新宮村(読み)しんぐうむら

日本歴史地名大系 「新宮村」の解説

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]新宮村新宮

現新宮村の中心部にあたる深い山谷の村。銅山どうざん川が村の西から流入、V字形に屈曲し東方に流出する。銅山川と土佐道の交差地にあたり、東を上山かみやま村、南を上山村・馬立うまたて村、西を馬立村、北を馬立村・上山村に囲まれる。道は険阻で、耕地や集落は山腹や谷沿いの宮川みやがわ大沢おおさわ中西なかにし清水しみず亀井かめい黒田くろだみなみ青山あおやま高木たかぎなどに点在する(伊予国宇摩郡地誌)

村内の熊野神社境内出土の貞応二年(一二二三)の神鏡銘文に「伊予国宇麻郡 古美新宮」とあるのが地名の初見で、文政八年(一八二五)の伊予国宇摩郡村々様子大概書に「天正十九年福島左衛門大夫検地 本高百十五石二斗九升五合 新宮村」とあり、また慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「新宮村 日損所、はへ山有、川有」ともある。

「和名抄」にみえる山田やまだ郷に属したとされ、古代の官道と阿波国通路の銅山川(山城やましろ川)の交差地として早く開け、大同二年(八〇七)に熊野神社を勧請して(社伝、伊予温故録)古美こみを新宮と改めたとの伝えもある。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]広瀬町富田とだ

がつ山北東麓の谷間に位置し、東方に独松どくしよう(三二〇・六メートル)がそびえる。中世に紀伊熊野新宮が勧請されたため、このような地名が生れたと考えられる。富田師泰の子貞泰は新宮氏を称し、康暦元年(一三七九)にはその子新宮清綱が新宮城の合戦で死亡している(続群書類従本「佐々木系図」)。谷は中央に丘陵を挟んでみなみ谷と北谷に分れるが、丘陵上には城郭の跡がみられ、これが新宮城に比定される。戦国時代には尼子経久の次男国久が新宮谷に館を構え、その一族は新宮党とよばれたが、天文二三年(一五五四)一一月に尼子晴久によって滅ぼされた。新宮谷は月山南側のしお谷とともに尼子氏とその重臣の館が営まれた場所で、現在も北谷中央の太夫成だゆうなりに新宮党館跡が残る。谷の入口には尼子氏降伏後富田城を支配した毛利(富田)元秋の菩提寺宗松そうしよう寺跡があり、前谷中央の月山から延びる丘陵上には堀尾吉晴の子忠氏の墓もある。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]高山市新宮町

川上かわかみ川右岸にあり、高山街道が通る。北の上流側は下之切しものきり村、東は山田やまだ村・下岡本しもおかもと村。村名は当地に鎮座する新宮神社に由来するという。宛先を欠くが、天正一五年(一五八七)一二月一三日の知行分状(池上文書)に「川上之郷神宮村之内」とみえるのは当地か。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では川上郷に村名がみえる。中野なかの(現大野郡清見村)とともに高付され高六四八石余、うち田方六四〇石余・畑方七石余、物成高二一七石余。同一八年の郷帳では新宮村として高四一三石。元禄検地反歩帳の高二一八石余、田三一町四反余・畑三町一反余。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]綾部市本宮ほんぐう町・新宮町・並松なんまつ町・上野うえの

本宮山東麓の由良川河畔より北西に広がる。綾部郷一二ヵ村の一。坪内つぼのうち村との境界は不明である。天保年間(一八三〇―四四)の田畑反別石高其他(沼田家文書)には「村境 田畑人家入会之村方ニ付仕訳不相成候也、但文化十一年二月天文方廻村之節書上ケ帳ニも雛形通書上不相成候段相届候済」と記す。

村名の由来は熊野新宮神社(現並松町)の社名による。縁起一巻(田畑反別石高其他)は次のように述べる。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]喜多方市慶徳町新宮けいとくまちしんぐう

慶徳村の南、にごり川の西岸に位置する。同川を隔てて南東は田原たわら(現塩川町)、南は山崎やまざき村。往時、小松少将が当地に流され住していたので小松こまつ村と称していたが、応徳二年(一〇八五)源義家が河沼郡熊野堂くまのどう(現河東町)から熊野新宮(現熊野神社)を当地に勧請、以来新宮村と改めたという(「新編会津風土記」など)。本村の北西に小山こやま、北に小館こたての端村がある。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]新宮町新宮

揖保川中流域右岸に位置し、揖東いつとう郡に属した。西は揖西いつさい平野ひらの村。美作道が通り、村内の一部が町場化し、新宮町とよばれた。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)鵤藩池田氏領となる。寛永四年(一六二七)池田氏は陣屋をいかるが(現太子町)から当村に移したため新宮藩領となる。寛文一〇年(一六七〇)藩主池田邦照が幼年で没したため領知没収となったが、邦照の弟重教に改めて本領のうち三千石が与えられ旗本池田領となり、幕末まで続いた(以上「池田家系譜」池田家文書、元和三年「揖東郡郷帳」同文書など)

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]志雄町新宮

原御前はらごぜんの山麓、新宮川上流部を村域とする。北は散田さんでん村。赤蔵あかくら山への登り口にあたり、一五世紀までには村内に赤蔵権現の新宮が鎮祭されていた。正保郷帳によると高一五五石余、田方六町三反・畑方四町余、免三ツ五厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(岡山文書)では高一八九石、免四ツ八歩、小物成は山役六三匁・苦竹役一六匁、鳥役六匁(出来)。天和二年(一六八二)四三石の検地引高があり(志雄町史)、天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると高一四七石余、家数三四・人数一四二、馬三、稼は杪・苧・木綿。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]野市町新宮

中山田なかやまだ村の西に続く村で、熊野新宮を祀る熊野神社が鎮座。「土佐州郡志」に「東西九町余南北三町許、戸凡五十余」とみえ、南は平地で西北に山を負い、新宮溝が村の西端を北流し、宮屋敷みややしきから東流してなかノ村に入る。中央部を大忍おおさと道から分岐した富家ふけ往還(現県道山北―野市線)が通り、東北に延びて山北やまぎた(現香我美町)に至る。香宗我部こうそがべ郷に属し、天正一六年(一五八八)の香宗分地検帳に村名がみえる。地積は中山田村・兎田村と合せて五一町六反余。同年の東深淵郷地検帳にも「新宮ノ村」「新宮西村」として地積三町六反余が記されており、一部は大谷分に含まれた。香宗分地検帳によると村内に新宮のほか長細寺・観音堂があったが、観音堂は当時すでに退転していた。

新宮村
しんぐうむら

面積:七八・三〇平方キロ

宇摩郡東南部の村。石鎚いしづち山脈と支脈法皇ほうおう山脈の谷間の山村で、嶺南れいなん地域(法皇山脈の南側)の東部を占める。東は徳島県三好みよし郡に、南はささみね(一〇二七メートル)などを隔てて高知県長岡ながおか郡に、西は伊予三島市に、北は法皇山脈を隔てて川之江市に接する。銅山どうざん川が村内北部を西から東に貫流して徳島県に流出する。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]気高町睦逢むつお

会下えげ村の南、逢坂おうさか谷中央部西方の山麓に位置する。南は橋詰はしづめ村。「因幡志」は枝郷として鷺山さぎやまをあげる。拝領高は一七二石余。高木氏・加藤氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数一六。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一八三石余、竈数一七。産土神は新宮大明神(現新宮神社)、ほかに同社末社の松神まつがみ社・荒神社(二)、観音を本尊とする辻堂などがあった(因幡志)

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]麻生町新宮

東は北浦に面し、北は天掛あまがけ村。中世は小牧こまき郷のうちにあり(新編常陸国誌)、古くは鹿島神宮領であったが、後に小高氏の支配地となり、天正年間(一五七三―九二)小高氏の娘が相賀おうが城主に嫁した時、娘に付属させた土地という(前島家文書)。戦国末期に佐竹氏領となったが、慶長七年(一六〇二)の同氏の秋田移封により、同年出羽国矢島やじま(現秋田県由利郡)から打越光隆が三千石で入封。元和九年(一六二三)同氏が再び矢島に移るまで新宮城に居住した(新編常陸国誌)

新宮村
しんみやむら

[現在地名]五所川原市新宮

岩木川下流右岸に位置し、東は平井ひらい村、南は柏原かしわばら村、北西は田川たがわ村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に田方二四町二反二畝・畑方一町九反三畝二五歩、田畑屋敷合せて二六町一反五畝二五歩、村高一九六・四三五石、漆木一本とある。寛永年間(一六二四―四四)から開発が始まった五所川原新田の一つで(平山日記)、天和元年(一六八一)五所川原遣に入った(五所川原町誌)。元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数一二、うち庄屋一・百姓一一であった。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]揖斐川町新宮

大門だいもん村の南東に位置する。地内東部の二之宮にのみや神社に対し新宮があったが、織田信長の兵火にかかり焼失、のち宮廓みやくるわに再建したのが神明神社という。慶長郷帳に村名がみえ、高一五四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領。正保郷帳では尾張藩領で、田一三七石余・畑一七石余、山札米六斗。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]加茂町新宮

東は砂子原すなごはら村、南西は加茂中村、北西は東谷ひがしだに村。東西六町・南北八町ときわめて狭い地域である(郡村誌)。建武五年(一三三八)閏七月一五日の柳田左衛門尉書下写(南山巡狩録)に「香折新宮」とみえ、同地の三沢十郎三郎為家への沙汰が確認されるが、この文書は検討を要する。慶長七年(一六〇二)の新宮村検地帳では田畑合計四町八反余・分米五八石余、屋敷数五。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]宮津市字新宮

わき村より南西に山間を入ったところにある村。北は山中やまなか村を通って宮津城下へ、南は板戸いたど峠を越えて加佐郡上漆原かみうるしばら(現舞鶴市)へ道が通じる。

近世初期には慶長検地郷村帳にみえる栗田くんだ村に含まれていたと考えられ、延宝三年郷村帳に「栗田新宮村」高一一九・七〇五石と記される。

新宮村
しんぐうむら

[現在地名]丹波町字豊田とよた

高屋たかや川北岸の新宮池の北にある、幅約一〇〇メートル、長さ一・五キロの通称新宮谷の村。東はたに村、東から南は紅井くれない村、西は橋爪はしづめ(現瑞穂町)、北は質美しつみ(現瑞穂町)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報