新善光寺(読み)しんぜんこうじ

精選版 日本国語大辞典 「新善光寺」の意味・読み・例文・類語

しんぜんこう‐じ シンゼンクヮウ‥【新善光寺】

京都市下京区御影堂町にあった時宗の寺。もと真言宗。天長元年(八二四檀林皇后が創建。開山は空海。正応年間(一二八八‐九三)一遍の弟子王阿が中興し、現宗に改宗した。近世、寺僧がつくった衵(あこめ)扇(御影堂扇)は京都名産の一つであった。第二次世界大戦中、滋賀県長浜市西上坂町に移転。御影堂(みえいどう)

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日本歴史地名大系 「新善光寺」の解説

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]葉山町上山口

上山口かみやまぐちの西端、浦賀うらが道に面する。不捨山摂取院と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来

源頼朝が信州善光寺如来四八体のうち一体を招請して本尊とし建立したとするなど、由緒に諸説ある。古くは鎌倉郡名越なごえ(現鎌倉市)にあったといわれ、「吾妻鏡」正嘉二年(一二五八)五月五日条に「御方違事被沙汰、陰陽道兼日彼方角勘申之間、来廿九日、可御尾張前司名越山庄新善光寺辺」とあるのがこれであろう。のち衰微したが、密道が三浦氏を頼って当地に復興して開山となり、江戸時代の初め識道が堂宇を完成し、中興とされる。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]明野町松原

松原まつばらの集落の西にある。時宗、如体山広島院と号し、本尊は阿弥陀如来。聖三尊阿弥陀如来縁起(当寺蔵)によれば、暦仁二年(一二三九)解意阿観鏡の開山と伝える。解意阿は八田知家の七男で、俗名は知勝(朝勝)といい、建保六年(一二一八)に没した父知家(法名法院殿尊念善光大居士)の菩提を弔うため、一三歳で比叡山に出家し、法名を観鏡と号した。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]栗東町林

九品山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寛文元年(一六六一)膳所藩主本多俊次が本堂を再建(本堂棟札)、新善光寺と称した(寛文一〇年鐘名)。またこのとき記された縁起(寺蔵)に「栗太郡高野郷新善光寺縁起」とみえ、金勝こんしよう寺二五ヵ別院中の高野たかの四ヵ寺、唯心教ゆいしんきよう寺・多喜たき寺・多福たふく寺・楞迦りようか寺のうちいずれかを継承したのではないかと考えられている。同縁起によれば、当地の豪族小松左衛門尉宗定が仁治年間(一二四〇―四三)長野善光寺へ参詣、参籠中の夢告により建長五年(一二五三)如来堂を建立し、善光寺如来の分身を奉安したのに始まるという。小松宗定は前掲本堂棟札には高野宗定とある。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]小山市卒島

卒島そしまの南に位置し、紫雲山と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。もとは天台宗で栗崎道場と称し信濃善光寺から移ったといわれる。弘安三年(一二八〇)の一遍廻国を契機に改宗したと伝える。一遍の死後二祖他阿真教は時宗三〇人ほどを連れて北陸遊行に出発し、永仁五年(一二九七)北関東に入り六月当寺如来堂に逗留した。「一遍上人絵伝」によれば「下野国小山新善光寺の如来堂に逗留ありけるに瑞華ふり、紫雲たなひきて耳目を驚しけれは万人奇特の事に申あえりけるに」とある。この奇瑞は「遊行上人縁起絵」(山形県光明寺蔵)にも描かれている。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]光町篠本

古川内ふこうじにある、殿谷山金光明こんこうみよう院と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。日吉村社寺明細帳(光町史)によると、嘉禎二年(一二三六)に本多善明が真言宗に改宗したと伝える。弘経寺縁起(関口家文書)によると、真言宗竹元ちくげん寺とよばれたときもあったという。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳によると、米倉よなぐら(現八日市場市)西光さいこう寺末寺で、江戸時代には飯岡いのおか(現成田市)永福えいふく寺など末寺三・門徒寺八を有した。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]函館市青柳町

常住じようじゆう寺の南東、住吉すみよし漁港の近くにある浄土宗寺院。北隆山と号し、本尊阿弥陀如来。安政四年(一八五七)ウス善光寺(現伊達市)七世性誉仙海がのちの相生あいおい町に一宇を建てたのに始まる。善光寺休泊所とよばれていたが、明治一〇年(一八七七)称名しようみよう寺に合併となり、同一一年分離して青柳あおやぎ町に移転した。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]下京区本塩竈町

浄土宗。来迎堂と号し、本尊阿弥陀如来、脇士に一尺の勢至観音を安置。「山州名跡志」によれば、崇峻天皇の代に信濃の本田義助が同国善光寺の本尊を模して新たに像を造ろうと誓願を起こし、本尊の示顕を得、百済に渡って斉明王より閻浮檀金を与えられ帰朝。善光寺堂前で加護を祈ると「画然トシテ一光三尊ノ仏相空中ニ現レ、(中略)分身ノ尊体出現シ玉ヘリ。今ノ本尊是ナリ」という。推古天皇一一年南都に、一条院のとき洛中に移し、「又、鳥羽天皇天仁二年ニ伽藍ヲ再興シ玉ヒテ、仏宇備レリ。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]津川町津川

町南部にあり、仏光山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来。「新編会津風土記」によれば京都知恩院の末寺で、建久年中(一一九〇―九九)尾州の僧定尊が信濃の善光寺に参詣したとき霊夢のお告げがあり、西にし村境に当寺を草創し、等身大の弥陀像を造って安置したという。貞治元年(一三六二)現在地に移り、寺領は六〇石であった(津川姿見)。寛正期(一四六〇―六六)から永正期(一五〇四―二一)頃まで兵乱が続き、吉見忠春によって寺産を奪われ、僧徒は離散した。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]勝北町中村

高野山真言宗、金森山と号し、本尊阿弥陀如来。縁起によれば永徳年中(一三八一―八四)信濃善光寺の脇立本尊を勧請したと伝え、かつては七堂伽藍を備えた大寺であったが天正三年(一五七五)類焼。のち宇喜多氏の家臣今井氏が再興。寛永三年(一六二六)には津山藩主森忠政の病気治癒を祈願したことから五〇石の寄進を受けている。

新善光寺
しんぜんこうじ

[現在地名]中央区南六条西一丁目

浄土宗の寺院。山号は北縁山。明治四二年(一九〇九)寺院明細帳(札幌区史資料)によると、当寺は東京芝増上寺の末で、明治一七年四月に寺院創立・寺号公称の許可を受け、同一九年四月に堂宇を建立。本尊は阿弥陀如来、境内は一千八〇坪であった。同三六年四月に旧地から現在地へ移転した。

新善光寺
しんぜんこうじ

泉涌寺総門内左側にある。本尊阿弥陀如来。縁起では寛元元年(一二四三)嵯峨天皇勅願による創建とする。長野善光寺の如来を模して鋳造し、一条大宮(現上京都市京区)に一宇を建立して新善光寺と号した。

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世界大百科事典(旧版)内の新善光寺の言及

【善光寺】より

…《明月記》にも嘉禎1年(1235)京の道俗が争って善光寺如来を礼拝したことを記している。このころ各地に〈新善光寺〉が建立され,200余ヵ寺が現存している。戦国時代の善光寺は,武田信玄と上杉謙信による数度の川中島の合戦で荒廃し,本尊はじめ多くの寺宝が甲府に移された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」