精選版 日本国語大辞典 「チャンパ」の意味・読み・例文・類語
チャンパ
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インドシナ半島に17世紀まで存続したチャム族の王国。2世紀末に中国人の統治に抵抗して建国したとされ,建国期の歴史は中国史料によって伝えられている。中国人に古くは林邑(りんゆう)の名で呼ばれ,初めは中国文化の影響を受けたが,3世紀末までにインド文化を取り入れた社会を形成するとともに,現在の中部ベトナムのクアンナム北方からフーカイン省ナイ岬付近にかけて複数の氏族勢力圏をつくり,その全体をゆるやかに支配する最初の王朝も存在した。伝存するサンスクリット碑文によると,4世紀末にバードラバルマン1世BhadravarmanⅠがクアンナム南西のミソンにシバ神を祀る神殿を建立しており,第2王朝とみられるこの時代に地方勢力が統合されてインド風の王国が成立した。その後,東南アジアと西アジアおよび南中国沿海地方を結ぶ中継貿易を発展させたが,北方から絶えず加えられる中国の圧迫と王統の交替によって国勢は必ずしも伸展せず,第4王朝の滅亡(757)後,王権が南方に移ってパンデュランガPanduranga(ファンラン)に第5王朝が興った。この王朝は中国人によって環王と呼ばれたが,まもなくジャワのシャイレンドラ朝の2度にわたる侵略を被り,神殿都市が徹底的に破壊されて859年に滅びた。次いで第6王朝を建てたインドラバルマン2世Indravarman Ⅱは王政の中心を再び北方のアマラバーティに移しインドラプラIndrapura(ドンズオン)に広大な仏教寺院を建てて,ここに王都を建設した。中国の史書はこの王朝から後のチャンパを占城の名で記しているが,10世紀半ばに北方のベトナムが中国から独立した後は,西のアンコール朝およびベトナムと激しい抗争を演じなければならなかった。
ほぼこの頃から13世紀にかけて,チャンパはその建築・美術を華やかに発展させた。仏教よりもヒンドゥー教が盛んに行われたチャンパの建築や彫刻は,7世紀にすでにインドのグプタ様式やクメールの前アンコール期の美術に通ずる様式を完成させていた。とくにカランkalanとよばれる方形の塔にピラミッド形上層屋をのせた石造建築が早くから発達し,10世紀にはその特徴のある様式が完成していた。ミソンとその東のチャキエウやドンズオンなどに見られる遺跡は,チャンパの建築がクメールのように段状ピラミッドや回廊形式を発展させず,しだいにインド的要素を捨てて民族的特性を表現するようになっていった歴史を物語っている。第7王朝(900-986)から第9王朝(1044-74)にかけて,その美術はさらに洗練され,カウターラ(ニャチャン)のポナガールの塔などが今日に伝える建築様式と,チャキエウ出土の彫刻美が示すように,12世紀までにチャンパ美術はその頂上期を迎えた。
10世紀末,新興の前レ(黎)朝ベトナムに侵攻されて第7王朝は甚大な損害を被り,第8王朝は1000年にインドラプラを放棄してビジャヤVijaya(ビンディン)に遷都した。ベトナムの圧迫はその後も執拗に続き,69年にはリ(李)朝ベトナムによってビジャヤが一時攻略され,12世紀には西方から侵攻したアンコール朝にも支配された。これに対してチャンパも報復を試み,また,こうした外圧に対抗するため入貢によって中国と親善関係を保とうとしたが,13世紀後半には元朝のモンゴル軍にも侵略された。その後元寇を撃退して民族意識の勃興したチャン(陳)朝ベトナムがいっそう南進策を強行したため,チャンパはチャン朝と激しく抗争したが,1306年クアンナム以北の領土をチャン朝に奪われた。15世紀にはレ(黎)朝ベトナムによってビジャヤを占領され,クアンナム以南もその保護領と化した。王国の衰亡とともに,文化も衰退した。南遷以後,建築様式に大きな変化を見たその美術も,第12王朝期に残されたビジャヤ周辺のカランがすでに退廃の兆候を示し,以後の石造建築文化は急速に通俗化して昔日の面影を失った。17世紀にはカウターラ,パンデュランガなどの残存拠点都市もベトナム人の南進によってすべて失われ,インド文化圏のフロンティアであったチャンパは,中国文化圏の先鋒となったベトナムに完全に併合されて滅亡し,チャム族は今日の少数民族の地位に落ちた。
執筆者:川本 邦衛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インドシナ半島東岸、ベトナムのフエ(ユエ)地方から南部にかけて存在したインドネシア系のチャム人の王国。中国の史料によれば、土侯の区憐(くりん)が137年ごろ日南郡象林県に侵入したのが始まりで、国名を中国では林邑(りんゆう)とよんだ。ただし9世紀中ごろ以降は占城(せんじょう)とよんだ。チャンパはインド文化系の王国で、サンスクリット語の呼称である。クアンナム省から出土した4世紀後半のサンスクリット語の碑文により、インド文化の浸透・定着が明らかになった。
住民はチョンソン山脈山麓(さんろく)の狭い沿岸平野に住み、国内はいくつもの地域に分立していた。チャンパは、ベトナム北部の広大で肥沃(ひよく)な平野部を略取しようとして北進を目ざし、ホアソン地方(ビンチティエン省北部)へ侵攻を続けた。しかし、5世紀からは敗北の連続で、1471年にはベトナムの黎(れい)朝(レ朝)聖宗の攻撃により首都ビジャヤが陥落し、滅亡への道をたどった。現在チャム人はベトナム南部のファンラン地方などに残っているが、一部はイスラム化した。フエ地方のミソン遺跡には当時のヒンドゥー教系の寺院址(し)、美しい上品な彫刻・破風(はふ)が残っており、とくにチャムの塔は有名である。
[石澤良昭]
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…たとえば2世紀ごろから7世紀中ごろまでメコン川下流域に存在した扶南国の刻文にはジャヤバルマン,グナバルマンなど南インドのパッラバ朝を思わせる王名が見えている。ただ時代が下るにつれ,サンスクリットとならんでクメール語(真臘,アンコール),チャム語(チャンパ),モン語(ドバーラバティ)など土着の言語で記された刻文が登場するのは,インド文化の担い手が原地人エリートの手に移ったことを示す明確な証拠として注目される。 これらの〈インド化された〉王国中最強最大のものは9世紀から13世紀にかけて繁栄したクメール人の国アンコール帝国であろう。…
…しかし,11世紀にはメナム川流域のロッブリーまで伸張し,12世紀には同流域をさらに北漸してスコータイまでを属領とした。1177年にチャンパ王国が国内混乱の隙を衝き,アンコール王都を攻撃し,一時占領した。ジャヤバルマン7世(在位1181‐1218?)治下では,道路網が整備され,121ヵ所の宿駅(郵亭)や102ヵ所の施療院が建設された。…
※「チャンパ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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