日ソ基本条約(読み)ニッソキホンジョウヤク

デジタル大辞泉 「日ソ基本条約」の意味・読み・例文・類語

にっソ‐きほんじょうやく〔‐キホンデウヤク〕【日ソ基本条約】

大正14年(1925)日本と革命後のソ連との間に結ばれた条約外交関係の樹立、ポーツマス条約有効性などを確認

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改訂新版 世界大百科事典 「日ソ基本条約」の意味・わかりやすい解説

日ソ基本条約 (にっソきほんじょうやく)

ロシア革命により断絶していた日本とソビエト・ロシアとの国交を回復させた条約。1925年1月20日,北京で日本全権芳沢謙吉とソ連全権カラハンL.M.Karakhanとの間で調印された。シベリア出兵中の日ソ国交調整のための大連会議や長春会議は機が熟さず決裂し,日本軍は1922年10月沿海州から撤兵,11月ソビエト政府は極東共和国を合併してロシア全土を統一した。このころアメリカ石油資本が北樺太油田開発の着手を試みて日本海軍を強く刺激し,また,極東ソ連領漁業もソビエト政府が支配して極東共和国合併以前の漁業条約を無効とするなどの政策を推進した。これらの懸案打開のため,後藤新平は中国にいたソビエト全権代表A.A.ヨッフェを日本に招いて私的会談後藤=ヨッフェ会談)をもち(1923年3月7日~6月16日),さらにこれを駐ポーランド公使川上俊彦との予備交渉に引きついだ(1923年6月28日~7月31日)。これらの交渉では北樺太問題,尼港事件問題,宣伝禁止問題が論議され,のちの日ソ間交渉の地ならしの役を果たした。23年9月18日,山本権兵衛内閣は駐華公使芳沢謙吉にヨッフェの後任者カラハンとの接触を指示し,同時に外務当局をして対ソ政策原案を作成させた。国内では山本,清浦奎吾,加藤高明内閣と推移し,ワシントン会議や24年の排日移民法などにより,日本の孤立化が危惧されると日ソ国交回復の声も高まった。国際的には24年2月から3月にかけてイギリス,イタリアを皮切りにアメリカ(1933年11月国交正常化)を除く各国が相次いでソビエト政府を正式に承認し,ソ連の国際的地位は強化された。芳沢=カラハン間の長期にわたる北京会談の結果まとまった条約は7条からなり,(1)外交・領事関係の確立,(2)ポーツマス条約有効の確認,その他の条約・協定は審査のうえ改廃,(3)漁業条約の改訂,(4)通商条約の締結とそれまでの居住・旅行の自由など暫定措置,(5)平和友好関係の維持,相互の内政不干渉,(6)ソビエト領内における利権許与,がその主要点である。別に付属議定書があり,甲ではロシア帝国債務は今後の調整にまち,日本軍の北樺太撤兵は25年5月15日までとし,乙では北樺太油田の利権が規定されている。なお付属公文で,カラハンの名で尼港事件に対し深い遺憾の意を表している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日ソ基本条約」の意味・わかりやすい解説

日ソ基本条約
にっそきほんじょうやく

1925年(大正14)1月20日に北京(ペキン)で調印された日本と当時のソ連との間の関係を律する基本的法則に関する条約。この条約により、日ソ両国は1917年の革命以後断絶していた外交・領事関係を確立し、日露戦争の終結に際して結ばれた1905年(明治38)のポーツマス条約が完全に効力を存続することを確認した。また、同条約議定書(甲)により、日本は当時北樺太(からふと)(サハリン)を占領していた日本国軍隊を25年5月15日までに撤退させることを約し、同条約議定書(乙)により、ソ連は北樺太における油田開発の利権を、日本に許与することを約した。日ソ国交樹立によって共産主義が広がることを恐れた日本は、同条約に秩序と安寧を危うくするようなことは行わないとの項を入れさせるとともに、国内では治安維持法を制定した。

[中西 治]

『日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第一巻 満州事変前夜』(1963・朝日新聞社)』『鹿島平和研究所編『日本外交史 第15巻 日ソ国交問題1917―1945』(1970・鹿島研究所出版会)』『クタコフ著、ソビエト外交研究会訳『日ソ外交関係史 第一巻』(1965・刀江書院)』

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百科事典マイペディア 「日ソ基本条約」の意味・わかりやすい解説

日ソ基本条約【にっソきほんじょうやく】

日本・ソ連間の国交樹立を決定した条約。日本は,初めシベリアに成立した極東共和国と交渉し決裂,同国のソ連統合後,1923年の後藤=ヨッフェ会談も決裂したが,1924年北京でカラハン・芳沢謙吉が会談開始,翌1925年調印。外交関係の樹立,通商条約調印,旧ロシアとの条約等の破棄を定め,日本は北樺太(からふと)(サハリン)の石油・石炭開発権を獲得。ソ連崩壊後,ロシア共和国がその権利・義務を継承。
→関連項目シベリア出兵

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日ソ基本条約」の解説

日ソ基本条約
にっソきほんじょうやく

ロシア革命後のソ連と日本の国交正常化を律する基本原則を定めた条約。1925年(大正14)1月20日北京で調印。1922年の長春会議の決裂後,ソ連は極東共和国を併合し,翌年から国交回復交渉は日ソ直接交渉の形となり,川上俊彦(としつね)とヨッフェ,芳沢謙吉とカラハンの予備交渉などをへて,24年5月からの芳沢・カラハン正式交渉によって実現した。外交・領事関係の確立,日露講和条約の存続,漁業条約の維持と改訂,相互の内政不干渉,ソ連側天然資源利権の日本への供与などが主内容。二つの議定書では日本軍の北樺太撤退期限,北樺太石油利権に関する規定などを約定した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日ソ基本条約」の解説

日ソ基本条約
にっソきほんじょうやく

1925年1月,北京で調印されたソ連と日本との国交樹立のための条約
シベリア出兵でのびていたが,いわゆる幣原 (しではら) 外交の線で促進され,44回の交渉ののちようやく締結した。外交領事関係の確立,ポーツマス条約効力の確認,平和友好関係の維持,内政不干渉などを規定。

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世界大百科事典(旧版)内の日ソ基本条約の言及

【ソビエト連邦】より

…日本は侵略した側であったが,1920年春,ニコラエフスク市の日本人居留民虐殺事件,いわゆる〈尼港事件〉は〈過激派〉の恐ろしさを日本国民に印象づけるために十二分に利用された。
[日ソ基本条約]
 シベリア戦争に結着をつけ,日ソ国交を開いたのは,25年1月20日調印の日ソ基本条約と付属議定書であった。日本はソ連に1905年のポーツマス条約を認めさせ,北サハリンにおける油田の50%の利権供与を約束させた。…

【ロシア】より

…ロシア革命後の混乱期の18‐21年に日本政府はシベリアに軍隊を送ったが,ソビエト政権打倒には至らなかった。25年には日ソ基本条約が結ばれて国交が回復した。30年代には満州国に駐留する関東軍とソ連軍とのあいだに何回か武力衝突が繰り返された。…

※「日ソ基本条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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