中之郷村(読み)なかのごうむら

日本歴史地名大系 「中之郷村」の解説

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]新居町中之郷など

浜名湖西岸に位置し、南は内山うちやま村・新居宿、北西は鷲津わしづ(現湖西市)。中ノ郷などとも記す。鎌倉時代にみえる那賀なか庄の所在地に比定される。戦国期には中之郷(中郷とも)と称された。「遠江国風土記伝」は中之郷を古見こみ・鷲津(現湖西市)、中之郷・内山・新居の五村としている。永正一三年(一五一六)一二月および翌一四年二月に鷲津本興ほんこう(現湖西市)に下した判物(「中山生心判物」本興寺文書)と、同一五年八月の中之郷太和やまと大明神の棟札(二宮神社蔵)に地頭中山入道生心の名がみえ、この頃当地方は中山氏が領していた。天文五年(一五三六)一一月一五日付の棟札(同社蔵)には「造立太和大明神一宇 旦那中郷」とみえる。天正一〇年(一五八二)三月一一日、名倉若狭が新居宿屋敷の替地として中之郷(宗玄分)のうち七〇〇文の地を御蔵跡とともに鷲清じゆせい(現曹洞宗鷲栖院)に与えている(「名倉若狭書下写」疋田家文書)

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]余呉町中之郷

余呉湖の北東、南流する余呉川左岸に位置し、同川に沿い北国街道が通る。東部赤子あこ山に発する丹生谷にゆうだに川が地内を西流して余呉川に合流、北辺で西から文室ふむろ川が注ぐ。丹生谷川沿いに下丹生しもにゆう村に通じる丹生の谷路(洞寿院路)があり、西方へは鳥打とりうち越で文室村に通じる(輿地志略)。応永三〇年(一四二三)と推定される四月一〇日の法橋兼全奉書案(井口日吉神社文書)に「余呉庄中郷」とみえ、盗伐に入り込んだ富永とみなが野村のむら郷住民が、中郷の者を殺害する事件が起きている。中世京極氏の家臣東野道義の城山があったという堂木どうぎ山には、天正一一年(一五八三)賤ヶ岳の戦で羽柴秀吉方の蜂須賀彦右衛門らが砦を構えたと伝える。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]日野町中之郷

しよう村の南西、佐久良さくら川と同川支流まえ川が合流する地に位置し、三方は山に囲まれる。地名は奥津おくつ保の中央部に位置したことに由来すると伝え、北西にある長寸ながす神社(別称山崎宮)を「延喜式」神名帳にみえる蒲生郡の同名社に比定する説もある。奥津保は佐久良川中流域一帯に比定される。至徳二年(一三八五)一二月一九日、儀俄氏秀は「奥野保勘定使職、押領使職、同預所職」などを宛行われているが(「足利義満御教書」蒲生郡志)、この奥野保は奥津保のことと思われる。永徳三年(一三八三)六月二一日には「奥津野散在名田」などが永源寺領として安堵された(応永一七年七月二五日「足利義持御教書」永源寺文書)

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]富士川町中之郷

富士川右岸の沖積地と河岸段丘上に位置し、西側に金丸山がある。北は東海道で岩淵いわぶち村、西は同蒲原かんばら宿(現蒲原町)に通じる。永禄二年(一五五九)一二月二七日の今川氏真判物写(朝比奈文書)によると、朝比奈千世増に安堵された所領のなかに「蒲原六郷之内中郷鑰穴青嶋」とみえ、蒲原郷に含まれた。鑰穴かぎあな(鍵穴)は当村枝郷。

江戸時代の領主の変遷は岩淵村に同じ。安政二年(一八五五)の願書控(若槻家文書)によれば、慶長年間(一五九六―一六一五)には七五七石余であったが、万治年間(一六五八―六一)に富士川本流が西に一千間余移動したため(富士川左岸にいわゆる雁堤が築堤されたためと推定される)、一八〇石余の耕地を失ったという。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]多治見市白山町はくさんちよう音羽町おとわちよう若松町わかまつちよう栄町さかえまち田代町たしろちよう前畑町まえばたちようひかりおか明和町めいわちよう金岡町かなおかちよう西坂町にしさかちよう旭ヶ丘あさひがおか美山町みやまちよう

長瀬ながせ村の西、土岐川北岸にあり、西を大原おおはら川が南流する。ほぼ南北に細長く、北側の山地は長瀬村・当村の入会地慶長郷帳などでは池田いけだ村のうちで、平岡頼勝(徳野藩)領と酒井久三郎(のち尾張藩士)領となっていたとみられる。正保郷帳に村名がみえ尾張藩領、田高三六〇石余・畑高一三九石余。寛文四年(一六六四)酒井氏は改易となり以後尾張藩蔵入地となる。臼井本元禄郷帳では高六二一石余、うち幕府領(旧徳野藩領分か)一二一石余、尾張藩領分四七八石余。文化七年(一八一〇)の幕府領分の村明細帳によると、田五町七反余・畑一町六反余、家数一四(うち高持一〇・水呑四)・人数六六、馬三。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]岡崎市中之郷町

岡崎城の西南、矢作川と菅生すごう川の合流点から南下し、矢作川の左岸に沿って六名むつな村・天白てんぱく村・赤渋あかしぶ村と続いて中之郷村に至る。東は牧御堂まきみどう村、南は上青野かみあおの村に接する。

天文六年(一五三七)松平八代広忠が伊勢から岡崎に復帰するにあたって大久保忠俊が功績あり、中之郷一〇〇貫の地の代官に任命されたという(岡崎市史)。また、本多宗信は中之郷の出身で刑部左衛門と称して家康に仕えたとある(碧海郡誌)

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]藤枝市なかごう

高田たかだ村の西に位置し、志太しだ郡に属する。村内を葉梨はなし川が南流する。観応二年(一三五一)三月二〇日の今川範国寄進状(円覚寺文書)に中郷とみえ、駿河守護今川範国は葉梨庄内上郷・中郷等の地頭職を鎌倉円覚寺に寄進している(→羽梨庄・葉梨郷。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に中之郷村之内と記され、一部が田中藩領、高二四一石余。寛永改高は四九二石余(駿河記)。寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)にも中郷村之内とあり、一部が同藩領であった。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]南知多町内海うつみ

北部は柿並かきなみ(現美浜町)境の丘陵で南は平地となり、内海川の西岸に集落があり、北脇きたわき馬場ばんば両村と混在する。「寛文覚書」によれば、概高四三八石余、田地一八町二反余、畑地一二町一反二畝余、塩浜一町一反一畝余、家数五二、人口三一〇。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。「徇行記」によれば、北脇村・馬場村と田畝が入組み「平衍ノ地ニシテ日ウケヨク良田」で、酒屋一戸、鍛冶屋四戸、水油屋二戸があって油は伊勢・三河へ積送る。また索麺屋二戸、菓子屋が一戸あり須佐すさ師崎もろざき篠島しのじま日間駕島ひまかじまに売るとある。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]池田町大字中鵜なかう 中之郷

現池田町の南端で、高瀬たかせ川の沖積地に位置し、周辺は水田地帯となっている。村居は古くは東方の段丘上にあったという。

中之郷の名は、古代の前科さきしな郷や中世の前見さきみ庄の中心となった郷、すなわち本郷であるとの見方が有力である。従って、十日市場とおかいち六日市場むいかいちばはこの庄によった地名と推考される。

中之郷の名は、天正六年(一五七八)の下諏訪春秋両宮御造宮帳に「秋宮瑞籬弐間、外籬九間、春宮外籬五間、右造宮仁科之内」として仁科にしなのうちの五ヵ郷をあげている中に、「中之郷」とあるのを初見とし、諏訪大社下社の造宮所役が課せられていたことがわかる。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]静岡市中ノ郷

安倍川下流右岸、足久保あしくぼ川と内牧うちまき川に挟まれた地域の山麓に位置し、南東は遠藤えんどう新田。寛永九年(一六三二)幕府領、正徳二年(一七一二)建穂たきよう寺領となったという(美和郷土誌)。明治初期に同寺が廃寺になったため、旧高旧領取調帳では静岡浅間神社領。元和元年(一六一五)には高二二石余(「中之郷村卯御年貢可納事」鈴木家文書)。延宝九年(一六八一)の田畑差出(同文書)では高六一石余、田畑屋敷六町七反余。

中之郷村
なかのごうむら

[現在地名]西春町中之郷

東を石橋いしばし村、南を下之郷しものごう(現春日村)、西を落合おちあい(現春日村)、北を宇福寺うぶくじ村と接する。猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書のうちの包紙に「朝日中郷返状到嘉元々十一月□九日□□□□□□□□□□使 朝日中郷公文橘兼末請文」とあるのは、この村のことであろう。寛文一一年(一六七一)には家数四九、男一六八人・女一四八人(寛文覚書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報