村田郷
むらたごう
[現在地名]村田町村田
小泉村の北にあり、中央を南流する荒川(松尾川)が形成する小扇状地の谷口にあたる。東・西・北の三面は丘陵地で北西は足立村、西は刈田郡小村崎村(現蔵王町)。所であった村田館の東方には町場が形成され、六斎市なども立つ館下町として発展した。「封内風土記」によれば、古くは足立村と一村であったといい、戦国期に地名のみえる下足立を当地に比定する説もある。「安永風土記」には鎮守白鳥社の鰐口は永享三年(一四三一)村田政重(政望)・久重父子の寄進によるとみえ、嘉吉年間(一四四一―四四)常陸国真壁郡村田庄(現茨城県真壁郡明野町)から出た小山(村田)業朝が、伊達氏に属し当地に入り村田殿とよばれたといい(伊達世臣家譜)、地名は村田氏にちなむとの説もある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「むら田殿へ参候田代」のうちとして、「仁十仁〆五百文 下あしたて」などがみえ、村田氏六代近重には柴田郡内の六ヵ所に、合せて一〇八貫七〇〇文の所領があった。
村田郷
むらたごう
新田庄内の郷の一。上郷・下郷に分れ、村田・金井・反町と現太田市脇屋・寺井を含んだ地域。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「村田の郷 田十七町二反廿たい 畠三丁二反廿たい 在家十三う」と記される。惣郷地頭職は、新田氏の祖義重から嫡子義兼、妻新田尼を経て岩松時兼に譲られ、以後新田岩松家に相伝された(建保三年三月二二日「将軍家政所下文写」同文書など)。文保二年(一三一八)には岩松頼親が重代相伝の私領郷内の「辻在家一宇・内畠一町二段・田一丁七段」を八五貫文で大谷道海娘に売却した。この地には飯用途六八文・ひたたれ用途八文・御所屏修理用途三文・大番用途五〇文等の公事が課されていた(同年一〇月一八日「源頼親在家田畠売券案」長楽寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報