西ノ庄村(読み)にしのしようむら

日本歴史地名大系 「西ノ庄村」の解説

西ノ庄村
にしのしようむら

[現在地名]近江八幡市西庄町にしのしようちよう

浅小井あさごい村の西から南に位置し、南は長田おさだ村、北は西にしの湖に面する。村のほぼ中央を朝鮮人街道が横断黒橋くろはし琵琶湖湖岸へ向かう道が分岐南下する。貞享二年(一六八五)大和郡山藩領となり、以後同藩領で幕末に至る(一時上知)。寛永石高帳では高二千九一三石余、慶安二年書上によると田二千五九六石余・畑屋敷一五七石余・永荒一五九石余、また庄屋は四名が置かれている。元禄郷帳では高一千九六〇石余と減少するが、理由は不明。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高は元禄郷帳に同じで反別は一〇四町八反余(うち上田八一町七反余、藺田五町七反余)、家数一七二(うち本百姓一二三・水呑四九)・人数六八〇、酒屋三・職人八・商人一八、村内に西縁さいえん(現浄土真宗本願寺派)教称きようしよう(同宗)徳応とくおう(現真宗大谷派)法円ほうえん(現浄土真宗本願寺派)円光えんこう(現真宗木辺派)のほか虚空蔵堂、十禅寺宮(現饒石神社)などがある。

西ノ庄村
にしのしようむら

[現在地名]大津市西の庄・昭和町しようわちよう木下町きのしたちようたつおか相模町さがみちよう湖城こじようおか膳所池ぜぜいけ内町うちちよう

琵琶湖に面し、集落は東海道沿いに営まれ、膳所城下町を形成する五村の最北端に位置する。中世粟津あわづの内で、その西部に所在したことに由来する地名であろう。地内を通る東海道六町四間余のうち四町四九間余と総門前の二八間余が町並(宿村大概帳)北西馬場ばんば村境には城下町の境であるため大津口総門と番所が設置されていた。分間延絵図でみると村境は湖に通じる堀が造成され、石橋を渡るとすぐに「惣門」と番所の堅固な建物が並ぶ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報