はあるものの、いずれも類型的な表現である。顔だちは表情が少なく、肉髻(にくけい)の先をラッサミーとよばれる火炎型にし、坐像(ざぞう)では降魔印をとり、立像では直立もしくは遊行(ゆぎょう)像(歩行形)に表すものが多く、像容の変化に乏しい。しかし、伝統的な造寺造仏活動は現在でも熱心な信仰に支えられ、他の東南アジア地域にみられるような様式的退廃は認められない。また13世紀末ごろからスコータイで制作され始めた鉄絵文様の陶器は、中国の陶工から修得した技法で、14~15世紀を最盛期とし、とくにサワンカローク窯の作品はわが国でも宋胡録(すんころく)の名で珍重されたことは特記する必要があろう。

[秋山光文]

ラオス

12~13世紀にクメール勢力とその文化的浸透があったこと以外、この国の古い歴史は明らかでないところが多いが、南部にあるヒンドゥー寺院址ワット・プーは、ロッブリー期のクメール人の遺跡として重要視される。その他の遺跡・遺構はタイ人系のラオ人が自立した14世紀中葉以降の造営にかかるもので、仏堂や本尊の釈尊像など仏教寺院に属する美術があげられる。タイ人と同様上座部系仏教を奉じ、旧都ルアンプラバン付近ではチェンセーン・チェンマイ美術、16世紀中ごろに遷都したビエンチャン付近ではアユタヤ美術の系統に属するタイ美術の影響を濃厚に受けて、それぞれに展開した。

[秋山光文]

ベトナム

地理的にみると南北に長いこの国は、文化的にみると北部は中国系、中・南部はインド系に分けられる。北部で特筆されるのは先史・原始時代の数多くの遺跡であろう。なかでもドンソン文化(前4~後2世紀)は、青銅器・鉄器文化として中国南部からインドネシアにまで波及するもので、独特な銅鼓は祭儀に用いられたと思われ、この文化を特色づける。

 中・南部には中国の史書に林邑(りんゆう)、占波などと記されるチャンパ国(2~15世紀)が興り、早くからインド文化を吸収した結果、仏教およびヒンドゥー教の寺院建築を主として、北部とはまったく異質の造形活動を展開させた。初期にはダナンの南に政治・文化の中心があったため、ミソンには数多くのヒンドゥー教のシバ寺院群(8~11世紀)、ドン・ジュオンには大乗仏教の寺院址(875創建)が残る。いずれもれんが積みの高塔建築(カラン)で、南インドのパッラバ建築の様式を伝え、中部ジャワのチャンディ、カンボジアのプラサットとも類似する。ミソンはシバ信仰の聖地で、ヒンドゥー諸神の尊像彫刻には、南インドとクメール美術からの影響が見られるが、民族的な独創性も加えられている。またドン・ジュオンでは南インド製と思われる青銅製の仏立像(4世紀?)が出土しているほか、ドバーラバティー彫刻からの影響の残る釈迦倚像や僧形人物立像(いずれも9世紀)の存在も忘れることができない。しかし、11世紀初めにチャバンに遷都したあとは目だった造形活動はなく、わずかに新都付近やニャチャンに建立されたカランが残るのみで、12~13世紀初期の数度にわたるカンボジアとの戦いで国力が衰え、ついには安南(ベトナム南部)によって滅ぼされ、記すべき美術はみいだせない。

[秋山光文]

『佐和隆研編『インドネシアの遺跡と美術』(1973・日本放送出版協会)』『京都市立美術大学インドネシア美術調査団(団長佐和隆研)編『インドネシアの染織』(1973・八宝堂)』『大野徹著『パガンの仏教壁画』(1978・講談社)』『大野徹著『世界の聖域10 ビルマの仏塔』(1980・講談社)』『千原大五郎著『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』(1982・鹿島出版会)』『大林太良編『世界の大遺跡12 アンコールとボロブドゥール』(1987・講談社)』『重枝豊、チャン・キィ・フォン共著『チャンパ遺跡』(1997・連合出版)』『レジナルド・ル・メイ著(駒井洋監訳)『東南アジアの仏教美術』(1999・明石書店)』『前田耕作監修『カラー版東洋美術史』(2000・美術出版社)』『肥塚隆・宮治昭編『世界美術大全集 東洋編13(インド1)』(2000・小学館)』『肥塚隆・宮治昭編『世界美術大全集 東洋編14(インド2)』(1999・小学館)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東南アジア美術」の意味・わかりやすい解説

東南アジア美術
とうなんアジアびじゅつ
Southeast Asian art

東南アジア各国のうちミャンマー,タイ,カンボジア,ラオス,ベトナムなど大陸部と,インドネシアを中心とする群島部の美術。これらの地域ではインド人の海外進出に伴いインド文化の影響が強く,それぞれの土地,民族がもつ文化との融合,さらには独自性の発揮としてとらえることができる。しかし,6世紀には仏教やヒンドゥー教などインド起源の諸宗教のための造形活動が明確になり,それぞれの支配者層の熱烈な庇護のもとに発展した。その後,11世紀なかばから 14世紀にかけ,上座部仏教が浸透するとともに造形活動は下火となり,大きな転換期を迎えた。東南アジア各国はタイを除いて長らくヨーロッパの植民地支配下にあったため,紀元前数世紀にまでさかのぼるものをはじめ,遺跡の発掘・保存などはヨーロッパ諸国主導で始められ,第2次世界大戦後の独立までその状態が続いた。

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