熊野神社(読み)くまのじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「熊野神社」の意味・読み・例文・類語

くまの‐じんじゃ【熊野神社】

熊野三社を本宮として全国各地に分祀された氏神、産土神(うぶすながみ)の神社。その数は三千社をこえる。
[一] 島根県松江市八雲町熊野にある神社。旧国幣大社。祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したのち宮を定めた地で、上代の起源と伝えられる。出雲大社新嘗祭のための鑽火(きりび)祭は有名。出雲国一の宮。熊野大社。
[二] 群馬県碓氷(うすい)郡松井田町峠にある神社。長野県軽井沢町にまたがる。旧県社。祭神は速玉之男命(はやたまのおのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。日本武尊が東夷征伐のとき、熊野三社を勧請(かんじょう)したと伝えられる。碓氷権現。
[三] 福島県いわき市錦町御宝殿にある神社。旧県社。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、予母都事解命(よもつことさかのみこと)。平城天皇の勅願所で、大同二年(八〇七)熊野速玉大社(新宮)を勧請(かんじょう)したもの。御宝殿権現。
[四] 山形県南陽市宮内にある神社。旧県社。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)。大同元年(八〇六)平城天皇の勅命により創建されたと伝える。藩主上杉氏の崇敬をうけた。熊野大社。

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日本歴史地名大系 「熊野神社」の解説

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]南陽市宮内 坂町

宮内みやうち集落北西部の小丘陵上にあり、南に米沢盆地・吾妻あづま連峰を一望する。祭神は本宮は伊弉冊尊ほか一六柱、二宮は速玉之男神、三宮は事解之男神。旧県社。末社は義家よしいえ神社・景政かげまさ神社など二三社を数える。もと熊野権現と称し、熊野山証誠しようじよう寺が別当を務めた。寛政一二年(一八〇〇)大津神主が記した熊野宮一山古今日記(大津文書)によれば、平城天皇の勅令により大同元年(八〇六)創建され、寛治五年(一〇九一)源義家の命により、鎌倉権五郎景政が紀州熊野の三所大神と十二所神を勧請し、社領を寄進したという。一方、熊野宮由来記(同文書)では、康平六年(一〇六三)源義家が戦勝の記念に社殿を造営し、太刀三振・神鏡三面・獅子一頭などを納め、社領三〇〇貫文を寄進したという。しかし勧請年代が比較的確実な東北の熊野神社で平安時代中期をさかのぼるのは一社もないことから、熊野信仰の浸透する平安時代末期から中世にかけての創建とする説もある。

文治五年(一一八九)の奥州合戦後、大江広元が置賜おきたまの三庄一郡の地頭職を拝領、その後大江長井氏が当社の檀那となる。建長二年(一二五〇)には長井泰秀、嘉元元年(一三〇三)には長井貞秀弟の宮内大夫、その弟少輔上総介時茂など長井氏一門により修理造営が行われている(前掲古今日記)。一四世紀の八〇年に入ると伊達家八代宗遠が置賜地方を支配した。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]左京区聖護院山王町

聖護しようご院の西、丸太町まるたまち通と東大路ひがしおおじ通の交差地の北西角に位置する。伊弉冉いざなみ命・伊弉諾いざなぎ命・速玉男はやたまのお命・天照あまてらす大神・事解男ことさかのお命を祭神とする旧郷社。社伝によれば弘仁二年(八一一)日円阿闍梨の勧請により創建されたと伝えるが、「中右記」康和五年(一一〇三)三月一一日条には「今日僧正増誉、於白川辺祭熊野新宮御霊云々」とみえ、園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)の僧(法成寺座主)増誉が、白河上皇の意を受けて、熊野新宮御霊を勧請したのが創祀と思われる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]畑野町畑野

玉林ぎよくりん寺の隣、玉林寺小路にある。祭神櫛御気野命。出雲国八束やつか郡熊野村(現島根県八束郡八雲村)から分祀したと伝える。下畑しもばたの字注連しめうちにあったのを、昭和に入って現在地に移した。旧社地周辺には、晦日田みそかだ馬上免ばじようめん・からさき馬場ばば・すゝはらい・神宮寺免じんぐうじめん禰宜作ねぎつくり祓畑みそぎはたなどの地名がある。文安四年(一四四七)一〇月二三日の執行道珍跡配分目録(米良文書)に「佐渡国計良・中河一族」などの檀那職がみえ、寛宝房に譲られている。計良氏・中河氏は畑両はたりよう村を本拠とし、戦国期には雑太本間氏の有力家臣であった。年未詳の小田名字在所注文写(同文書)に「佐渡国はたミうらニ一円ニ被居候」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]喜多方市慶徳町新宮 熊野

新宮しんぐう集落の西方山麓に位置し、会津熊野社・新宮熊野社などともよばれる。伊邪那美命・速玉男命などを祀り、旧県社。元禄一五年(一七〇二)撰述された当社の社記「新宮雑葉記」などによると、前九年の役で奥州に下向した源義家が天喜五年(一〇五七)に紀伊熊野の本宮・新宮・那智三社を河沼郡熊野堂くまのどう(現河東町)に勧請したのが草創という。その後、後三年の役のとき再度奥州に下った義家は応徳二年(一〇八五)本宮を耶麻郡岩沢いわさわ村、那智を同郡宇津野うつの(現熱塩加納村)、新宮を同郡小松こまつ村にそれぞれ遷座したと伝え、このうち小松村に移された新宮が当社とされる。なおこのとき小松村は新宮村に改められたという。その後、当神社に付属して「三密喩伽ノ道場」も建立され、三〇〇余の衆徒、一〇〇余の神職を置く隆盛を誇ったという。また治承―寿永(一一七七―八五)の内乱の際には、平家方にくみした越後の城四郎長茂や恵日えにち(現磐梯町)の勢によって社領を押領されたが、建久三年(一一九二)源頼朝によって二〇〇町の社領を復されたと伝える(新宮雑葉記)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]倉敷市林

蟻峰ぎほう山の北西山麓に鎮座する。旧郷社。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命など一三柱。紀伊熊野神社に対して新熊野いまくまのと称する。「新熊野御伝記」などによれば、文武天皇三年(六九九)に役小角が伊豆大島へ流されたのち、連座を配慮した五人の高弟(義学・義玄・義真・寿玄・芳玄)が紀州熊野十二所権現の神体を奉じて西海に難を避けた。漂泊ののち児島の柘榴ざくろ浜に上陸、地主神福岡明神に導かれてはやし村に鎮座したのが創始という。高弟五人が開いた尊瀧そんりゆう院・大法だいほう院・報恩ほうおん院・伝法でんぽう院・建徳けんとく(和気絹)を五流といい、児島五流ともいわれる。天平宝字五年(七六一)木見きみ村に諸興しよこう(新宮、元禄期に廃寺)を建て、やま村に熊野那智なち山にちなみ瑜伽ゆが寺を建て、熊野権現(本宮)とともに新熊野三山と称したという(備陽国誌)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]干潟町清和乙

松沢まつざわ集落の東方にある。祭神は速玉男命・伊邪那美命・事解之男命。東京国立博物館が所蔵する福徳二年(延徳二年、一四九〇)八月日の鰐口銘に松沢大権現とみえる。天保二年(一八三一)の熊野大神三川浦御幸図写(海上町史)によれば、大同元年(八〇六)海上うなかみ三川さんがわ(現飯岡町)の浦長我留前氏の夢に紀州の熊野大神の魂が現れ、いずれ陰陽二つの神石が光を放って流れ着くだろうというお告げがあった。それから一五〇年を経た天暦九年(九五五)に我留前氏の夢に再び現れた魂は、西に清い場所があるのでそこへ移ると告げたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]三次市畠敷町

中世三吉氏の本拠のあった比叡尾ひえび山の西南麓にある。若一王子わかいちおうじ社または王子権現と称したが明治三年(一八七〇)熊野神社と改めた。伊弉冊尊・事解男命・速玉男命・雄略天皇を祀る。旧村社。

雄略天皇に関する伝説があり、「芸藩通志」に「里俗相伝ふ、幼武皇子即雄略天皇皇都を出て諸国に行き、この村にも住し給ふ地名王の壇とよぶあり、古蹟部に載すその時、紀伊熊野神を祈る、帝位を求め給ふ、即位の後、以茅麻呂をして熊野神社を此地に建てしむ、崩御の後天皇をも合せ祭る」と記し、王の壇おうのだんについても「伝云、若一王子の坐ませし所なり、王子は雄略帝の御事とす、(中略)壇の広さ、方六段、廬舎を建つるを禁ず、建れば災ありといふ」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]寒河江市平塩

平塩ひらしお集落の南西端に鎮座。祭神は伊弉諾尊・櫛御気野命・速玉之男命・事解之男神。旧郷社。明治初年の神仏分離までは現真言宗智山派の平塩へいえん寺が別当を勤めた。平塩寺はもと如法堂と称し、勝覚の開山。宥実の代の明暦元年(一六五五)平塩寺と改めたといい、学頭職も兼ねていた(「平塩寺当山世代記」平塩寺文書)

勧請の時代や経緯についてはつまびらかでないが、社伝は、養老元年(七一七)行基が紀伊熊野三所権現を勧請したとする(貞享元年「熊野権現社領書上」大江文書など)。当社に天喜五年(一〇五七)正月一七日銘、康平五年(一〇六二)四月三日銘の二面の御正体鏡があり、江戸時代初期から源頼義・義家父子が所願成就のために奉納したものと伝えていた(慶長七年三月一五日「最上家親書状」社蔵文書)。寒河江庄に大江氏が地頭として入部すると、同氏の保護を受け、旧来からの社領を安堵されたという(「由緒書」社蔵文書)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]筑後市熊野

旧郷社。祭神は熊野坐神・熊野速玉神・熊野那智神。広川ひろかわ庄の鎮守で、明治初年まで神宮寺である坂東ばんどう寺とともに坂東寺熊野権現宮などと称された。神武天皇代に創建されたとも(寛文十年寺社開基)、延暦年中(七八二―八〇六)に最澄が建立したとも伝えるが(元弘四年二月九日「弁賀等連署契状案」岡本文書/鎌倉遺文四二)、広川庄の領家職が紀伊熊野社(現和歌山県本宮町の熊野本宮大社)に移った保延四年(一一三八)の勧請と考えられよう(「筑後市史」など)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]塩山市熊野

しお川東岸、熊野地区西部の丘陵上にある。祭神は伊弉冊尊・速玉男命・事解男命・忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊。旧郷社。社伝によると、大同二年(八〇七)後白河法皇の勅命により紀伊熊野社から勧請されたという。文保二年(一三一八)・寛正三年(一四六二)一二月に社殿の造営が行われ(宝永二年「熊野神社由緒書」熊野神社文書)、応仁元年(一四六七)には武田信長らにより本殿が再興された(同年一二月一九日「棟札銘」当社蔵)。その後天文一八年(一五四九)にも造替が行われた(同年六月二九日「棟札銘」甲斐国志)

永禄二年(一五五九)三月二七日の武田晴信判物(熊野神社文書)によれば、別当寺神宮寺の前別当が社領を勝手に売却したため、当社では若干の買戻しを行いつつ晴信に訴訟した。その結果、買取れなかった分については損亡扱いにして課税の対象から外し、改めて晴信が社領を寄進して神主に祭礼の維持・執行を命じている。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]土佐山田町新改

新改しんがい川と支流川との合流点の東に鎮座。旧郷社。祭神は伊弉冊大神。勧請の年次は不明であるが、現存の棟札などによれば、当地には松本山王まつもとさんのう権現または三所さんしよ権現とよばれた社、熊野三所くまのさんしよ権現または山王権現とよばれた社、および西谷にしたに権現とよばれた社が別々にあり、のち松本山王権現と西谷権現は退転し、熊野三所権現に合祀されたのが現在の熊野神社で、社殿は宝永五年(一七〇八)の建築であることがわかる。なお延享五年(一七四八)の堂社来歴御改牒(当社蔵)によれば、正徳五年(一七一五)松本山王権現社修復の際に「内棟木之裏ニ権現上棟勝福寺鎮守延文五庚子阿闍梨公覚与書付御座候」とあったとあり、延享五年の改修では、厨子銘に「文和四乙未二月時正仲遷宮当山寺務僧公文見」と記されていたとある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]婦中町中名

中名なかのみよう集落中央の辻、字北浦きたうらに東面してあり、「延喜式」神名帳婦負郡七座の一つに比定する説がある。旧村社。式内社を称する熊野神社は富山市宮保みやのほ・婦中町友坂ともさか・同町熊野道やんど・同町中名の四社がある。宮保の社のみ神通川の東に位置し、近世には新川にいかわ郡に属したが、近世初期以前は婦負郡に属していた。祭神は熊野道・中名の両社は伊弉冉尊・事解男神・速玉男神の三神。宮保の社は櫛御気奴神とする説もある(特選神名牒)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]八代町北

きた集落の南部、県道八代―芦川あしがわ三珠みたま(旧若彦路)の南側に鎮座する。祭神は伊弉冊命・速玉男命・事解男命。旧郷社。社伝によれば、朱鳥年間(六八六―六八七)に紀伊国から勧請されたという。八代庄の鎮守で、近世には南北に分れた八代村の鎮守となった(甲斐国志)

永禄四年(一五六一)の番帳に二〇番「八代の禰宜」とみえ、当社の社家衆が、長井ながいの天神社とともに府中八幡神社に参勤するように命じられている。天正四年(一五七六)一一月一九日の武田勝頼判物(熊野神社文書)では、一乗院が当社の別当寺宮坊の支配を指示され、寺中での朝暮の勤行を命じられている。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]松井田町峠、長野県北佐久郡軽井沢町峠

群馬県と長野県境のかつて中山道が通った碓氷峠に鎮座。社殿は両県にまたがって建ち、参道・本宮の中央を県境が通る。本宮の祭神は伊邪那美命、群馬県側新宮は速玉男命、長野県側那智宮に事解男命を祀る。旧県社。由緒記(軽井沢町志)によると古くは長倉神社熊野宮または長倉山熊野大権現と称したが、社地が信濃・上野の境界と定められて上野国にまたがることになったため、熊野宮とのみ称するようになった。碓氷神社とも称し、のちには熊野大権現と称することが多く、慶応四年(一八六八)熊野皇太神社と改称したという。信州からの道は、東山道の時代には当地南方の入山いりやま峠を通っていたと考えられ、当地を通るようになったとき当社も遷座したとする説もある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]境町稲尾

稲尾いなおの南西端、南に長井戸ながいど沼を望む台地に鎮座。本殿献額に「熊野三大神」とある。祭神木々之智神。旧村社。神仏習合の時代に隆盛をきわめ、明治三六年(一九〇三)の熊野神社縁起書(桜井家文書)に、

<資料は省略されています>

などと記され、別当の妙法みようほう寺と一体であった。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)には「天台宗新宮山行徳院妙法寺、但シ境内壱町八反、内五反歩余畑、熊野宮壱ケ所、是ハ牧野備後守様御建立被遊候」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]馬路村馬路 相名

安田やすだ川の東岸山麓に鎮座。祭神は伊弉諾命・伊弉冊命などのほか平重盛。相殿に山祇やまずみ神社・地主神社を祀る。旧郷社。馬路・相那あいな東川ひがしごうなかかわ川平かわひら土川つちかわなど安田川上流一帯の総鎮守とされる。

文治二年(一一八六)平重盛の家臣大野源太左衛門尉盛高が紀州の熊野新宮を勧請したと伝え、古くは十三社妙見大権現と称した。「蠧簡集木屑」には妙見社棟札として永禄六年(一五六三)のものが載るが、「南路志」には永正一六年(一五一九)記銘のものをはじめ九枚あるとみえる。

熊野神社
いやじんじや

[現在地名]御坊市熊野

みや山に鎮座。もと熊野権現社と号し、祭神伊弉諾いざなぎ命・伊弉冊いざなみ命・天照あまてらす皇大神・猿田彦さるたひこ神ほか。旧村社。熊野神社延記録書写・熊野神社御祝写(社蔵)によれば、勧請年代は不明であるが、当社の神は塩屋しおや浦の海辺から出現したとある。延記録書は慶長年中(一五九六―一六一五)に当社神主が天平元年(七二九)以来神社に伝わる史料を写したものというが、年代的に問題があり、中世以前の神社の様子については不明。近世には疱瘡神として信仰を集め、徳川頼宣の紀伊入国後、代々和歌山藩主の庇護を受けた。宝永二年(一七〇五)には徳川吉宗の疱瘡本快で供料一二俵が奉納された(「平朝臣為隆起願状」社蔵)。享保五年(一七二〇)に社殿造替が行われ、同八年に境内殺生禁断の制札が藩から出されている(「熊野権現宮記録」社蔵)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]東洋町甲浦

甲浦かんのうら内港埠頭の中央、かぶと山に鎮座。祭神は伊弉那岐命ほか四神。近世は三所権現とよばれた。「南路志」は寛政三年(一七九一)の浦分改帳を引いて、「当社ハ紀州熊野より二子島へ御飛来り、甲浦在家七軒上スミヤ・下スミヤと申者共、千光寺山内勧請、其後元親公今の甲山へ」と記す。

熊野信仰の土佐伝播には海上交通が大きな役割をもったと考えられるから、その入口ともいえる甲浦に熊野神が勧請されたのも早かったはずで、二子ふたご島への飛来も平安時代末期のことかといわれる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]野津町西神野

臼杵うすき川に近い字さこにある。祭神は伊邪那美命・事解男命・速玉男命。中世には神野こうの宮と称された(天文七年と推定される八月二九日「清田鑑鋼書状」広田文書)。上方山腹にある洞窟内に奥宮が祀られることから近世にはあな権現とよばれ、また俗にシシ権現とも称された。久安二年(一一四六)宇目うめ(現宇目町)の人清王太郎・二郎兄弟により祀られたと伝える(臼杵小鑑・寺社考)。延徳四年(一四九二)一一月一日の野津院西神野村神領坪付(広田文書)は当社の神領と推定され、計田三町二反九〇歩・畠二町一反半と浮免があった。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]西城町熊野 尺田

比婆山連峰南東端の竜王りゆうおう(一二五五・八メートル)の南麓に鎮座。祭神は伊弉冉尊。熊野本宮・熊野新宮・飛竜ひりゆう社の三社からなる。旧村社。「芸藩通志」は天平元年(七二九)創建と伝えるとしているが、社伝は和銅六年(七一三)までは比婆山ひばやま大神社と称し、嘉祥元年(八四八)に社名を熊野神社に改めたとする。文亀二年(一五〇二)宮親盛が社殿を造営し、以後、宮氏は当社に度々寄進をした。「芸藩通志」に

<資料は省略されています>

とみえる。伊弉冉尊の埋葬地と伝えられる比婆山は信仰の対象となり、当社はその遥拝所として参拝者が多く、古くは奴可ぬか恵蘇えそ神石じんせきの三郡をはじめ、伯耆国日野ひの(現鳥取県日野郡)、出雲国仁多にた(現島根県仁多郡)、同国飯石いいし(現同県飯石郡)など広範囲にわたって信仰された。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]横手市明永町

明永みようえい沼西畔の丘、丸山にある。南に横手城跡(現横手公園)、西に当社の一の鳥居(御嶽山塩湯彦神社の鳥居ともいう)があったといわれる大鳥井おどり山があり、大鳥井山との中間を南北に羽州街道(現国道一三号)が貫く。祭神は伊邪那岐・伊邪那美命ほか四柱。旧村社。

「雪の出羽路」によれば、開基は役小角、本宮は伊弉諾尊(本地仏弥陀如来・弥勒菩薩)、新宮は伊弉冉尊(本地仏薬師如来・愛染明王)、那智山は早玉姫命(本地仏如意観音大士・熊野九十九社ノ神)を祀り、別当の明江山般若寺遍照院秀俊は三論宗に属し、代々その号を称したが、弘安九年(一二八六)秋田成綱が新社殿を建立して明江山神宮寺遍照院と改称し、三六院の坊司があった。

熊野神社
くまのじんじや

久美浜湾の東、標高一九一・七メートルのかぶと山の山頂に鎮座する。この山は江戸時代の久美浜村・甲山こうやま村・神崎かんざき村に分属し、その頂上境界線に位置している。

「延喜式」神名帳にみえる熊野郡熊野神社に比定され、祭神は伊弉冊尊。熊野郡の総社であった。貞観一〇年(八六八)九月二一日従五位下を授けられる(三代実録)

「丹後旧事記」は「古事記」開化天皇の段に「其の美知能宇志王、丹波の河上の摩須郎女を娶して」とある河上摩須郎女は、須田すだに居住したと伝えられる川上摩須の娘であるという伝承をふまえ、次のように記す。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]婦中町友坂

友坂ともさか集落西端の呉羽山くれはやま丘陵東麓に鎮座する。祭神は熊野加武呂命。旧村社で、「延喜式」神名帳婦負郡七座の一とする説がある(ほかに婦中町中名・同町熊野道・富山市宮保の熊野神社も式内社と称している)。白鳳期頃大蛇が害をなしたが、熊野加武呂命(素盞嗚命と伝えられる)によって鎮められたので、郷民は大宝二年(七〇二)大社を造立し命を祀り、山田やまだ郷の総社にしたという。当時一の鳥居は下条げじよう村字四ッ屋よつやにあり、本殿から約八町余の間に石灯籠が多数並び、熊野道とよばれた。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]新宮村新宮 宮川西

銅山どうざん川と土佐道の交差地点にある。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡新宮村明細帳の氏宮「拾弐社権現宮」はこれで、銅山川沿いに多い熊野社の代表的な例。明和四年(一七六七)の「熊野神社由来記」や「伊予温故録」などによると、大同二年(八〇七)紀伊国新宮から勧請したという。伊弉冊尊・天照大神など一二神を祀る。旧郷社。

四国の熊野信仰第一の霊場として盛時には、伊予は久万くままで、阿波は岩津いわつ、土佐は保木峰まで讃岐一円が氏子で、牛王の御札を配布していたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]会見町金田

金田かねだ集落の南東谷奥、金田川上流左岸の上膝突かみひざつきに鎮座する。伊弉諾尊・伊弉冊尊ほか一二神を祀り、旧村社。古くから荻名おぎな上野うえの池野いけの井上いのうえ小松こまつ宮谷みやだに御内谷みうちだにの小松庄七ヵ村の総氏神とされた。社伝によると往古は伊弉冊尊のみを奉祀していたが、大同年中(八〇六―八一〇)紀伊国住人雑賀某が熊野新宮(現和歌山県新宮市熊野速玉大社)の分霊を当地に勧請、同宮の末社として祀り、熊野十二所権現と称したのが草創という。雑賀某は東隣池野に居住し、子孫代々当社を尊崇したという(県神社誌)。中世には円福えんぷく寺・法伝ほうでん寺の二寺(いずれも現在は廃寺)が神宮寺であったといわれ、伝来の写経二〇〇巻のうちには寛正三年(一四六二)四月の年紀と奥書に「願主沙門西信 寄附人足羽筑後守」と墨書されたものもある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]日野町熊野

熊野集落の東部にある。伊弉冉いざなみ尊・武三熊大人たけみくまのうし命を祀り、旧村社。草創の時期は不明であるが、紀州熊野に祀られる那智権現の分霊を勧請したと伝え(輿地志略)、中世に隆盛であった綿向わたむき山修験の一拠点として広く崇敬を集めた。当地に那智権現が勧請されたのは、熊野滝と称される滝があるためとされる。「輿地志略」には権現滝とみえ、「高五丈許、那智滝に准じて甚大観なり。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]喜多方市上三宮町吉川 堂前

岩沢いわさわ集落の西方山麓にある。伊邪那美命などを祀り、旧村社。「会津旧事雑考」などによると、応徳二年(一〇八五)後三年の役で奥州に下った源義家が、先に河沼郡熊野堂くまのどう(現河東町)に勧請した熊野三神のうち本宮を当地に勧請したことが草創という。もとはたて山南麓山中の櫟平くぬぎだいらにあったが、慶長一六年(一六一一)の大地震で倒壊し、現在地に移して本殿と拝殿を再建したという(新編会津風土記)。櫟平には礎石が残るが、同所の南側を会津盆地から洲谷沢すだにざわ(現山都町)の小名であった小布瀬川こぶせがわを経て越後国へ通じる山道が通り、しお道とよばれていた。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]榛原町檜牧小字十二社

西谷にしたに川上流に鎮座。祭神伊邪那美いざなみ命。俗に権現さん、十二社じゆうにそさんと称し、社屋が石造であるため石神いしがみともいう。石造神祠が三殿並立し、中殿には文中四年(一三七五)の陰刻がある。左殿には正応三年(一二九〇)の銘があるが、この神祠は本来石塔の基礎部であったもので、屋根裏に承応二年(一六五三)の再興と刻まれているので、この頃に神宮寺の大日だいにち寺関係の石塔を転用したものと考えられる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]馬路村魚梁瀬 崎山

魚梁瀬やなせ集落のある丸山まるやま台地から魚梁瀬貯水池に突出した、崎山さきやまの丘(標高五〇一・三メートル)に鎮座する。祭神は伊弉那美命・平教盛・平教経・安芸大領など。旧村社。現鎮座地は昭和四〇年(一九六五)魚梁瀬ダムによる旧社地水没に伴い遷座したもので、古くは西にし川端の中屋敷なかやしきにあった。

近代以前は大領たいりよう権現と称されており、「編年紀事略」に「大領権現社ハ其村ノホトリニ有、神体ハ即チ教経ノ背負テ来リシト云負荷也ト云、其中ニハ甲入リテ有ト云ヘト、里人ナトハ恐レテ見シ人モナシ、城下ニテモ尾池春水嘗テ廻見ノ時開キ見シノミト云、其子孫門脇安五郎教久トテ今尚アリトソ」とある。なお門脇家には別に喉輪と腹巻が伝来したが、のち山内家に差出し、現在は官庫にあるとも記す。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]美並村山田 杉原

杉原すいばら集落の北部山麓に鎮座。参道入口に目通り三メートル強のスギの大木があり、神ノ御杖スギとよばれ、国指定天然記念物。祭神は家津御子神・夫須美子神・速玉男神。泰澄の創建になる郡上郡四九社の一つに数えられ、神主は泰澄の弟で洲原すはら神社(現美濃市)の神官三神泰定が兼務したといわれる(「神社明細帳」県立歴史資料館蔵)。一方、寛政二年(一七九〇)の熊野大権現御縁起(当社蔵)によると、応和元年(九六一)紀州熊野の比丘尼俊応が小庵を結び、近くの滝の権現を祀ったのが始まりで、そのとき袂に入れてきた小石が弥勒石、土中にさした杖が御杖スギになったという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]港北区師岡町

師岡もろおか町の北部の字寺家谷てらやとにあり、熊野神社市民の森の小山を背にする。大門を入って坂があり、約三町ばかり登り、また下って放生ほうじよう(一名いの字池)がある。鳥居より石階を経て拝殿に至る。少し隔てた本社は、二間四方の宮を作り、五間四方の上屋を設ける。関東随一霊験所熊野三社権現と称した。寛文五年(一六六五)七月の朱印状(県史八)によると、慶長四年(一五九九)と寛永一九年(一六四二)に師岡村のうち五石の寄進と社中竹木諸役など免除されている。

貞治三年(一三六四)五月に書かれたという宝暦一二年(一七六二)改の縁起(同書)によると、神亀元年(七二四)老僧全寿が、熊野証誠権現の夢告により、大和国春日明神へ参籠して感得し、本地弥陀の像を負って当所に来て小祠を作り安置した。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]能代市磐字杉沢

杉沢すぎさわの窪地にある。祭神は素盞嗚尊・応神天皇・宇気母智神・源義経神など。杉沢神社ともいう。旧郷社。

神社明細帳(秋田県庁蔵)によれば、坂上田村麻呂が蝦夷征討の時、高岩たかいわ(現山本郡二ッ井町)から粕毛沢根かすげさわね(現山本郡藤里町)へ、さらに床岩沢大柄とこいわさわおおがらに追撃したが、敗れて当地に来て、ここで数十人の賊を平定して滞留した。その時紀伊国の熊野大神にかけた蝦夷征討の願が成就したので、勧請したという。元和年間(一六一五―二四)神社の水流を水源に開田成就したことから、栗山くりやま村の知行主が銀五七匁を毎年初穂料として寄付した。寛文一一年(一六七一)藩主佐竹義隆が社殿を再建。その後正徳三年(一七一三)、宝暦一〇年(一七六〇)、天保一五年(一八四四)にも再建され、天保の時は現米三石の給与、祭典の際には角力興行の免許があった。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]東津野村芳生野 権現ノ本

北川きたがわ川上流右岸、えだたにの字権現ごんげんもとに鎮座。祭神は伊弉冊神で、ほかに大山祇神を祀る三島社などを合祭。旧郷社。古くから王在家おざいけ・枝ヶ谷・口目くちめいち寺川てらがわ日曾の川ひそのかわなど芳生野の上郷よしうののかみごう地区の鎮守で、「土佐州郡志」に「伝云、有熊野権現為鳥飛来之神託、立社于此、土人多熊野者」とみえる。「南路志」には「熊野権現・三島大明神」とあり、建武五年(一三三八)藤原氏女・沙弥定円・藤原行家らによって社殿を建立した旨を記す棟札が熊野・三島両社にあるとみえる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]相知町大字相知字天徳

相知おうち集落の中ほどの丘陵の山麓にある。旧郷社。祭神は伊弉冉尊ほか五柱。神体は鏡に阿弥陀仏像が刻まれている。その裏書に「享禄四年辛卯十一月十二日大旦那源の盛、宮司権少僧都燈慶」とある。

この社は昔天徳てんとく山頂にあったが、享保二年(一七一七)大庄屋向彦右衛門らが、現在地に遷宮した。この宮山の麓に宮司屋敷跡があり、本地仏がある。またその下に清竜せいりゆう寺があり、西浦休節が住職で寺沢氏より知行一〇〇石を受けたが、大久保氏に取り上げられ廃寺となった。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]土成町高尾 熊ノ庄

泉谷いずみだに川と宮川内谷みやごうちだに川が形成した扇状地近くの高台に位置。旧郷社。祭神は伊弉那美神・速玉男神・事解男神。永禄三年(一五六〇)熊野本宮大社(現和歌山県本宮町)熊野速玉くまのはやたま大社(現同県新宮市)熊野那智くまのなち大社(現同県那智勝浦町)の分霊を合祀したものという。南北朝期、当地南東方に熊野速玉大社領の日置ひき庄が成立しており、七条しちじよう(現上板町)に熊野本宮、五条ごじよう(現吉野町)に熊野新宮、西条さいじよう(現同上)に熊野那智社の分霊が祀られていたが、宮川内谷川の水害を避けて高台の当地に合祀されたという(徳島県神社誌)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]南条町清水

清水しみずの北西にある小高い山の麓に鎮座。祭神は速玉之男はやたまのお神・伊邪那美いざなみ神・事解之男ことさかのお神・須佐之男すさのお神。旧村社。古くは初音はつねの宮ともよばれ、脇本わきもと(脇本・清水・東谷・東大道・西大道)の惣社であったという。「越前国名蹟考」に記す社伝によれば、継体天皇が越前国に住していたとき、熊野神を信仰し、当地に勧請したのに始まるといい、この時、勧請地の決定に鶯を放って占ったところ、当地に飛び来って初めて鳴いたので宮地と定め、初音の宮とよんだという。享保五年(一七二〇)の惣社熊野宮伝記(南条郡誌)に「源義経奥州下向砌、鈴木三郎令参籠、笠預宿子孫于今在之、(中略)義景之時代、神田七十余町、山林多寄附、(中略)社家数十宇」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]古川市宮沢 内林

内林うちばやしの古墳上に杉林に囲まれて鎮座する。祭神は伊弉冊尊(新宮)・事解男尊(本宮)・早玉王尊(那智宮)の三神を合祀する。旧村社。明治四四年(一九一一)愛宕神社・雲南神社を合祀。祭日は一〇月二五日(栗原郡誌)。「吾妻鏡」建暦元年(一二一一)四月二日条に「陸奥国長岡郡小林新熊野社」とあり、藤原秀衡が豊前介実俊に命じて造営させ、元暦二年(一一八五)に「郡内荒野三十町」を寄進したと記される。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]所沢市西新井町

あずま川北岸にある。旧村社。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・須佐之男命・大己貴命・少毘古那命。創建の時期は不詳。弘化二年(一八四五)の熊野宮惣社降魔御祈祷殿再建縁起(三上家文書)によると、熊野宮の創建は古代にさかのぼり、本地は奥社(本殿)に祀られる日本武尊とあり、長禄三年(一四五九)三上山城守清定が再建したという。奥社は江戸時代の境内古絵図(当社蔵)には武尊大神社と載る。明治二年(一八六九)の神社書上帳引写(同蔵)には、御霊代は大小一三個の石で、荒御魂とするとある。江戸時代には下新井しもあらい村の鎮守。元禄一〇年(一六九七)新殿が造営された(「熊野宮新殿祭遷宮祝詞」同蔵)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]松前郡松前町字大磯

近世の松前城下生符いけつぷ町に鎮座。祭神は伊弉冊尊。旧村社。享保十二年所附に不動ふどう川と「けわい坂」の間に熊野堂がみえる。永正九年(一五一二)相原次郎三郎の勧請と伝える(福山秘府)。三郎は松前守護職を預かっていた相原忠胤の弟忠広にあたる(松前家記)。熊野信仰は応仁二年(一四六八)安東師季が紀州熊野夫須美くまのふすみ神社(那智山)に旧領「津軽外浜宇楚里」などの回復を祈願するかたちで受容されていた(同年二月二八日「熊野那智山願書之事」米良文書など)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]福井市布施田町

九頭竜くずりゆう川下流域の左岸の小丘陵上に鎮座する。昭和三三年(一九五八)以前は、布施田ふせだの西、水田中の小丘上にあったが、耕地整理のため現在地に移った。祭神は樟日くすひ命。旧村社。「延喜式」神名帳に記される坂井さかい郡「英多エタノ神社」を「足羽社記略」は「英田フセタ今云布施田、延喜式云、英田神社、是天皇四世孫、難波王ナニハノキミノ神社ナリ」と記すが、詳細は不明。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]辰野町大字横川 一ノ瀬

いちの北側山麓に南面して社があり、祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊。創立年代は不明であるが、天正四年(一五七六)の再興の棟札に、

<資料は省略されています>

とあり、このほかにも天正一七年(一五八九)神楽殿再興、寛永八年(一六三一)諏訪南宮法性上下大明神御宝殿再興の棟札も残る。

横川谷一〇ヵ村を氏子とし、各村々に代々世襲で神事に携わる氏子代表の神事家と称する旧家があり、祭の当日は号砲の合図で宮本の神事家へ祭に奉納する鉾を持ち寄って祭事を執行する。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]大正町田野々

田野々たののの街の東の外れに鎮座。旧郷社。祭神は伊邪那美尊・事解之男命・速玉之男命。「南路志」は棟札の中に「新宮飛鳥神蔵奉勧請熊野三山権現本宮十二所建久元年十一月始之那智飛滝権現春日四所大明神」とあり、続けて「大檀那真方中将四代孫田那部別当旦増嫡子永旦儀旦光旦満道□定阿聖□道勝道円出羽左衛門尉重正応永十七年太歳庚寅十一月廿四日」とあるのによって、建久元年(一一九〇)上山かみやま郷の領主熊野別当旦増(湛増)の子永旦が紀州より勧請、その子孫の田那辺重正が応永七年(一四〇〇)再興、後には上山の惣鎮守として郷民が祀ってきたと述べ、また紀州熊野より勧請されて初めは伊与木いよき熊野くまの(現佐賀町)に着き、のち田野々に移されたともいうが、確たる史料があるわけではない。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]野村町阿下

「宇和旧記」に、「権現は熊野より飛来らせ給ふよし、神主利兵衛先祖も熊野より付参之由、堂前より馬場先迄壱町余も有べし、道幅弐間も有べし、左右に杉檜の並木あり、いづれも大木なり、此所を世に権現なろと云ふ」と伝え、三所権現さんしよごんげん社の創建を正応元年(一二八八)とし、応安元年(一三六八)に再興、正長二年(一四二九)と長禄三年(一四五九)の再興棟札があるとする。文明一九年(一四八七)地頭平綱親(魚成氏)が宝殿を再建し、天文二二年(一五五三)には地頭岐他川(北川)通安が再建、慶長五年(一六〇〇)藤堂高虎が三所権現社を再建している。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]建部町吉田

大きく曲流する旭川に三方を囲まれた丘上にあり、旧村社。現在の祭神は伊弉諾・伊弉冉二尊。武枝たけえだ保の総社として金川かながわ(現御津町)の松田氏によって勧請されたという。慶長一四年(一六〇九)妙圀みようこく寺の僧日城の筆になる棟札には「吉田村八幡宮 氏子武枝保三ケ村」とあり、元来は八幡神を祀ったものと思われる。「備陽記」には「十二所権現 末社・大明神・稲荷・稲荷」とあり、明治三年(一八七〇)の「神社明細帳」(池田家文庫)では「旧号十二社権現、祭神・紀州熊野同神、末社・龍神社・天神宮・春日神」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]成田市南羽鳥

旧村社。権現造で、伊弉諾命・速玉男命・事解男命の三神を祀る。三熊野みくまの神社ともよばれる。延喜二〇年(九二〇)熊野信仰を広めるため神官が東国に下ったとき当地が紀州熊野の地と似ていることから仮宮を設け、延長元年(九二三)に本宮を建立し創建したと伝える。嘉吉二年(一四四二)神官の次男鈴木豊将が千葉家の客将として迎えられたことから、千葉一族である助崎すけさき(現大栄町)城主大須賀氏の加護を受け、大永七年(一五二七)には信濃守宗胤が本殿を修復するが、天正九年(一五八一)の竜台合戦の戦火に遭い焼失したという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]八幡町小那比

小那比おなび川左岸山麓の字みやほらに鎮座。もと西和良にしわら地区の郷社。主祭神は家津御子神で、熊野久須美命・速玉男神を合祀。文明年中(一四六九―八七)東常縁が郡上郡を領有していたとき、陣屋が二ヵ所設置され、その代官山田又兵衛・佐藤治平が熊野神を勧請し、陣屋および村中の氏神になったという(「神社明細帳」県立歴史資料館蔵)。しかしこの記述は時代を古くしたもので、寛永一二年(一六三五)の棟札に「白山大こんけん 山田又兵衛」「熊野こんけん 佐藤次兵衛」とあり、遠藤氏家中分限帳(竹村文書)に載る馬廻役一五〇石の山田又兵衛・佐藤治兵衛が該当するとみられる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]富山市宮保

県道東猪谷ひがしいのたに―富山線の西方に鎮座する。祭神は速玉男神・伊弉諾尊・事解男神。旧村社。旧社地は南の辰尾たつお地内とされる。「延喜式」神名帳にみえる婦負ねい郡七座のうちの「熊野クマノ神社」の比定社の一つで、当社を延喜式内社とするのは「大日本史」「越中国式内等旧社記」「越中志徴」などである。当社の社記によれば、文和四年(一三五五)二宮兵庫が太刀および五〇石の神供田を寄進、元和五年(一六一九)まで続いたといわれ、「禁庭ヨリ勅書モ納リ居候、神子迄モ被為立置式内之社柄ニ御座候、元来此神社ハ往古ヨリ大社ニテ根元此神社之鎮座ヲ以郷名ヲ熊野郷ト唱、熊野川ト申ハ御手洗川ト申事ニテ、往古熊野川大門サキニ鳥居ヲ立テ、神前ヲ横ニ見テ越事ニ相成」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]岩泉町袰綿

山本やまもとの山麓に鎮座、伊弉諾・伊弉冊の二神、あるいは素盞雄命を祀るという。旧村社。北畠具氏の譜に大林おおばやし権現安置の記事があり、続いて正顕の譜に天文二〇年(一五五一)父具氏が安置した大林権現(熊野権現)野向山やんぐうやまの社に移したと記す(参考諸家系図)。大林の袰綿ほろわた館が刈屋刑部との戦で攻め落され、本銅ほんどうの西に新館が築かれたとき、同時に移されたものであろう。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]境川村三椚

境川左岸に鎮座。伊弉冊命・速玉男命・事解男命を祭神とする。旧村社。建久八年(一一九七)六月一六日の勧請と伝える。当初は大窪おおくぼの熊野平とよばれる場所に鎮座していたが、同年六月の洪水によって社殿など一切を失い、赤立明神の社地に移され、その後現在地へ遷座したという(社記)。明応五年(一四九六)三月一二日の武田信縄制札(熊野神社蔵)に「いしはし三ツくぬきくまのゝ宮」とみえ、何事も別当の命令に従うこと、森・林への狼藉(伐採)を禁じることが申付けられている。永禄四年(一五六一)の番帳に二二番「熊野の禰き」とあり、当社の禰宜が府中八幡神社への勤番を命じられている。「社記」によれば、武田氏から神領として二五〇貫文を宛行われていたというが、天正一〇年(一五八二)武田氏が滅亡すると織田信長によって社蔵の証文類を没収されたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]大子町浅川

あさ川左岸の森に鎮座。祭神は伊弉冉命。旧村社。天応元年(七八一)紀州熊野権現を勧請、天正元年(一五七三)社殿を造営したが安永三年(一七七四)焼失、本殿は文化三年(一八〇六)、拝殿は天保九年(一八三八)の再建と伝える。

社宝の獅子頭三頭は元禄年間(一六八八―一七〇四)徳川光圀から拝領したと伝え県指定文化財。このほか藤田東湖揮毫の大幟二流がある。この獅子舞を「浅川のササラ」とよび、浅川上の当社、同下の真弓まゆみ神社の出社祭典と、郷社であった下野宮の近津しものみやのちかつ神社の出社の際に神輿の露払として出場するほか、三社の二一年目ごとの正遷宮の時にも獅子舞を奉納する。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]佐賀町熊井

伊与喜いよき川左岸の法泉寺ほうせんじ山に鎮座。旧郷社。祭神は伊諾冊尊・事解男尊・速玉男の三柱で熊野三所権現ともよばれる。

「南路志」所収の棟札に「奉勧請熊野三山権現本宮十二所、建久元、始之大檀那真方中将四代孫田辺旦増嫡子永旦同儀旦(中略)同道固出羽左衛門重正、応永十七年庚寅」とあり、伝えによれば、紀州熊野別当旦増は初め源氏に縁あったが心変りして平家に属し、寿永四年(一一八五)平家の滅亡ののち熊野三山の三本の杉を三所権現の神体として奉供し、諸所をさまよった末に伊与木いよき郷の海岸にたどりつき、これを祀った。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]長野市入山 岩戸

入山いりやま岩戸いわと集落の南端にある。祭神は伊邪那見命・泉津事解男命。この地の豪族落合氏の勧請という。さくら村・泉平いずみだいら村・村・広瀬ひろせ村・茂菅もすげ村・たたら村・入山村などの総社という。社殿は一間社春日造で、木楔に「くハん正六乙酉年七月吉日」と墨書してあるが、背面妻板裏に、「天文十六年、ひのとひつし九月三日、大工さ(ら脱)こうしせんさへもんおやこ二人、あにのしん四郎、おとゝのけん二郎」とあり、様式手法も室町時代末期に属す。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]紫波町佐比内 神田

佐比内さひないの中央部、佐比内川右岸にある神田じんでん(佐比内館)跡に位置。祭神は伊弉那諾命・伊弉那冊命で旧村社。伝承によれば延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂の奥州遠征の時、当地の松田まつだ大峯おおみねに地元民が祀るお熊様という神に二柱の祭神を勧請したものとされ、慶長一〇年(一六〇五)氏子村民によって大峯より現在地に遷座されたという(紫波郡誌)。一方「邦内郷村志」によれば、応永三年(一三九六)佐比内館主河村氏によって、城の鎮守として奉斎されたものともいわれる(紫波町史)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]宮古市熊野町

くわさきの北方山上に鎮座、伊邪那美命を祀る。旧村社。もとは現山根やまね町の西部山腹の稲荷神社が鎮座する「古おくまんさま」と称される地にあった。元和二年(一六一六)山根氏が熊野大権現を勧請、氏神として祀った所といわれる。近くには元禄一一年(一六九八)銘の「熊野山三社本宮社」の碑が建つ。天明元年(一七八一)現在地に遷座。「御領分社堂」に「熊野権現、本地弥陀薬師観音、壱間四面板ふき、俗別当三十郎」とある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]皆瀬村川向 白沢

白沢しらさわ集落の南西の耕地にあり、背後に丸森まるもり山・奥宮おくみや山を負う。東には皆瀬川を挟んで稲庭いなにわ城跡(現稲川町)のある山を望む。

小野寺氏の熊野信仰を示し、熊野三山の一、那智を根本社とする。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]種市町 城内

東長とうちよう寺の一角に鎮座。古くは旧字地大林おはやし地内に祀られていたが、安永五年(一七七六)祭主竹林家の近くに移され社殿を新築、東長寺五世天霊により堂の魂入れ供養が行われたという。この時縁日は四月一五日に定められた。施主は竹林弥蔵で自ら大工として造営したという。かつて当地方では神社を「おはやし」とよんでいたことから、旧地も当社にちなんだものと伝えられる。宝暦九年(一七五九)の八戸廻神社書上写(八戸市立図書館蔵)には熊野林くまのばやしとみえ、祭主は城内の竹林千助であった。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]大分市津守

いかり山の頂上に鎮座。祭神は熊野大神、旧郷社。もと字しようもとに鎮座していたが、明治四四年(一九一一)現在地に遷宮。大友能直が池の頭の地に熊野三山大権現を勧請、蓮台寺と号したと伝える。熊野大権現社伝記によれば、大友氏没落後は釣鐘は石火矢となり、神殿は春日社に移されて衰えていたが、寛永三年(一六二六)松平忠直が居館を津守つもりに移されると当社を崇敬して社殿や神事を再興したという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]花巻市小瀬川

小瀬川こせがわ大師堂たいしどうにある。伊弉諾命・伊弉冊命を祀り、旧村社。享和三年(一八〇三)の再興棟札(社蔵)などによると、往古当地を訪れた天台僧慈恵が熊野三山および山王を勧請したことに始まるといい、慈恵は当地を去るにあたり木製の自刻像を残した。村民はこの木像を当社に安置し奉じたため、大師堂とも称されたという。宝暦年中(一七五一―六四)小瀬川村に知行地をもつようになった盛岡藩士田代甚五右衛門が祭礼料として五石七斗を寄進、また別当は享保年中(一七一六―三六)より花巻自性じしよう院、次いで盛岡明王みようおう院が勤め、享和二年には田代氏の没落に伴って社堂管理の一部が修験花巻一明院の手に移った。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]野市町新宮

県道山川―野市線の北、背後に山を負って鎮座する。新宮しんぐう権現ともいい、伊邪那美命・事解之男命・速玉之男命を祀る。旧村社。本殿のほか舞殿・拝殿があり、境内に伊気いげ神社が鎮座。「南路志」には「社記云、熊野権現配流之地と云伝、社地三代」とあり、新宮の産土神として信仰されている。

文禄(一五九二―九六)の頃、新宮村西北の林にあった楠がたびたび震動、ある時、楠の枝に白い御幣をくわえた白い鳥がとまり、飛去るとき御幣を落していったので、そこに小祠を建てて祀ったのが熊野神社であると伝える。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]三戸町同心町 土川原

同心どうしん町の北東、熊原くまはら川の右岸に位置する。祭神は伊邪那美命で、旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「熊野堂」とあり、正智しようち院持とされる。由来は不詳であるが、寛永八年(一六三一)正智院の中興開山泉済の時、熊野林くまのばやしから現在地に移したものという(新撰陸奥国誌)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]新宿区西新宿二丁目

櫛御食野命・伊邪那美命を祀り、旧郷社。社伝によれば、応永一〇年(一四〇三)に鈴木九郎某が紀州熊野大社の分霊を当地に勧請したものと伝える。熊野十二所権現・十二所権現・十二社じゆうにそうともよばれ、十二社は十二叢とも書いて一帯の俗称となった。なお鈴木某は紀伊国の出身で、本郷ほんごう(現中野区)に土着、のち中野長者と称される有徳人になったとの伝承がある。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]東和町北成島

毘沙門堂と並んで鎮座し、三熊野みくまの神社と通称。祭神は伊弉冊命・事解男命・速玉男命。旧村社。近世には熊野権現と称し、毘沙門堂の鎮守であった。社伝によれば、延暦二一年(八〇二)坂上田村麻呂が征矢立せいやたて森に登り紀伊の熊野三山に戦勝祈願をし、戦勝後熊野三山を勧請して創建した。康平五年(一〇六二)源義家が安倍貞任を追撃した時、当社に祈って凱旋したという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]滝沢村大沢 若松

越前えちぜん堰の西側にあり、祭神伊佐奈伎之命・伊佐奈美之命、旧村社。「御領分社堂」に熊野十二社大権現とみえ、「右者康平年厨川治郎・阿部貞任・同三郎・阿部宗任、前九年合戦之時、鎮守府将軍陸奥守源頼義公朝敵誅罰為祈願当国平均之後、八幡太郎源義家公、此所熊野十二社大権現御造立被遊安鎮座候」と記す。安永九年(一七八〇)の厨川通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば、村の西、十二所権現の前を流れる用水のうわ(越前堰)に架かる橋から参道が続き、鳥居と社が描かれる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]新穂村青木

青木あおきの集落中央にある。祭神櫛御気野命など数柱。青木の鎮守で、村殿青木(本間)氏の守護神とも伝える。創建年代は不詳。もとは新穂川中流付近にあったとみられ、慶安石直帳や元禄七年(一六九四)の青木村検地帳(以上青木区有)にも川筋付近に宮の東・宮の後・宮の下・三月田・六月田などの地字がみえる。現在もこの辺りの川名を熊野川、橋を熊野橋とよぶ。文禄年間(一五九二―九六)に青木の一部の集落とともに現在地に移転したと思われる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]碧南市大浜上町

大浜おおはま村の西海岸に鎮座。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命。天喜二年(一〇五四)の創立で、上の宮かみのみやとよぶ。由来書(熊野神社蔵)によると、源頼義が陸奥に向かう途中、尾張国野間のま(現知多郡美浜町)を経て奈良尾ならお(現半田市)から海路をとったところ暴風に遭い、この地に漂着。熊野から流れ来た奇木を神体とし熊野三神を祀ったのが始まりという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]宇部市大字山中 上市

旧山陽道に沿った山中の上市やまなかのかみいちに鎮座。祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神・事解男大神。旧村社。

「注進案」によれば、永和四年(一三七八)伊豆国の浪人伊藤彦四郎が大内弘世からこの地の切開きを許され、紀伊国熊野権現宮(現和歌山県東牟婁郡)を勧請したのに始まる。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]いわき市錦町 御宝殿

さめ川右岸の御宝殿ごほうでんにあり、御宝殿熊野大権現といわれた。祭神は伊邪那美命・速玉之男命・予母津事解男命。旧県社。社伝によると、大同二年(八〇七)菊多きくた庄司別当日下大膳らが紀州より分霊して創建したという。菊多郡の総社で、正保郷帳では長子ながこ村のうちに社領五〇石余を有している。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]野母崎町野母

野母漁港に臨んで鎮座。祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男尊・事代主尊・須佐男尊。旧村社。紀伊熊野の猟師夫婦がさと浦に漂着、その無事を喜んで熊野の二柱明神を祀ったのが創祀と伝える。のち夫は熊野に帰り、妻は祭祀を守るためにとどまるが、のち地先の浦が好漁場であることが伝えられて熊野からの移住者が増え、やがて郷村の産土神として奉斎されるようになったという(長崎名勝図絵)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]名田庄村三重 宮ノ上

三重みえの北部にある。祭神若宮三所大明神、旧村社。かつては三所明神社・三所大明神・三重明神と称された。「若州管内社寺由緒記」は三重村の項に「此所の守護神三社の大明神也、応永三十四年丁未比也、其時の神主右近左中刑部太夫と申也」と記し、社蔵の棟札に「(表)張屋柱立 于時応永廿九年」、「(裏)奉造立御子座 禰宜平貞弘□□玉郎大夫」というものがあり、この頃建立されたものであろう。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]稲川町稲庭 鍛冶屋敷

鍛冶屋敷かじやしき集落の北、皆瀬みなせ川右岸の耕地にある。

創建・勧請については定かではないが、小野寺氏と深い関係をもち、熊野三山の一、新宮を根本社とする。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]中辺路町高原 森

熊野街道中辺路に面して鎮座する。祭神は速玉はやたま大神。旧村社。創建は応永年間(一三九四―一四二八)と推定され、神体の懸仏の裏銘に「応永十年癸未卯月廿七日」の日付がある。「続風土記」に「熊野権現社、境内周百十六間、本社、拝殿、村の西街道にあり、一村の産土神なり、応永九年本宮より勧請すといふ、応永天文天正等の棟札あり、森に橡樟の大樹数株あり」と記される。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]稲川町稲庭 小沢

小沢こさわ集落の南、皆瀬みなせ川右岸の河岸段丘にある。

創建等については定かではないが、小野寺氏の熊野信仰を表し、熊野三山の一、本宮を根本社とする。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]三戸町川守田 東張渡

川守田かわもりた町の北東の丘陵地に位置する。祭神は伊邪那美命・速須佐之男命。旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「熊野」とあり、別当は修験常善坊とされる。白雉三年(六五二)の勧請と伝え、川守田常陸入道の祈願所であったという(糠部五郡小史)。寛永八年(一六三一)二代藩主南部利直女の銘のある棟札があったとも伝える(新撰陸奥国誌)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]常陸太田市真弓町

真弓まゆみ山西南麓の十二所じゆうにしよの段丘斜面の森の中に鎮座。祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・泉津事解男命・速玉男命。旧村社。社記によると養和元年(一一八一)の創立で、初め十二所権現と称し、瀬谷せや村の鎮守であった。元禄九年(一六九六)徳川光圀が現称号に改めたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]布津町大崎名

みやもとに鎮座。祭神は伊弉冊命・事解男命・速玉男命。旧村社。嘉吉元年(一四四一)に熊野本宮(現和歌山県本宮町)の分霊を勧請したという。寛政四年(一七九二)の島原大変では社殿を流失したが、のち再建。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]南部町相内 沢構

相内あいないの北西、渓流に沿った谷口に位置する。祭神は伊弉冊尊。雑書の承応二年(一六五三)四月一七日条に「相内熊野権現」とあり、藩命により祈祷が行われている。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂によれば、別当は修験大泉院で、五戸年行事多門院の配下に属した。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]北条市滝本 中屋敷

中屋敷なかやしきの十二滝の傍らにあり、「伊予国風早郡地誌」に境内東西二〇間四尺二寸、南北六間一尺一寸とある。祭神は天御中主尊・国常立尊・伊邪那岐尊など一七神。旧村社。

由緒書によれば聖武天皇の勅によって越智玉澄が建営したと伝え、文治年中(一一八五―九〇)河野通信が勧請、建仁年中(一二〇一―〇四)井上五郎太夫が神殿を改築し寄進、元弘三年(一三三三)河野通綱が神領と神器を奉納、その後、河野氏・白石氏・重見氏の崇敬により維持されたという(新編温泉郡誌)

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]常陸太田市常福地町

山裾の旧道に沿った集落中ほどの、小高い森の中に鎮座。祭神は速玉男命・伊弉冊命・事解男命。旧村社。社伝によると建久四年(一一九三)源頼朝が六〇〇町の地を寄進し、天文二〇年(一五五一)佐竹義堅が森間五貫文の地を与えたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]丹後町此代 野町

此代このしろの氏神。祭神伊弉冊神。新宮大権現とも称する。旧村社。

当社縁起によれば、寛治六年(一〇九二)紀州熊野神社(現和歌山県東牟婁郡本宮町)から分霊を受けて創建したと伝える。

正月八日の例祭を「はなびら祭」と称し古式を残す。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]国見町神代 西里

古くは熊野権現と称した。祭神は須佐之男命・速玉男命。旧郷社。創建年代は未詳ながら、神代氏が天正一二年(一五八四)沖田畷おきたなわて(現島原市)の戦で敗戦に至った当時は鎮座していたという。

熊野神社
くまのじんじや

[現在地名]六郷町六郷 米町

六郷東南部の旧羽州街道に沿ってある。現祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。社伝によれば、坂上田村麻呂の創建で、源頼朝の再興という。佐竹氏入部後、その崇敬を受け、藩内十二社の一社となった(国典類抄)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊野神社」の意味・わかりやすい解説

熊野神社
くまのじんじゃ

京都市左京区聖護院(しょうごいん)町に鎮座。祭神は伊奘冉尊(いざなみのみこと)を主座とし、相殿(あいどの)に伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、速玉男神(はやたまのおのかみ)、事解男命(こととけのおのみこと)を祀(まつ)る。後白河(ごしらかわ)上皇(1127―92)が帝都の守護として勧請(かんじょう)、創建したと伝えられ、東山の若王子(にゃくおうじ)神社(左京区若王子町)、今熊野(いまくまの)の新熊野(いまくまの)神社(東山区今熊野椥ノ森(なぎのもり)町)と並ぶ京都三熊野の一つ。1162年(応保2)平清盛が奉遷使に任ぜられ、土砂花木に至るまで紀州(和歌山県)熊野の本社から運送して造営、当時は現在の約10倍の広大な社域を誇ったという。旧郷社。例祭5月16日。現在、縁結びや安産の信仰が厚い。

[菟田俊彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「熊野神社」の解説

熊野神社〔青森県〕

青森県八戸市にある神社。JR種差海岸駅背後の小高い丘に位置する。祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)。

熊野神社〔岐阜県〕

岐阜県高山市にある神社。室町時代末期に建てられたとされる本殿は国の重要文化財に指定されている。

熊野神社〔山梨県〕

山梨県甲州市にある神社。807年創建。本殿、拝殿は国の重要文化財に指定されている。

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