日本の高等教育(読み)にほんのこうとうきょういく

大学事典 「日本の高等教育」の解説

日本の高等教育
にほんのこうとうきょういく

高等教育という表現が日本で一般的に用いられるようになったのは,1990年代以降のせいぜいこの20年ほどでしかない。マーチントロウのいう「マス段階」から「ユニバーサル段階」への移行が進む中で,ようやく日本においても「高等教育」という言葉リアリティをもったということであろう。高等教育(日本)の定義は時代や社会によって少なからぬ多様性があり,普遍的に通用する定義づけは簡単ではない。ここではさしあたり日本に関する検討をするために,喜多村和之による定義を若干修正したものを用いたい。すなわち中等教育修了者以上を入学資格とする,国が認めた正規の学校によって提供されている教育機会という定義である。もちろんこれも完全な定義とはいえないにせよ,おおよそのところでの議論を進めるには十分であろう。以下ではこの定義の内容に拠って,近代高等教育制度が日本に導入されて以後の高等教育の基本的構造を中心に状況を概観する。便宜上,1949年(昭和24)までの旧学制期とそれ以後の新学制期とに分けて論じる。

[旧学制期]

この時期の高等教育は大まかにいえば大学,専門学校そして高等学校という3種の高等教育機関から構成されていた。しかし制度形成期である明治期の最初の30年間ほど,制度は試行錯誤を繰り返した。当初は「外国教師ニテ教授スル高尚ナル学校」(学制二編追加,1873年布達)であった専門学校(日本)は,次には「専門一科ノ学術ヲ授クル所」(教育令,1879年布告)とされ,さらに「各科ノ学業ヲ授クル所」(教育令再改正,1880年布告)となった。しかも専門学校に相当するとされた諸学校は実に多様な中身をもち,実態は中等教育機関というべきものも含まれた。「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」として専門学校が制度的に安定するのは1903年(明治36)の専門学校令制定以降である。その他の学校のすべてには触れられないが,たとえば高等学校(日本)も1894年までは高等中学校という中等教育の一種としての位置づけが与えられていたし,高等学校になってからも医・工・法などの「学部」が設置され,いうなれば専門学校化が目指された時期もあった。

 しかしながら明治末期までに,帝国大学およびその実質的予科としての高等学校と,他方で専門学校(高等師範学校などさまざまな学校が存在し,法令上は専門学校ではないが,同レベルの諸官制教育機関を含んで考える)という2層に明確に分かれた学校系列が成立する。天野郁夫が指摘しているように,その2層構造は官学と私学というもうひとつの軸と組み合わさって「二元重層的」な高等教育構造をなし,それが以後の旧学制期を通じて維持され,その基本的な特徴となる。いうまでもなくその構造が重要であったのは,それが単に教育年限の長さや教育課程の内容,設置形態の違いにとどまらず,人的・物的資源の差,その卒業者のキャリアや影響力といった人材養成機能の差,そしてそれらの結果としての社会的威信の格差を伴っていたからである。

 ただしこうした「二元重層的」構造が盤石であったかというとそうでもない。たとえば専門学校から大学を目指そうとする動きは根強く存在した。いわゆる昇格要求である。その要求の激化はときに高等教育構造を揺るがし,昇格の達成が重層構造の上下差をいささか縮める効果を持つこともあった。さらに,より直接的にその構造を揺るがしたのは,明治中期以後に繰り返し登場していた,大学と専門学校の一本化を目指す制度改革構想である。とくに昭和初年までにはそうした改革構想が広範な支持を得るようになっていた。しかしそれが旧学制期に実現しなかったのは,制度的慣性によるのみでなく,政策決定に強い影響力をもつ帝国大学存続論者たちが陰に陽に抵抗したためである。改革の実現には彼らを上回る権力をもった占領軍の登場を待たなければならなかった。

[新学制期]

第2次世界大戦敗戦後の学制改革によって単線型の教育制度が生まれ,高等教育機関は大学に一本化された。旧制機関の存続を目指す動きも根強くあったが,占領軍の認めるところとはならなかった。しかし大学への移行が人的・物的資源の不足によりできなかった旧制高等教育機関の救済策として,短期大学制度(日本)が1950年(昭和25)に暫定的に発足したことで,新学制も実質的には「重層的」構造をもってスタートしたのである。占領期の終了後にも,旧制専門学校レベルの技術者養成機関を求める産業界の主張が続き,短期大学の処理問題とあわせた対応策として専科大学案が50年代末に提案されたが実現しなかった。結局のところ高等専門学校制度(日本)の創設(1961年)および短期大学制度の恒久化(1964年)がなされるにとどまった。

 こうして三つの機関類型をもって高度成長期の高等教育大拡張時代を迎えることになるが,結果としてもたらされたのは,高等教育機関のさらなる多様化ではなく,むしろ4年制大学中心の高等教育構造である。高等専門学校は量的にはきわめてマイナーな存在であり続け,短期大学は拡大したとはいえ,ほぼ女子の短期高等教育機関化し,入学者数で大学の半分に達することもなかった。高度成長期の終焉とともに1975年(昭和50)に創設された専門学校制度は,その実学的教育内容と大学進学希望者に対するバッファー的機能により,短期間で短期大学を超える入学者数をもったが,1990年代半ばに拡大が止まってしまった。こうして1980年代半ばから90年代半ばまでの約10年間を例外として,大学はそれ以外の高等教育機関を合計したよりも大きな入学者規模を持ち続けてきた。

 旧学制期の高等教育構造が,非大学機関の多様性が大きく,また量的比重では大学がマイノリティであったのに対し,新学制期では機関類型の多様性は小さく,しかも大学が他機関を上回る大きな規模をもっていた。しかし新学制期にかつてのような機関類型間の序列構造がなくなったかと言えば,まったくそうではない。1990年代以降に多数見られる短期大学の4年制大学化はそれがもたらした一つの帰結であろう。さらに,拡大した大学部門の内部に旧学制期時代の序列構造が取り込まれ,加えて新設大学が多くの場合,序列の底辺に付け加えられる形で巨大なピラミッド構造が形成されていったことは周知の通りである。

 加えて,威信においてのみならず,大学の実態においてその多様性はかつてなく大きくなっている。高等教育機関相互の関係も変化している。短期大学・高等専門学校に加えて,一定の基準を満たした専門学校卒業生にも大学編入学の門戸が開かれた(1998年)。1991年(平成3)には学位授与機構(日本)(大学改革支援・学位授与機構の前身)が創設され,学士の取得ルートは大学以外の高等教育機関にも開かれるようになった。さらに学士をもっていなくても,大学院入学資格を得ることが可能になった(1999年)。このように今日では大学部門が大きな比重をもちつつ,その内部での多様性を増大させ,かつ高等教育全体の柔構造化も進んでいる。そうした変化を背景に冒頭で述べたように高等教育という言葉がリアリティをもつようになっているといってよいだろう。
著者: 伊藤彰浩

参考文献: 天野郁夫『高等教育の日本的構造』玉川大学出版部,1986.

参考文献: 喜多村和之『現代の大学・高等教育』玉川大学出版部,1999.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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