持宝院(読み)じほういん

日本歴史地名大系 「持宝院」の解説

持宝院
じほういん

[現在地名]南知多町内海 林ノ峯

井際山と号し、真言宗豊山派本尊如意輪観音。別称内海の山寺うつみのやまでらと称す。入見いりみ神社がかつて井際いぎわ山に鎮座し、その里宮が持宝院東麓の天神てんじん社で、のち中之郷なかのごう村に遷座した。その別当寺として井際山観福かんぷく寺があり、持宝坊・如意によい坊・泉蔵せんぞう坊など一山九坊の大寺であったが、南北朝期に廃退し観音堂のみが残った。応永二〇年(一四一三)馬場ばば村の持宝院のみが復興され、寛正元年(一四六〇)旧観福寺の本堂跡に移し、残っている観音堂を観福寺とした。元亀三年(一五七二)中之郷村の如意輪寺が再興されたので、持宝院・如意輪寺および東端ひがしばた村の泉蔵院の三寺が輪番で観福寺観音堂を管理していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)持宝院の専管となり、明治初年に観福寺を廃し観音堂を持宝院本堂とした。

持宝院
じほういん

[現在地名]福井市西木田三丁目

近世の福井城下堀小路ほりこうじ町の西側にある。松尾山宝光ほうこう寺持宝院と号し、真言宗智山派、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、越前国主恵美押勝が天平宝字元年(七五七)泰澄をこの地に招いて伽藍建立、法相宗に属したが、のちに住持が空海に帰依し、真言宗に改宗したという。その後、朝倉氏は代々当寺を保護したが、天正二年(一五七四)の一向一揆で焼失し、寛永一三年(一六三六)福井藩士斎藤民部によって再建され、境内地は諸役免許の朱印地となった。

持宝院
じほういん

[現在地名]宇都宮市田下町

多気たげ山中腹にあり、多気山と号し、真言宗智山派。本尊の不動明王が有名で、通称多気不動尊として知られる。寺伝によれば、弘仁一三年(八二二)勝道の弟子尊鎮が馬頭観音を本尊として開山、その後、長治二年(一一〇五)宇都宮宗綱が氏家勝山うじいえかつやまの不動明王を移し本尊とした。この不動尊は天暦三年(九四九)源頼光が多田満仲の子多田の法眼(円覚)に請い、一刀三礼して作仏したもので、丹後大江山の鬼征伐の際、頼光はこの不動尊を安置し祈念したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報