木ノ下村(読み)きのしたむら

日本歴史地名大系 「木ノ下村」の解説

木ノ下村
きのしたむら

[現在地名]大津市木下町きのしたちよう昭和町しようわちようまる内町うちちよう由美浜ゆみはま

西にししよう村の南にある。琵琶湖に面し、地内を通る東海道は四町四三間半余(宿村大概帳)膳所城下を形成する五村の一。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高三三〇石余、小物成六石余。慶安高辻帳では田二五九石余・畑六八石余・永荒二石余。膳所藩明細帳によれば鳥運上銀五匁を上納、役料(庄屋役料か)米二石を与えられていた。家数一一七・人数五〇六で、うち村方家数三四・人数一八二、町方家数八三・人数三二四で、東海道沿いの町屋は地子免除。村内を流れる相模さがみ川は膳所築城に伴い付替えられ現流路になったという。

木ノ下村
きのしたむら

[現在地名]青梅市木野下きのした

谷野やの村の東に位置する。滝山伝馬たきやまてんま街道が通り、真浄寺しんじようじ尾根赤坂あかさか峠を越える。また東の今井いまい村境を通る鎌倉街道は北の笹仁田ささにた峠を越える。慶長一八年(一六一三)二月、新開地の新町しんまち村への入村を求める幕府代官回状(「仁君開村記」吉野家文書)宛先に当村名がみえる。田園簿では田四五石余・畑四四石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の入会訴訟絵図(斎藤家蔵)目ノ内めのうち村とあるが、これはのち当村の小名の扱いとなっている。同八年の多麻郡三田領木ノ下村検地帳(青梅市史史料集)がある。

木ノ下村
きのしたむら

[現在地名]真室川町木ノ下

南流する大沢おおさわ川に西を、真室川に東を画される舌状地帯の山麓にあり、南方沖積低地田地となっている。木下村・木野下村とも記した。枝郷に寺内高畑たかはた宮野沢みやのさわがある。旧石器時代および縄文時代の集落跡、秋山あきやま遺跡があり、同所からは鎌倉時代に埋蔵されたと思われる開元通宝・乾元重宝・皇宋通宝など八〇キロにおよぶ唐宋銭が出土している。大沢・真室両川の落合にあるオクミ館跡は番城の一つとして鮭延さけのべ城主鮭延氏による築城という。元和八年(一六二二)の御前帳写では高一三七石余。寛文四年(一六六四)にはほかに新田高二二石余(新田本村鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報