村田村(読み)むらたむら

日本歴史地名大系 「村田村」の解説

村田村
むらたむら

[現在地名]新田町村田

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の扇端部と、その南方の沖積地を占め、東は小金井こがねい村、西は市野井いちのい村、南は反町そりまち村。元久二年(一二〇五)八月日の源実朝下文写(正木文書)に「村田郷」とみえる(→村田郷。新田氏本宗家から支族の岩松氏に伝領され、岩松時兼の子頼兼は村田氏を名乗った。村域北寄りの本郷ほんごう上野井かみのいに村田氏もしくはその庶子家の居館があったと考えられており、周辺には中世の石造物の出土も多い。寛文郷帳では田方九四〇石九斗余・畑方三九四石五斗余。旗本津軽・高山・間宮領の三給。元禄郷帳では旗本小平・高山領と幕府領の三給。江戸後期の御改革組合村高帳では旗本酒井・高山・諏訪・松平・三宅領の五給。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発の際には村・四軒在家しけんざいけ村を分村した。

村田村
むらたむら

[現在地名]中央区村田町

浜野はまの村の南に位置し、南は村田川を隔てて上総国八幡やわた(現市原市)、西は江戸湾に臨み、村の中央を房総往還が通る。古くは上総国市原郡に属し、元和元年(一六一五)下総国千葉郡に編入したという。延宝二年(一六七四)の「甲寅紀行」に「村田村を通る、此所の末の出口に草刈河と言ふあり、馳走の為にとて舟橋をかけたり、此の川また村田川と言ひ、下総・上総の堺川なり、川を渡りて南は上総の地なり」とある。「房総三州漫録」には「村田川、国境なり。船賃二文」とみえ、往還の渡船があったことが知られる。寛永四年(一六二七)幕府領から生実藩領となり、同五年の小弓領郷帳に村名がみえ、田二一五石余・畠六九石余、ほか新田三二石余。

村田村
むらたむら

[現在地名]大栄町村田

ところ村の西に位置する。嘉元二年(一三〇四)四月二二日の大宮司実秀等連署和与状(香取文書)に「大戸神崎村田桜田以下神祭物等事」とみえ、香取社支配下の一社が当地にあった。正中二年(一三二五)一一月一一日の妙心等六名連署寄進状(大慈恩寺文書)には大戸おおと庄村田郷とみえる。また応永二〇年(一四一三)九月一七日の大戸大禰宜知行分田数注文(香取文書纂)には「七石二斗 村田三ケ村分 御そこく」とある。

村田村
むらたむら

[現在地名]和島村村田

村岡むらおか村の南の丘陵にあり、島崎しまざき川が左右の丘陵地から沖積地に出る左岸に位置する。南に大寺おおでら村・乙茂おとも(現出雲崎町)が続き、東は籠田かごた村。島崎川に沿ってはま街道が通る。至徳三年(一三八六)二月二六日の妙法寺日増置文(妙法寺文書)に「村田故也、但保内」の記載があり、乙面おとも保に属したと思われる。天文二〇年(一五五一)一〇月三日の景繁(姓欠ク)過所(小林文書)に「村田椎名分西方」とみえ、宛先は「村田 次郎兵衛所」の小林神左衛門尉とある。同文書を伝える小林家は、近世には籠田村庄屋を勤めた。同二二年六月一五日付の某知行宛行状(同文書)にも「村田西方之内柿裏屋敷」とあり、この地に村田の二郎右兵衛が扶持を得ている。

村田村
むらたむら

[現在地名]鳥栖市村田町むらたまち

朝日あさひ山の南、ぬま川左岸の低位段丘に立地。村内を長崎街道が東西に通る。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「村田庄」とみえ、文禄四年(一五九五)の豊臣秀吉朱印状写(鍋島家文書)に「村田」とみえる。

佐賀藩の藩政期、地米(年貢)高は三四六石余(貞享四年改郷村帳、嘉永六年写の大小配分石高帳)。貞享元年(一六八四)村田鍋島家の成立以来の私領で、同家は佐賀藩親類四家の一で石高六千石(物成二千四〇〇石)、この村田村をおもな知行地とした。

村田村
むらたむら

[現在地名]会津坂下町宮古みやこ

東を阿賀川が北流し、南は海老沢えびさわ村・細工名さいくな村。本村の東に続いて端村の東村田があり、本村の南西八町に端村新田しんでんがある。大同年中(八〇六―八一〇)猪苗代湖が陥没した際に当地に移住し、もとの地名を村名としたと伝える。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六六七石余。青津組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高八一四石余。化政期の家数は本村三一・東村田一三・新田四(新編会津風土記)

村田村
むらたむら

[現在地名]江戸崎町村田

江戸崎村の西南に位置し、清水しみず小野おの両川に挟まれた台地上にある。江戸時代は天領・旗本領で、元禄郷帳の村高は三四三石余。幕末は天領二五石余、旗本山田氏領三五五石余(各村旧高簿)

中央の台地に旧村社鹿島神社がある。社伝によれば、延元二年(一三三七)当村の清原氏が創建。天正年間(一五七三―九二)に江戸崎城主土岐氏が穀三石を寄進し、崇敬した。

村田村
むらたむら

[現在地名]菊池市村田

深川ふかがわ村の南にあり、花房はなぶさ台地北裾の沖積平野に立地する。隈府わいふ町高札辻より約三〇町。慶長四年(一五九九)検地帳に田七町五反三畝余・畠一五町六反四畝余・屋敷二町二反余、分米二一八石七斗余とある。同九年九月の検地帳では田八町六反余・畠一九町二反一畝余、分米二四二石余。近世は深川手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑での高二四八石余と大差はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報