ピュー(読み)ぴゅー(英語表記)Pyu

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピュー」の意味・わかりやすい解説

ピュー
ぴゅー
Pyu

ビルマ(現ミャンマー)のイラワディ川流域に小国家群を築いていたチベット・ビルマ語系の民族。自称は突羅朱T'ulcul。漢籍史料には僄(ひょう)、(ひょう)、剽(ひょう)、驃(ひょう)などの名称で現れる。現存するピューの遺跡は、プローム、タウンドゥインジー、ハリンジーの3か所で、いずれも周囲を長大なれんが製城壁で囲み、その外側を堀で囲繞(いじょう)した防衛的性格の強い構造をもっていた。出土した木炭のC-14による測定数値から、これらの遺跡は2世紀から9世紀にかけて繁栄していたとみられる。彼らは仏教やヒンドゥー教を信仰し、日月印の大型(2~3センチメートル)円形銀貨や、古代インドのカダンバ文字に似たピュー文字を使用、骨壺(こつつぼ)埋葬を行っていた。792年、806年には唐に入貢したが、832年南詔(なんしょう)の攻撃を被り滅亡したとされる。

大野 徹]

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旺文社世界史事典 三訂版 「ピュー」の解説

ピュー
Pyu

古代ビルマのプロームを中心に栄えたピュー族およびその王国
チベット−ビルマ族説とモン−クメール族説がある。漢代に漂,唐代に驃と書かれた。唐代は強盛で属国18を有し,南詔を通じて唐に従った。9世紀半ばに南詔の攻撃と内紛により衰亡し,11世紀にはパガン朝に吸収された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ピュー」の解説

ピュー
Pyu 驃

1世紀頃から9世紀までイラワジ川中流域に展開した政権名。各所に円形もしくは楕円形の煉瓦製城郭を建設し,雑穀や綿の栽培および銀貨を用いた交易活動で繁栄した。民族名は,自称トゥリチュル。

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